私たちの名前は

「おはよう藤井君」
「明星さん、おはよ」
「また教科書借りてもいい? 今日は現代文」

 藤井君と友達になったからといって、特別になにかが変わったわけではない。たくさんの人と関わることはまだ怖いし、藤井君には教科書を借りるという名目がないと会いに来られない。

「いいよ。ロッカーから取ってくる」

 だけど彼は気にせず、いつも教科書を貸してくれる。本当は忘れていないことがバレたら、どんな顔をするのだろう。

「明星さん? なんでまた藤井君と話してんの?」
「百瀬さん……」

 彼女が怒っているのは当然かもしれない。私は「近づくな」と言われたのに、友達になってしまったのだから。

「百瀬さん、あの、ごめんなさい。私、藤井君とはこれからも話したりしたい」
「え? なに? 堂々と狙う宣言?」
「違うよ。でも友達だから」

 声が少し震えた。

「はぁ? 友達って言えばいいと思ってんの?」

「思って、ないよ。でも藤井君のことは、大事にしたい、大切にしたいと思ってる。友達のことをそう思うのは……だめなこと、なの?」

「なにそれ……意味わかんない。とにかくあたしは」
「なに? 揉めごと?」

 藤井君の普段よりも少し低い声が、百瀬さんと私の間に入ってきた。

「藤井君! ううん。なんでもないよぉ」

 百瀬さんはすぐに甘い声を出したけれど、その顔は少し焦っている。

「明星さんと藤井君って仲いいねって話してたの。ね、明星さん」
「あ、うん……」

 気圧されて思わず同意してしまったけれど、態度の変わりようについていけない。

 好きはやっぱり恐ろしい。好きのためなら他人を攻撃したり、自分のことを平気で偽ったりする。


「ああ。俺たち友達だもんな」
 
 だけど、ニッと歯を見せた藤井君を見て、私はほっとした。

「うん。友達だね」

 私たちにつけた名前が、じんわりと心の奥に広がっていく。

「ふ、ふぅん。本当に仲いいんだね……あ、あたしトイレいってこよぉっと」

 百瀬さんが5組の教室を出ていくのを見て、はぁ、と息が漏れた、

「緊張した……」
「緊張? なんで?」
「人に意見を言うなんて久しぶりで……まだちょっとドキドキしてる」
「やっぱ揉めてたんじゃ」
「ううん。藤井君のおかげで揉めずに済んだ」
「俺? それってどういう」
「あ! チャイム鳴った! じゃあもう戻るね」
「えっ明星さ……」

 私はガヤガヤと騒がしい4組に戻り、席に座って一息ついた。

 さっき見た藤井君のぽかんとしている顔が珍しくて、思い出すとにやにやしてしまう。

 藤井君の何気ない言葉や行動が、私の心を軽くする。そんなふうに思っていること、藤井君はまったく知らないのだろうな。

 少し開いている窓から、さらりと風が流れてきた。外の桜はついに花びらがなくなってしまったけれど、緑の鮮やかな葉が茂り、新しい姿へ変わろうとしている。

「みんな席に着いてー」

 現代文の先生だ。朝から苦手な授業は嫌だなと思いつつ、リュックの中から教科書を出して、ようやく気がついた。

 藤井君に教科書を借りにいったのに、借りてくるのを忘れてしまった。