隕石は落ちなかった。
昨日おかしな先輩と長く話したせいか、そんなことで落ち込んでいる自分が怖い。絶対に落ちるはずがないと確信していたはずなのに、今日は酷く肩が重かった。
「伊月、行くよー」
「うん」
昼休み、お弁当どこで食べようかな。移動教室の間、前を行く紫音の背中にため息が零れる。
彼女とは朝から一度も会話を交わしていないし、目も合わせていない。そんな状況でも、いつも行動を共にするグループの子たちは変わらず声を掛けてくるので、紫音の甲高い声は今日も胸をざわつかせた。
私は元々あの大きな声が苦手だった。それは、グループのなかで誰よりも発言力があったからだ。声の通らない私は何度その発言に遮られたか分からない。
――いやいやそれはないでしょ。ねーちょっと聞いて、伊月あり得なくない?
周りの合意を巻き込む否定に、腹の底が震えたことだってある。対等だと思われていないのだと気づいたとき、私は諦めた。コレくらいの煮え湯は誰でも飲んでいるのだろうし、親友という名ばかりの関係もその辺にゴロゴロ落ちているだろうし――別に、彼女も悪いところばかりじゃない。
後悔しないように解決するのが美徳なら、私は汚れたまま卒業するだと思っていた。
もういっそ、壊しちゃえば?
適当で物騒なあの人の思い付きが、廊下を行く足を止める。
汚れたままだと言いながら壊すことを恐れた私は、心の片隅で平穏な日常を守っていたのかもしれない。死んだように生きていたいと願いながら、これまで自分を殺していたのは私自身だったのかもしれない。
「伊月? どした?」
足を止めた私を、隣を歩いていた友人が振り返る。前を行く紫音たちも同時に振り返ったのが分かった。
「ごめん。私、一人でいたい」
ドッドッ、と心臓が全身を叩く。悲しいけれど、死んだように生きられる人間なんていないのだ。
周りの目が温度をなくしていくのと反比例するように、体温は上がっていく。ハァ? と紫音が眉を顰めたのが見えて、ツカツカとこちらに向かってくるのが見えて、私は石にされたように固まった。
「――イツキちゃん、か」
その一言が耳の傍で響いた瞬間、私の体は反転させられ、廊下を駆ける。
なに? どういうこと? 何が起こってるの? 視界を沈めると自分の手首は誰かに掴まれていて、私の足は自分の意思とは無関係に動いている。それと、前に見える背中には見覚えがあった。
「あの……、先輩? 糸井先輩ですよね?」
階段を駆け上がる足元には三年生のブルーラインが入っているし、踊り場でチラリと見えた横顔は呆れるほど綺麗で、すらりと伸びる後姿は私が昨日手を振った背中に違いない。
彼は目的地まで振り返ることなく、沈黙を守ったまま私の手を引き続けた。
「せーかい」
解放と答えを同時に得た私は、正面で靡くブレザーに首を捻った。
「なんで屋上? てゆーか、立ち入り禁止なんじゃ……」
「授業中だし、さすがに学校抜けたらマズイっしょ」
どっちにしろマズイのでは。
強風にスカートと髪を押さえる私に構わず、先輩はどっこいしょと屋上の地べたに座る。ちょうど鳴り始めたチャイムを振り返ると、彼は卑しい笑顔で言った。
「どうする? 戻る?」
「……」
今更戻ったって、どうせ怒られるんだから意味ないし。
隣に座ると、どちらを選ぶのか最初から分かっていたみたいに満足げな表情で私を見据える。その背後には、この状況に似つかわしくないほど爽やかなスカイブルーが聳えていた。
青春アレルギーのくせに屋上へ攫うなんて、アオハル路線まっしぐらだ。
「強引すぎます。色々と」
息を溜めて吐き出すと、先輩は無機質な床に寝そべる。スカイブルーよりその鈍色の方がよく似合う。
「昨日言ったじゃん。またなって」
「言いましたけど……それにしたって急だし、絶対目立ってるし」
何せ、群衆から私を攫ったのは去年のミスターコンで優勝した糸井璃央だ。目立たない訳がない。
