二月も半ばを過ぎた。街にはまだバレンタインデーの華やいだ雰囲気が残っていたけれど、俺の心は、蒼葉市の空と同じように、どんよりと曇ったままだった。あの日、駅ビルで陽菜と蓮の姿を見てしまってから、俺は意識的に陽菜を避けるようになっていた。朝、エレベーターで一緒になりそうなら階段を使う。帰り道も時間をずらすか、違うルートを選ぶ。そんな子供じみた真似をしている自分に嫌気が差しながらも、どうしようもなかった。陽菜のあの楽しそうな笑顔を、もう一度見てしまうのが怖かったのだ。

 そんなある日の夕方。学校からの帰り道、駅の改札を出てマンションへ向かっていると、前方に見慣れた後ろ姿を見つけた。陽菜だ。今日は避けられなかったか、と諦めて、気づかないふりをして通り過ぎようとした。

「あっ、湊! 待ってよー!」

 しかし、あっさりと呼び止められてしまう。振り返ると、陽菜が小走りに駆け寄ってきた。手には、有名パティスリーのロゴが入った小さな紙袋を提げている。

「もう、なんで無視するのよー」
「……いや、気づかなかっただけだよ」
 嘘をつく。陽菜は少し頬を膨らませたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「ふーん? まあいいや。ねえ、ちょうどよかった! 湊に話したいことあったんだよね」
「……話?」
 嫌な予感が、胸の奥を冷たく撫でた。

 マンションに着き、二人でエレベーターに乗り込む。他の住人の姿はなく、狭い箱の中には俺たちだけだった。上昇ボタンが押され、扉が静かに閉まる。

「あのね」
 陽菜が、少し照れたような、それでいて嬉しさを隠しきれないといった表情で切り出した。手に持った紙袋を胸の前で抱きしめている。
「私さっ、蓮と……付き合うことになったんだ!」

 時が、止まったような気がした。
 エレベーターの動作音も、外の喧騒も、何も聞こえなくなった。陽菜の弾むような声だけが、やけにクリアに鼓膜を打つ。彼女は、頬をほんのり赤らめ、大きな瞳をキラキラさせながら俺の反応を待っている。

「……そう、なんだ」
 絞り出した声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「うん! なんか、バレンタインの日にね、ちゃんと告白してくれて……すごく嬉しかった」
「……へえ……よかった、じゃん? おめでとう」
 口ではそう言いながら、心の中はぐちゃぐちゃだった。おめでとうなんて、欠片も思っていない。黒い嫉妬の塊が、胃のあたりからせり上がってくるような感覚。

「ありがとう!」
 陽菜は、俺の心に吹き荒れる嵐になど全く気づく様子もなく、屈託なく笑った。
「蓮ね、すっごく優しいんだよ。私のこと、ちゃんと見ててくれるっていうか……。それに、なんかね、彼も色々あるみたいで……なんていうか、私が支えてあげたいなって思うんだ」
「……色々?」
 思わず聞き返すと、陽菜は少しだけ表情を曇らせたが、すぐに首を横に振った。
「ううん、なんでもない! とにかく、そういうことだから! 応援してよねっ」
「……ああ」
「じゃ、私こっちだから!」

 ちょうどエレベーターが目的の階に到着した。扉が開くと、陽菜は「またね!」と手を振り、自分の部屋へと駆けていく。俺は、その背中を見送ることもできず、ただその場に立ち尽くしていた。

 陽菜の姿が見えなくなり、しばらくしてからエレベーターを降りた。覚束ない足取りで玄関のドアを開ける。鍵をかけ、ドアに背中を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。全身から力が抜けていく。フローリングの冷たさが、コート越しにも伝わってきた。

(……終わった)

 何が、とは明確には分からない。けれど、何かが決定的に終わってしまった、という感覚だけが、確かな重みを持って胸にのしかかってきた。
 陽菜が誰かと付き合う。いつかは来るかもしれないと思っていたことだ。けれど、それが現実になった時、自分がこれほどの衝撃を受けるとは、想像もしていなかった。

 どれくらいそうしていただろうか。重い身体を引きずるようにして立ち上がり、自室へ向かう。部屋の隅には、簡易的な暗室スペースがある。遮光カーテンを引き、赤いセーフライトだけを灯す。引き出しの奥から、以前撮りためていた陽菜の写ったネガを取り出した。

 印画紙をイーゼルの上に置き、ネガフィルムをキャリアにセットする。引き伸ばし機のスイッチを入れると、壁に陽菜の姿が逆さまに投影された。ピントを合わせ、露光時間を計る。

 現像液、停止液、定着液。
 薬品の独特な匂いが立ち込める中、俺は無心で作業を進めた。
 現像液に浸された白い印画紙の上に、徐々に像が浮かび上がってくる。

 最初は、小学生の頃の陽菜。まだ八重歯が目立つ、日焼けした笑顔。一緒に虫取りに行った時の写真だ。
 次は、中学生の頃。少し大人びて、制服姿で照れたように俯いている。文化祭の準備中に、こっそり撮った一枚。
 そして、高校に入ってからの陽菜。友達とふざけ合って、心からの笑顔を見せている。

 写真の中の陽菜は、どれも俺のよく知っている陽菜だった。けれど、それはもう、手の届かない過去の姿だ。浮かび上がってくる像を見つめながら、俺はようやく、自分の気持ちの正体を、痛いほど明確に自覚していた。

 これは、恋だったのだ。
 ずっと隣にいるのが当たり前すぎて、気づかないふりをしていただけだ。友情だとか、幼馴染だとか、そういう便利な言葉で誤魔化していただけで。
 陽菜の笑顔が、声が、仕草が、たまに見せる弱い部分が、たまらなく好きだったのだ。

 そして、その恋は、俺が自覚したこの瞬間に、終わりを告げたのだ。手遅れだった。告げることすら、もう許されない。

 定着液の中で揺れる、高校生の陽菜の笑顔が、やけに眩しく、そして残酷に見えた。