一月の冷たい空気が、高層マンションのガラス窓を吐息で白く曇らせた。林立するビル群の向こう側、わずかに覗く空は暗く重たい鉛色だ。ここ、|蒼葉市白鷺台地区も、冬の朝特有の静けさに包まれている。俺、相川湊は、飲み干したインスタントコーヒーのマグカップをシンクに置き、自室の窓から外を眺めた。視線の先、マンションの隣の棟には、見慣れた部屋の窓枠が見える。カーテンはまだ閉まったままだった。
「……そろそろ、か」
呟き、壁に掛けた黒いチェスターコートを羽織る。無造作に教科書やノートを詰め込んだリュックを背負い、玄関のドアを開けた。ひんやりとした廊下を歩き、エレベーターの下降ボタンを押す。チーン、という軽い音と共に扉が開くと、そこには予想通りの人物が立っていた。
「あっ、湊。おはよー」
幼馴染の広瀬陽菜が、スマホの画面から顔を上げて軽く手を振る。アッシュブラウンに染めたボブヘアが、動きに合わせてさらりと揺れた。
「……んっ。おはよ、陽菜」
意識して、普段通りの声を出す。けれど、喉の奥が少しだけひりつくような感覚があった。エレベーターに乗り込むと、陽菜の使っている甘いフローラル系の香水の匂いがふわりと鼻をかすめた。
「今日、めっちゃ寒くない? なんか予報より寒い気がするんだけど」
陽菜が白いダウンジャケットの襟元をきゅっと合わせながら言う。
「ああ、まあな。風も強いみたいだしな」
「だよねー。マフラーしてきて正解だったわ」
当たり障りのない会話。エレベーターが下降していく数十秒が、妙に長く感じられる。昔は、この狭い空間でも、もっと他愛ない、どうでもいい話で笑い合えていたはずなのに。いつからだろう。陽菜と二人きりになるのが、こんなにも息苦しくなったのは。陽菜はすぐにスマホに視線を戻し、細い指で画面の上を滑らせていく。俺はその横顔を盗み見ることもできず、ただ、点灯する階数表示を無表情に見つめていた。
エントランスホールを抜け、自動ドアが開くと、予報通りの冷たいビル風が容赦なく吹き付けてきた。
「うわっ、さむ!」
陽菜がマフラーに顔を埋める。俺はコートのポケットに両手を深く突っ込んだ。
駅までの道。陽菜は俺の少し前を歩きながら、昨夜見たドラマの話や、クラスの友達の噂話などを、いつものように早口でまくし立ててくる。俺は「へえ」とか「そうなんだ」とか、短い相槌を打つのが精一杯だった。並んで歩く気になれず、自然と半歩ほど後ろを歩いてしまう。シャッターが下りたままの古い個人商店が並ぶ道を抜け、再開発された駅前のロータリーが見えてくる。朝のラッシュアワーが始まろうとしていた。
ホームに滑り込んできた私鉄の電車は、予想通りの混雑ぶりだった。ドア付近に乗り込むと、人の波にぐっと押し込まれる。気づけば、すぐ隣に陽菜が立っていた。肩が触れ合いそうな距離。俺は咄嗟に視線を逸らし、網棚の広告に目を向けた。彼女の体温が伝わってくるような気がして、心臓が嫌な音を立て始める。耳にワイヤレスイヤホンを押し込み、再生ボタンを押した。好きなインディーズバンドの、少しだけ感傷的なメロディが流れ出す。ノイズキャンセリング機能が、周囲の喧騒と、自分の内側のざわめきを無理やり遮断してくれたような気がした。
電車が都心近くの乗り換え駅に着くと、人の流れが一気に変わる。陽菜は「あ、莉子! おはよー!」と、ホームで待っていた友人を見つけ、ぱっと笑顔になって駆け寄って行った。俺は、その背中をただ黙って見送る。声をかけるタイミングなんて、掴むことができなかった。
私立蒼葉学園の校門をくぐる。制服のない自由な校風。生徒たちは、最新の流行を取り入れた思い思いの服装で、楽しそうに談笑しながら校舎へ向かっている。その華やかな空気から、自分だけが浮いてしまっているような気がした。
教室に入ると、陽菜は既に、中村莉子たちクラスの中心グループに囲まれていた。弾けるような笑い声が聞こえてくる。俺は自分の席──窓際の、一番後ろから二番目──に鞄を置き、静かに腰を下ろした。読みかけの文庫本を開くが、数行も進まないうちに、無意識に視線が陽菜のいる方へ向かってしまう。彼女が楽しそうであればあるほど、胸のどこかが小さく、鈍く痛んだ。
チャイムが鳴るまでの数分間、俺は窓の外に広がる、どこまでも続く都会のビル群を眺めていた。空は高く、冬の光は弱々しい。
(隣にいるのに、こんなに遠いなんてな……)
