カフェでの一件から、陽菜は俺の前で蓮への不安を口にすることはなくなった。けれど、彼女が無理に明るく振る舞っているのは、誰の目にも明らかだった。時折見せる虚ろな表情や、スマホを握りしめる指先の力に、彼女の不安定さが滲み出ている。卒業式まであと三日。俺たちの間に横たわる問題は、何一つ解決しないまま、ただ時間だけが過ぎようとしていた。
学校からの帰り道、マンションのエレベーターホールで陽菜と鉢合わせになった。気まずい偶然。どちらからともなく乗り込むと、他には誰も乗ってこなかった。ステンレスの扉が閉まり、静かに上昇が始まる。
隣に立つ陽菜の気配を、嫌でも意識してしまう。俯き加減の横顔。きゅっと結ばれた唇。いつもなら軽やかにお喋りを始める彼女が、今日は一言も発しない。重い沈黙が、狭い空間に満ちていた。上昇を示すランプだけが、無機質に点滅を繰り返す。
耐えきれなくなったのは、陽菜の方だった。
「……ねえ、湊」
絞り出すような声。俺は、びくりとして顔を上げたが、すぐに視線を床へと落とした。
「……なんだよ」
「なんで、最近ずっと私を避けるの?」
その声は、僅かにだが震えていた。
「私が、何かした? 湊に嫌われるようなこと……私、何かした?」
違う。そうじゃない。お前のせいじゃないんだ。
喉まで出かかった言葉は、しかし、うまく音にならなかった。なんと説明すればいいのか。お前の恋人が信じられないとか、お前のことが好きで、隣にいるのが辛いなんて、今さらどうして言えるだろう。
俺が黙り込んでいると、陽菜の声がさらに切実さを増した。
「お願いだから、教えてよ! 理由が分からないのが一番辛いんだよ! 昔みたいに、普通に話してよ! 私たち……幼馴染なんでしょ?」
その言葉は、懇願のようにも、詰問のようにも聞こえた。陽菜の大きな瞳が、潤んでいるのが気配で分かった。
それでも、俺は言葉を紡げなかった。どんな言葉も、今の陽菜を傷つけるだけのような気がした。あるいは、自分の本心を知られるのが怖かったのかもしれない。
「……別に、避けてるつもりは……」
やっとの思いで絞り出したのは、またしても、そんな曖昧で、卑怯な言葉だった。
その瞬間、陽菜の中で何かが切れたのが分かった。
「別にって、何なのよ! いっつも湊はそればっかり! 湊のそういうところが、一番嫌い!」
感情的な声が、エレベーターの壁に反響する。陽菜の肩が、小刻みに震えていた。
「私が蓮のことで悩んでる時だって、湊は全然心配もしてくれないし! ただ黙ってるだけで! ……もう、いいよ。湊なんて、もう知らない!」
涙声で言い放つと、ちょうど目的の階に到着した。チン、という音と共に扉が開く。陽菜は、一度もこちらを振り返ることなく、エレベーターから飛び出していく。その小さな背中が、廊下の奥へと消えていくのを、俺はただ、呆然と見送ることしかできなかった。
再び扉が閉まり、エレベーターは俺だけを乗せてとどまり続ける。
陽菜の涙。怒り。悲しみ。そして、最後の「もう知らない」という言葉。それらが、遅れてやってきた衝撃波のように、俺の胸を激しく打ちつけた。
(最低だ……俺は、最低だ)
何も言えなかった。陽菜が一番辛い時に、寄り添うことすらできなかった。心配していないわけがない。どうしようもなく心配で、気が狂いそうなくらいなのに。それを伝える言葉すら、俺は持っていなかった。
ただ、自分の臆病さから、自分の感情から、逃げていただけだ。その結果が、これだ。陽菜を深く傷つけ、おそらくは、長年築いてきた二人の関係性すら、決定的に壊してしまった。
エレベーターの開くボタンを押し、重い足取りで降りる。自分の部屋にどうにかたどり着き、ドアを開けた。
部屋の中にいても、先ほどの陽菜の声が、涙が、脳裏に焼き付いて離れない。自己嫌悪で、吐き気がするほどだった。
このままではダメだ。
絶対に、このまま終わらせてはいけない。
自分の気持ちから逃げるのも、陽菜から逃げるのも、もう終わりにしなければ。
たとえ、どんな結果になろうとも。傷つくことになったとしても。自分の言葉で、伝えなければならないことがある。謝らなければならないことがある。
エレベーターの中での、陽菜の絶望したような顔。あの顔を、二度とさせてはいけない。
そのためなら──。
