「生理痛がひどくて。本当ごめんね」
放課後デートを断った。
付き合って半年になる恭介は、お手本のようなリアクションで私を心配してくれた。数少ない部活の休みを空けてくれていたのに。申し訳なさで胸が締め付けられた。
だけど、罪悪感を上回るくらい今月は特に酷い。こんな時に限って体育はハードだし、移動教室が多かったせいで薬を飲むタイミングも遅れてしまったし、授業中にお腹は壊すし、世界はもうお終いだ。なんて、誰のせいでもないことで延々イライラしている体を今すぐ投げ出したい気分だった。
私はさっき飲んだばかりの錠剤の行方を気にしながら、下腹部を摩る。
生理がきたのは小六の冬、修学旅行の前日だった。身長の伸びは周りよりも遅かったのに、初潮はクラスのなかでも早い方だった。保健体育で女の先生は『生理は大人に近づいた証だ』と、『当日はお赤飯が出てきたのよ』とわざわざ教えてくれたのに、うちのお母さんはあっさり、淡泊にナプキンの使い方を伝えるだけだった。
――人それぞれだから。
始まりも、終わりも、感じ方も。
淡々とそう言ったお母さんの言葉を今でもたまに思い出す。言われたときはピンと来なかったけど、修学旅行先でひっそりポーチを抱えてトイレに向かうとき、頭に過ったのはその言葉だった。
人それぞれだから “厄介” なんだよ。
口にはしなかったけど、お母さんが言いたかったのはそういうことだったのだと今なら分かる。
先月のことだ。人に会うのも何をするのも億劫で一日中ベッドに籠っていたとき、タイミング悪く部屋に入ってきた父親と衝突した。
――休みなんだから外で友だちと遊んできたらどうだ。大体なあ、大人になったら生理でも関係なく働かなきゃいけないんだぞ~。お父さんの会社でも、生理だからって理由で休んだ女性は見たことが無い。お父さんも昔はよく風邪をもらう体質だったし、辛いのは十分わかるけど、気を紛らわせることも大事だろう。ほら、あんまり籠ってると体に良くないぞ。
胸やけがした。腹に乗ったままの鉛を前後に揺すられている気分だった。そういえばお父さんが毎週観ていた“ダメな娘を更生させる熱血お父さん”が主人公のドラマは昨日が最終回だったっけ、と不意に思い出して苦笑した。
――じゃあ、会社の女性に言ってみたら? 『生理なのに休まず仕事して偉いですね』って。
背中で言った私にお父さんは「言えるわけないだろ。セクハラになる」と眉を顰めた。コッチだって言いたくないし、知られたくもない。
――恥じることじゃないんだから、しっかり伝えるべきだろう。伊月はまだ知らないだろうけど、ちゃあんと生理休暇っていう制度も会社にはある。理由が理由ならそういった制度をしっかり使うべきだと、お父さんは思うけどな。
父は私を諭すように言った。
仕事でしか関わりのない中年のおじさんに「いま生理中です」と申告するくらいなら、体に鞭を打ってでも働いた方がマシだと思うし、それは高校でも同じだ。プールの見学のときに味わう関心と懐疑心の混ざった視線は正直とても気持ち悪い。
結局、お父さんは私の更生を諦めたけど、晩御飯のときには「外に出てないのによく食べるなぁ」と感心した素振りで皮肉を浴びせた。こんな人が社会に溢れているのだとしたら、私の未来は真っ暗だ。
「最悪……」
昇降口で靴を取り出した瞬間、内側からどろりと剥がれ落ちる感覚に目を瞑る。さっき替えたばっかりなのに、タイミング悪すぎ。血のへばった腹の底から鈍色のため息が出る。
でもここが校内だったのは不幸中の幸いかもしれない。今からトイレに行っても次の電車には間に合うだろうし、溢れることを気に掛けて汚れたまま帰るよりも気分がいい。私は踵を返して鞄の中のポーチを探った。
「上原にこんなこと訊くの、申し訳ないんだけどさ」
トイレに向かう途中で、馴染みのある声が背中を撫でる。振り返ると、階段の踊り場に二つの影が伸びているのが見えた。顔は見えないけれど西日に照らされたシルエットは男女のもので、二人が誰なのかもすぐに判った。
男子の方は廣田恭介、女子の方は上原紫音――私の彼氏と親友だ。
「生理ってどんくらい辛いの?」
「えっ……、生理?」
紫音の声と共鳴するように私も目を見開いた。何を言い出すのかと思えば。
「いや、引くよな普通に。急にごめん」
「ううん、そんなことないけど……もしかして、伊月となんかあった?」
察しの良い紫音の言葉に、恭介は息を大きく吸う。
「実はさ、今日生理だからってデート断られちゃって。俺は全然いんだけど、今後のためにも伊月のこと知っておきたいなと思ってさ。上原は伊月とよく一緒に居るし、同じ女子としても何か分かんじゃないかと思って。ほら、普通のデートも難しいってかなり重症ってことだろ?」
「あー……確かに伊月って“重い”のかも。ドタキャンはないけど、それ理由に断られたことなら私もあるし」
「え、やっぱり?」
「同じ女子として気持ちはわかるからしょーがないけど。まあ労わってやんなよ、彼氏くん」
放課後の踊り場に響く二つの笑い声。世話焼きな彼氏の相談を親友がうまくかわしてくれたので、私は胸をなで下ろした。もし逆の立場で、友だちの彼氏からこんな相談を受けたとしたら、私は間違いなく苦笑を浮かべてしまうだろう。ここまで軽快に躱せる自信はない。
「けど伊月もすごいな。彼氏にそういうの、ちゃんと言うんだ」
……え、なんて?
感心してトイレに向かおうとした瞬間、足が止まる。ちゃんと、にアクセントを置いた紫音の声に肌がひりついた。
「ちゃんとって?」
「女子って大体さ、そういうの隠すじゃん?」
「え……あー……確かに、言われてみれば」
「でしょー? 私も今まで彼氏にそういうの一度も言えたことないんだよねー。つか、わざわざ言わないかも」
「言い辛いってこと?」
「そうそう。私は出来るだけ辛いの悟られないようにデートしてたし?」
「辛いのは辛いんだ」
「まあねー。けど、そんなにきつくないよ」
何かを蔑むような笑みを含んだ紫音の声が、私の指先に電流を流す。ドロリと再び内側が剥がれ落ちる感覚に冷や汗が滲んだ。恭介はしばらく黙った後、トーンを落として「そうなんだ」と息を吐いた。
伊月はどうして我慢してくれないんだ――。
幻聴が脳裏に響いた。
「デートは残念かもしれないけど、伊月は伊月でホントに体調悪いのかもしれないし。今回は大目に見てあげなよ?」
追い討ちをかけるように、親友の言葉は私を抉った。ホントに体調悪いのかもしれないし――その一言が示す真意に胸がムカムカと熱くなる。
まるで私がデートを断る口実で「生理だから」と打ち明けたかのような。まるで私の症状がどの程度か分かっているかのような。まるで私が男子にも平気で「生理だから」と吐き出せる汚物のような。私と違って、紫音は辛いときも我慢して相手を慮るイイ女だと謳うかのような。
彼女が放った一言は、私の心にもくもくと黒い煙を流し込んだ。
「だな。帰ったら連絡してみるよ。ありがとう」
助かったよ。そう加えた恭介の言葉に床を蹴って廊下を走る。
生理のせいで情緒が不安定になっているのか。悲しくなんてないのに、どうしてか涙が零れた。
