陽菜から蓮との交際を告げられてから数日。その衝撃は、鈍い痛みとなって胸の奥に居座り続けていた。学校では陽菜と顔を合わせないように細心の注意を払い、家に帰れば自室にこもって、イヤホンで大音量の音楽を聴くか、ただぼんやりと、机に置かれたカメラを眺めていた。そんな日々。現像した陽菜の写真を見る勇気は、まだなかった。

 週末の土曜日、俺は重い身体を引きずるようにして家を出た。目的もなく電車に乗り、都心部にある『キネマ通り』で降りる。ミニシアターや古書店、レコードショップが軒を連ねる、少しだけ時間の流れが違うような雰囲気の通りだ。俺はこの通りの空気が好きで、時々、あてもなくぶらつくことがあった。

 通りの外れにある、古びた喫茶店『琥珀』のドアを開ける。珈琲の香りと、微かに漂うタバコの匂い。カウンター席の隅に、既に先客がいた。

「よう」
 声の主は、藤井樹。黒縁眼鏡の奥の、どこか醒めたような瞳がこちらを向いた。樹とはクラスは違うが、写真と音楽の趣味が合い、たまにこうして会って話す仲だ。今日も、特に約束をしていたわけではないが、どちらかがこの店にいれば、もう片方もふらりと現れる、そんな暗黙の了解のようなものがあった。

「……おう」
 俺は短く返事をして、樹の隣の席に座る。マスターにブレンドを注文し、黙ってコーヒーをすすっている樹の横顔を盗み見た。彼は、相変わらず何を考えているのかよく分からない表情をしていたが、俺がいつもと違う空気を纏っていることには、きっと気づいているのだろう。

「……なんか、面白い映画やってたか?」
 沈黙に耐えかねて、俺が尋ねる。
「別に。今日はパスだ」
 樹は短く答えると、コーヒーをテーブルに置き、視線をこちらに向けた。
「それより、お前……」
「……なんだよ」
「顔色、悪いぜ。ちゃんと寝てるか?」
 図星を突かれて、言葉に詰まる。
「……まあ、それなりには」
「ふーん」
 樹はそれ以上追及せず、運ばれてきた俺のコーヒーカップに視線を落とした。
「写真の方はどうだ? 最近、なんか撮ったのか?」

 その問いに、胸がちくりと痛んだ。河川敷であの風景を撮って以来、俺は一度もカメラのシャッターを切れていなかった。いや、正確には、切る気になれなかったのだ。

「……いや、別に。撮りたいもんも、特にないし」
 嘘ではない。けれど、本当の理由でもない。樹は俺の言葉を聞くと、ふっと息を吐いた。
「お前が撮りたいもんがない、ね。珍しいな」
 そして、少し間を置いてから、静かに続けた。
「……お前が撮る写真、最近ピントが甘いぜ。今のお前の心と同じじゃないのか」

 ドキリとした。樹には、いつもこうだ。核心を、さりげなく、しかし的確に突いてくる。
「……うるさいよ」
 俺は悪態をつくのが精一杯だった。
 樹は、そんな俺の反応を気にする様子もなく、窓の外に視線を向け、呟くように言った。
「……まあ、ピントが合わない時も、シャッターは押しとかないと、二度と撮れない景色もあるけどな」

 その言葉が、重く、深く、俺の心に突き刺さった。
 二度と撮れない景色。それは、陽菜の笑顔のことか。それとも、変わりゆく俺たちの関係性のことか。あるいは、このどうしようもない、今の俺自身の心の有り様のことか。
 樹の言葉は、俺が目を背けていた現実を、否応なく突きつけてきた。

 コーヒーは、いつものように少し苦かった。
 自分の気持ちを自覚し、それが叶わないことも知った。けれど、じゃあどうすればいいのか。樹の言うように、ピントが合わないままでもシャッターを押し続けるべきなのか。それとも──。
 答えは、まだ見つかりそうになかった。ただ、この鈍い痛みと、行き場のない感情を抱えたまま、時間は過ぎていく。長くて苦しい季節が始まろうとしていた。