三月十五日、卒業式当日。蒼葉学園の体育館には、三百人を超える卒業生とその保護者たちが集まっていた。普段は自由な私服で溢れる校内も、今日ばかりは皆、いつもより少しだけ改まった服装をしていた。男子はスーツやジャケット、女子はワンピースや袴姿もちらほら見える。俺は、箪笥の奥から引っ張り出してきた、ほとんど着たことのない濃紺のブレザーに袖を通していた。ネクタイを締める指先が、緊張で微かに震える。
体育館のパイプ椅子に座り、厳かな式典の進行をぼんやりと眺める。校長先生の長い式辞。卒業証書授与で一人ひとり名前を呼ばれ、返事をして立ち上がる同級生たち。在校生代表の送辞。それらが、どこか現実感のない、遠い世界の出来事のように感じられた。周囲からは、時折すすり泣く声や、小さな囁き声が聞こえてくる。
俺の心臓は、朝からずっと落ち着きなく脈打っていた。今日、この式の後で、陽菜に話をしようと決めていた。何をどう話すかは、結局、昨夜もまとまらなかったけれど、それでも、伝えなければならない。そのことだけが、重く深く、俺の意識の底に沈み引っかかっていた。
視線を巡らせると、数メートル離れた前方の席に、陽菜の姿があった。今日は、淡いピンク色のワンピースに白いカーディガンを羽織っている。髪はハーフアップに結い上げられ、小さなパールのイヤリングが揺れていた。隣には莉子が座っていて、時折何かを囁き合ってはいるものの、陽菜の表情はどこか硬いように見えた。視線は宙を彷徨い、時折、伏せ目がちになる。俺の方を見ているわけではない。おそらく、少し離れた席にいる蓮の姿を探しているのだろう。
その蓮は、俺の斜め前の席に座っていた。黒いセットアップスーツを着こなし、相変わらずスマートな雰囲気だが、どこか上の空に見えた。卒業生代表の答辞が始まっても、彼は窓の外に視線を向けたままで、拍手もどこか儀礼的だった。彼にとっても、この卒業は、何か特別な意味を持っているのだろうか。それとも、ただ退屈しているだけなのか。俺には、彼の考えていることなど、到底分かりそうになかった。
やがて、式典は終わりを告げた。閉式の辞が述べられると、張り詰めていた空気が一気に緩み、体育館は卒業生たちの喧騒と解放感に包まれた。あちこちで「おめでとう!」という声が飛び交い、スマートフォンのシャッター音が鳴り響く。
俺は、人の流れに逆らうように、体育館の壁際に移動した。そこから、輪の中心で友人たちに囲まれている陽菜の姿を眺める。莉子たちクラスの中心グループのメンバーが、代わる代わる陽菜と肩を組んで写真を撮っている。陽菜は笑顔を浮かべてピースサインをしているが、その笑顔は、やはりどこかぎこちない。
やがて、蓮がその輪に加わった。誰かに促されたのか、陽菜と蓮が隣どうしに並ぶ。少し距離を置いて立つ二人に、カメラを持った莉子が「もっとくっついてー!」と声をかける。蓮は苦笑しながら陽菜の肩に手を置き、陽菜は一瞬、びくりとしたように見えたが、すぐに笑顔を作って蓮の方を向いた。パシャリ、とシャッターが切られる。そのツーショット写真を、俺はただ、胸の痛みと共に眺めていることしかできなかった。
「……行くんだろ?」
不意に、隣から声がかかった。見ると、いつの間にか樹が立っていた。彼も、黒いジャケットを着て、少しだけ改まった雰囲気だ。
「……ああ」
俺は短く答える。樹は、じっと俺の目を見た。黒縁眼鏡の奥の瞳は、全てを見透かしているかのようだ。
「覚悟は、できたか?」
「……たぶん」
「そうか」
樹はそれだけ言うと、ふっと口元を緩めた。
「ま、せいぜい頑張れよ」
そして、軽く俺の肩を叩くと、人混みの中へと消えていった。
樹の言葉が、鈍っていた決意を再び奮い立たせる。そうだ、覚悟はできたはずだ。