「それ言うなら、俺が連れ出す前から目立ってたよ。君たち」
「え?」
「人んちの前で、あんな堂々と孤立宣言すんだもん」
あの瞬間へ巻き戻されたみたいに心臓がドッと跳ねる。そういえばあそこは三年生の教室前だったっけ。
「それは……ご迷惑をおかけしました」
「別に、迷惑なんて掛けられてねぇけど。君たちの修羅場なんてどーでもいいし」
「はあ、そうですよね」
先輩にとっては私自身もどーでもいい存在なんだろうけど、それならどうして連れ出したりしたのか。この人が私に構う理由が分からない。たった一度、言葉を交わしただけなのに。
「分かち合う必要がないから」
「……え?」
彼の方を振り返ると、その瞳は空だけを虚ろに見据える。彼は一度閉じた唇を、もう一度静かに割った。
「君と俺は分かち合えなくてもいいって、多分互いに思ってる。思想が違っても興味の矛先が互いに向いていなくても多分なんとも思わない。そういう人間とちゃんと話せたの、初めてなんだよね。だから、もう一回会いたかった」
もう心の声が吸い取られることに驚きはない。だけど、彼の紡ぐ言葉に一つの社交辞令もないと信頼している自分に一番驚いた。「もう一回会いたかった」と放たれた言葉を反芻している自分に、もっと驚いた。
「“人は孤島になれない” って言葉、知ってる?」
空から移された視線に、不覚にもドキリとする。
「いえ……知らないです」
私もこの人に会いたかったのだと今になって思い知る。昨日感じた名残惜しさは気のせいではなかったんだと、昨日よりも強く吹く風が知らせる。
一人でいたいと告白したあのとき、本当は先輩が手を引いてくれたことに救われていた。
「人は誰も孤立しては生きていけない。人と関わらなければ生きていけない。って意味らしい」
名言を嘲るような先輩の声に、私は息を吸い込む。「分かち合う必要がない」と彼が紡いだ関係に抗うつもりはないけれど、思考が一致しているのだと確信したとき、高揚してしまうのはなぜだろう。
彼の隣に寝そべると、大らかな空が私を迎えた。さっき見た時よりも雲がたくさん流れている。
「少し、嫌な言葉ですね」
「うん。イツキならそう言うと思った」
イツキ――。顔を隣へ向けると、先輩は視線だけを寄越してほくそ笑む。
「名前。かわいいじゃん」
そういえば攫われる前にも、どさくさに紛れて「イツキちゃん」と呼ばれていた気がする。不意に食らった「かわいい」に顔を覆いながら息を吐く。
「教えてないのに」
「君の友達が言ってたの、盗み聞いただけだしね」
「……友達ね……」
もう友達ではなくなっているかもしれないけれど。心の中で付け加えながら手を下す。
この空だけを切り取ったら、私も孤島になれたような気がしてしまうのに。人と人との繋がりはそう簡単に切ることができないのが厄介だ。
「先輩は孤島になりたいですか」
「さあ、どうだろうね。なってみないと分かんねぇな」
なんじゃそりゃ。
「でも、人と関わらなければ生きていけないってのは窮屈だな。少なくとも俺は、その言葉に救われる側の人間じゃない」
「関わりたくないって、やっぱり思いますか」
先輩は知りたい?と口の端を持ち上げた。昨日の傷痕がまだ少しだけ残っている。
「俺、感情が薄いんだよね」
「……感情」
「そ。喜怒哀楽で言ったら楽だけは辛うじてある感じ。まあ感情って名のつくもんばっかでもねぇし、俺にも多少心が動くことはあるんだけど、冷酷無比だってドン引かれたこともあるくらい」
ドラキュラの線がまた濃くなってきた。少し距離を取ろうかなとも思ったけれど、先輩の横顔は不自然なほど無感情だったので、私は思わず息を呑んだ。彼の言うことは嘘ではないのだろうけど、今はわざと心を凍らせているように思えた。
いくら感情が希薄だとしても、冷酷無比と言われて何も感じないわけがない。