昨夜、寝る前に見た、陽菜の部屋の窓から漏れる暖かい光を思い出す。ベランダの仕切り板一枚隔てただけの距離。それなのに、そこには、まるで分厚いガラスでもあるかのように、決して越えられない境界線が存在している気がした。
「……そろそろ、か」
呟き、壁に掛けた黒いチェスターコートを羽織る。無造作に教科書やノートを詰め込んだリュックを背負い、玄関のドアを開けた。ひんやりとした廊下を歩き、エレベーターの下降ボタンを押す。チーン、という軽い音と共に扉が開くと、そこには予想通りの人物が立っていた。
「あっ、湊。おはよー」
幼馴染の広瀬陽菜が、スマホの画面から顔を上げて軽く手を振る。アッシュブラウンに染めたボブヘアが、動きに合わせてさらりと揺れた。
「……んっ。おはよ、陽菜」
意識して、普段通りの声を出す。けれど、喉の奥が少しだけひりつくような感覚があった。エレベーターに乗り込むと、陽菜の使っている甘いフローラル系の香水の匂いがふわりと鼻をかすめた。
「今日、めっちゃ寒くない? なんか予報より寒い気がするんだけど」
陽菜が白いダウンジャケットの襟元をきゅっと合わせながら言う。
「ああ、まあな。風も強いみたいだしな」
「だよねー。マフラーしてきて正解だったわ」
当たり障りのない会話。エレベーターが下降していく数十秒が、妙に長く感じられる。昔は、この狭い空間でも、もっと他愛ない、どうでもいい話で笑い合えていたはずなのに。いつからだろう。陽菜と二人きりになるのが、こんなにも息苦しくなったのは。陽菜はすぐにスマホに視線を戻し、細い指で画面の上を滑らせていく。俺はその横顔を盗み見ることもできず、ただ、点灯する階数表示を無表情に見つめていた。
エントランスホールを抜け、自動ドアが開くと、予報通りの冷たいビル風が容赦なく吹き付けてきた。
「うわっ、さむ!」
陽菜がマフラーに顔を埋める。俺はコートのポケットに両手を深く突っ込んだ。
駅までの道。陽菜は俺の少し前を歩きながら、昨夜見たドラマの話や、クラスの友達の噂話などを、いつものように早口でまくし立ててくる。俺は「へえ」とか「そうなんだ」とか、短い相槌を打つのが精一杯だった。並んで歩く気になれず、自然と半歩ほど後ろを歩いてしまう。シャッターが下りたままの古い個人商店が並ぶ道を抜け、再開発された駅前のロータリーが見えてくる。朝のラッシュアワーが始まろうとしていた。
ホームに滑り込んできた私鉄の電車は、予想通りの混雑ぶりだった。ドア付近に乗り込むと、人の波にぐっと押し込まれる。気づけば、すぐ隣に陽菜が立っていた。肩が触れ合いそうな距離。俺は咄嗟に視線を逸らし、網棚の広告に目を向けた。彼女の体温が伝わってくるような気がして、心臓が嫌な音を立て始める。耳にワイヤレスイヤホンを押し込み、再生ボタンを押した。好きなインディーズバンドの、少しだけ感傷的なメロディが流れ出す。ノイズキャンセリング機能が、周囲の喧騒と、自分の内側のざわめきを無理やり遮断してくれたような気がした。
電車が都心近くの乗り換え駅に着くと、人の流れが一気に変わる。陽菜は「あ、莉子! おはよー!」と、ホームで待っていた友人を見つけ、ぱっと笑顔になって駆け寄って行った。俺は、その背中をただ黙って見送る。声をかけるタイミングなんて、掴むことができなかった。
私立蒼葉学園の校門をくぐる。制服のない自由な校風。生徒たちは、最新の流行を取り入れた思い思いの服装で、楽しそうに談笑しながら校舎へ向かっている。その華やかな空気から、自分だけが浮いてしまっているような気がした。
教室に入ると、陽菜は既に、中村莉子たちクラスの中心グループに囲まれていた。弾けるような笑い声が聞こえてくる。俺は自分の席──窓際の、一番後ろから二番目──に鞄を置き、静かに腰を下ろした。読みかけの文庫本を開くが、数行も進まないうちに、無意識に視線が陽菜のいる方へ向かってしまう。彼女が楽しそうであればあるほど、胸のどこかが小さく、鈍く痛んだ。
チャイムが鳴るまでの数分間、俺は窓の外に広がる、どこまでも続く都会のビル群を眺めていた。空は高く、冬の光は弱々しい。
(隣にいるのに、こんなに遠いなんてな……)
昨夜、寝る前に見た、陽菜の部屋の窓から漏れる暖かい光を思い出す。ベランダの仕切り板一枚隔てただけの距離。それなのに、そこには、まるで分厚いガラスでもあるかのように、決して越えられない境界線が存在している気がした。