俺は、陽菜たちのグループから少し離れた場所に立ち、深呼吸を一つした。ちょうど友人たちとの写真撮影が一段落したようだった。
今しかない。
俺は、震える足で、陽菜の方へと歩き出した。
体育館のパイプ椅子に座り、厳かな式典の進行をぼんやりと眺める。校長先生の長い式辞。卒業証書授与で一人ひとり名前を呼ばれ、返事をして立ち上がる同級生たち。在校生代表の送辞。それらが、どこか現実感のない、遠い世界の出来事のように感じられた。周囲からは、時折すすり泣く声や、小さな囁き声が聞こえてくる。
俺の心臓は、朝からずっと落ち着きなく脈打っていた。今日、この式の後で、陽菜に話をしようと決めていた。何をどう話すかは、結局、昨夜もまとまらなかったけれど、それでも、伝えなければならない。そのことだけが、重く深く、俺の意識の底に沈み引っかかっていた。
視線を巡らせると、数メートル離れた前方の席に、陽菜の姿があった。今日は、淡いピンク色のワンピースに白いカーディガンを羽織っている。髪はハーフアップに結い上げられ、小さなパールのイヤリングが揺れていた。隣には莉子が座っていて、時折何かを囁き合ってはいるものの、陽菜の表情はどこか硬いように見えた。視線は宙を彷徨い、時折、伏せ目がちになる。俺の方を見ているわけではない。おそらく、少し離れた席にいる蓮の姿を探しているのだろう。
その蓮は、俺の斜め前の席に座っていた。黒いセットアップスーツを着こなし、相変わらずスマートな雰囲気だが、どこか上の空に見えた。卒業生代表の答辞が始まっても、彼は窓の外に視線を向けたままで、拍手もどこか儀礼的だった。彼にとっても、この卒業は、何か特別な意味を持っているのだろうか。それとも、ただ退屈しているだけなのか。俺には、彼の考えていることなど、到底分かりそうになかった。
やがて、式典は終わりを告げた。閉式の辞が述べられると、張り詰めていた空気が一気に緩み、体育館は卒業生たちの喧騒と解放感に包まれた。あちこちで「おめでとう!」という声が飛び交い、スマートフォンのシャッター音が鳴り響く。
俺は、人の流れに逆らうように、体育館の壁際に移動した。そこから、輪の中心で友人たちに囲まれている陽菜の姿を眺める。莉子たちクラスの中心グループのメンバーが、代わる代わる陽菜と肩を組んで写真を撮っている。陽菜は笑顔を浮かべてピースサインをしているが、その笑顔は、やはりどこかぎこちない。
やがて、蓮がその輪に加わった。誰かに促されたのか、陽菜と蓮が隣どうしに並ぶ。少し距離を置いて立つ二人に、カメラを持った莉子が「もっとくっついてー!」と声をかける。蓮は苦笑しながら陽菜の肩に手を置き、陽菜は一瞬、びくりとしたように見えたが、すぐに笑顔を作って蓮の方を向いた。パシャリ、とシャッターが切られる。そのツーショット写真を、俺はただ、胸の痛みと共に眺めていることしかできなかった。
「……行くんだろ?」
不意に、隣から声がかかった。見ると、いつの間にか樹が立っていた。彼も、黒いジャケットを着て、少しだけ改まった雰囲気だ。
「……ああ」
俺は短く答える。樹は、じっと俺の目を見た。黒縁眼鏡の奥の瞳は、全てを見透かしているかのようだ。
「覚悟は、できたか?」
「……たぶん」
「そうか」
樹はそれだけ言うと、ふっと口元を緩めた。
「ま、せいぜい頑張れよ」
そして、軽く俺の肩を叩くと、人混みの中へと消えていった。
樹の言葉が、鈍っていた決意を再び奮い立たせる。そうだ、覚悟はできたはずだ。
俺は、陽菜たちのグループから少し離れた場所に立ち、深呼吸を一つした。ちょうど友人たちとの写真撮影が一段落したようだった。
今しかない。
俺は、震える足で、陽菜の方へと歩き出した。