「いつか芽生えるだろうと思って女の子と付き合ってみても、上手くいった試しがないね。優しすぎてつまんないって言われたこともあるし、気持ちが伝わらないって怒られたこともある。この前は『残酷』だったっけな」
「この前って、昨日ですよね」
「ああ。聞かれてた?」
乾いた笑い声が一瞬、雲の流れを止める。
「“何でも笑って許してくれるけど、それって私に興味がないってことでしょ。璃央の優しさの理由はその裏返しなんだよ”――ってさ」
璃央は優しいけど、最後まで残酷なんだね。
あのとき聴こえた言葉の意味を、彼は淡々と打ち明ける。きっと彼女は、自分と同じように感情を揺らして欲しかったのだろうと彼は言った。
「たとえ恋人が浮気をしても、親が死んでも、俺は哀しいと思える自信がない」
凍ったままの声が空を突く。
私には解らなかった。昨日と今日だけで、私のなかでいくつの感情が蠢いていたか分からない。恭介に対する失望も、紫音に対する苛立ちも、自分自身への疑念も、大きく渦を巻いてまだ心のなかにいる。殺したくても殺すことのできない感情が憎くて憎くて仕方ない。
「私と先輩は、真逆なんですね」
死んだように生きたい私は、感情を無にして面倒な人間関係を終わらせたい。周りと同じ人間だと実感したい先輩は、きっと明確な感情が欲しい。
「ハハッ、そーだな」
でもイツキになったら面倒くさそうだわ。失礼なセリフを吐いて起き上がった背中は、昨日とは少し違って見える。彼自身が気付いていないだけなのか、無意識に押し込めているのかは分からないけど、私には冷酷無比とは思えなかった。
だって、先輩に掴まれた手首にはまだ熱が残っている。
「――人それぞれだと思います」
上体を起こすと、目線が同じ位置で交わる。
「私の、お守りみたいな言葉です」
そう言うと、先輩は目を逸らさないまま喉を鳴らす。そして笑った。
「いいな、それ」
「でしょ?」
「……あと、それもいい」
「え?」
「タメ口。敬語やめたら?」
急に覗き込むので、目が逃げる。
「い、嫌です……。一応先輩ですし」
「ま、学校にいる間はな」
そうだ。先輩は三年生で、来年の春になったら卒業する。
昨日とよく似た緑風が背中を撫でて、その後を追うように髪が靡いた。
「“人は孤島になれない” って、本当みたいですね」
「ん?」
「私、先輩とこうやって話せなくなるの、けっこう嫌です」
たった二日、交わしたのは数時間にも満たない会話。それなのに、分かち合わなくても良いこの人との時間が自分の中で大きくなっていることに気が付く。
血は吸わない代わりに、気持ちを吸ってくる可笑しな人。真逆なのに、どこか噛み合う不思議な人。私のお守りを良いと言ってくれた人。この人を置いて孤島になるのは、少し勿体ない。
「俺が好きってこと?」
「いいえ」
「秒速じゃん。……ああ、そういや彼氏いたっけ」
宙を見つめながら言う先輩にもう一度同じ返事をすると、彼は目を瞠って振り返る。
「は? もう別れたの?」
「昨日、ラインで」
「ぶっ壊しすぎだろ」
デストロイヤーだな。と失礼なあだ名をつける先輩に口を尖らせる。
全てを吐き出して、無理に分かち合う必要なんてないと共感したのはそっちじゃないか。
「紫音たちにも知られたら……さっき先輩に攫われたところも見られてるし、ちょっと変な噂になるかもしれませんけど」
「ふーん」
「否定してくださいね。面倒だと思いますけど」
「あー。気が向いたらな」
先輩は背伸びをしながら立ち上がると、昨日よりも少し埃っぽい風が春の終わりを告げる。
次の春がこんなにも近くに感じたのは初めてだ。
「口にする言葉は大事なんです。面倒くさがらないでください」
「えー」
拗ねたように息を吐いた先輩は「しゃーねーなぁ」と笑った後、口元を手の甲で軽く拭う。
まだ塞ぎ切っていない傷痕から、微かに緋い血が滲んだ。