俺の中で、鈍い痛みを伴いながらも、強く決意した。それは、夜明け前の空のように、まだ暗く、不確かだったけれど、無視できないほどの確かな光を放ち始めていた。卒業式まで、あと三日。時間は、もうほとんど残されていなかった。
学校からの帰り道、マンションのエレベーターホールで陽菜と鉢合わせになった。気まずい偶然。どちらからともなく乗り込むと、他には誰も乗ってこなかった。ステンレスの扉が閉まり、静かに上昇が始まる。
隣に立つ陽菜の気配を、嫌でも意識してしまう。俯き加減の横顔。きゅっと結ばれた唇。いつもなら軽やかにお喋りを始める彼女が、今日は一言も発しない。重い沈黙が、狭い空間に満ちていた。上昇を示すランプだけが、無機質に点滅を繰り返す。
耐えきれなくなったのは、陽菜の方だった。
「……ねえ、湊」
絞り出すような声。俺は、びくりとして顔を上げたが、すぐに視線を床へと落とした。
「……なんだよ」
「なんで、最近ずっと私を避けるの?」
その声は、僅かにだが震えていた。
「私が、何かした? 湊に嫌われるようなこと……私、何かした?」
違う。そうじゃない。お前のせいじゃないんだ。
喉まで出かかった言葉は、しかし、うまく音にならなかった。なんと説明すればいいのか。お前の恋人が信じられないとか、お前のことが好きで、隣にいるのが辛いなんて、今さらどうして言えるだろう。
俺が黙り込んでいると、陽菜の声がさらに切実さを増した。
「お願いだから、教えてよ! 理由が分からないのが一番辛いんだよ! 昔みたいに、普通に話してよ! 私たち……幼馴染なんでしょ?」
その言葉は、懇願のようにも、詰問のようにも聞こえた。陽菜の大きな瞳が、潤んでいるのが気配で分かった。
それでも、俺は言葉を紡げなかった。どんな言葉も、今の陽菜を傷つけるだけのような気がした。あるいは、自分の本心を知られるのが怖かったのかもしれない。
「……別に、避けてるつもりは……」
やっとの思いで絞り出したのは、またしても、そんな曖昧で、卑怯な言葉だった。
その瞬間、陽菜の中で何かが切れたのが分かった。
「別にって、何なのよ! いっつも湊はそればっかり! 湊のそういうところが、一番嫌い!」
感情的な声が、エレベーターの壁に反響する。陽菜の肩が、小刻みに震えていた。
「私が蓮のことで悩んでる時だって、湊は全然心配もしてくれないし! ただ黙ってるだけで! ……もう、いいよ。湊なんて、もう知らない!」
涙声で言い放つと、ちょうど目的の階に到着した。チン、という音と共に扉が開く。陽菜は、一度もこちらを振り返ることなく、エレベーターから飛び出していく。その小さな背中が、廊下の奥へと消えていくのを、俺はただ、呆然と見送ることしかできなかった。
再び扉が閉まり、エレベーターは俺だけを乗せてとどまり続ける。
陽菜の涙。怒り。悲しみ。そして、最後の「もう知らない」という言葉。それらが、遅れてやってきた衝撃波のように、俺の胸を激しく打ちつけた。
(最低だ……俺は、最低だ)
何も言えなかった。陽菜が一番辛い時に、寄り添うことすらできなかった。心配していないわけがない。どうしようもなく心配で、気が狂いそうなくらいなのに。それを伝える言葉すら、俺は持っていなかった。
ただ、自分の臆病さから、自分の感情から、逃げていただけだ。その結果が、これだ。陽菜を深く傷つけ、おそらくは、長年築いてきた二人の関係性すら、決定的に壊してしまった。
エレベーターの開くボタンを押し、重い足取りで降りる。自分の部屋にどうにかたどり着き、ドアを開けた。
部屋の中にいても、先ほどの陽菜の声が、涙が、脳裏に焼き付いて離れない。自己嫌悪で、吐き気がするほどだった。
このままではダメだ。
絶対に、このまま終わらせてはいけない。
自分の気持ちから逃げるのも、陽菜から逃げるのも、もう終わりにしなければ。
たとえ、どんな結果になろうとも。傷つくことになったとしても。自分の言葉で、伝えなければならないことがある。謝らなければならないことがある。
エレベーターの中での、陽菜の絶望したような顔。あの顔を、二度とさせてはいけない。
そのためなら──。
俺の中で、鈍い痛みを伴いながらも、強く決意した。それは、夜明け前の空のように、まだ暗く、不確かだったけれど、無視できないほどの確かな光を放ち始めていた。卒業式まで、あと三日。時間は、もうほとんど残されていなかった。
