《伊藤導》

 光彩ちゃんは新しい布団にダイブして、うつ伏せのまま、動かなくなってしまった。
 ボクもシャワーを浴びてから、服を着て、部屋に戻ると、彼女の寝息が聴こえたので、布団を掛けてあげて、そのまま添い寝しようとした。
 ボクのスマートフォンが光り出して、バイブレーションがガラステーブルを小刻みに叩いた。蒼生ちゃんからの電話だった。
 「もしもし、蒼生ちゃん?」
 「ねぇ、死んでもいいかな?」
 動揺を隠せないまま、寝息を立てる光彩ちゃんから離れて、ソファーに腰を下ろす。
 「ダメだよ。まだ若いんだから」
 「死なせて、死にたいの」
 風の音が電話越しに聴こえた。外にいる。時刻は夜十時。死に場所を探しているのだろうか。
 「死にたい、死にたい死にたい死にたい」
 「蒼生ちゃん、今、どこにいるんだ?」
 真剣な声色を言葉に宿して、耳を研ぎ澄ます。
 「高校」
 「わかった」と言って、電話を切る。
 「ごめんね」と熟睡中の光彩ちゃんに囁いて、靴を持って、彼女の家を飛び出した。初夏の生ぬるい夜風が頬を撫でた。

《樹下蒼生》

 導くんしかいないと、やっとの思いで彼氏にしたのに振られるなんて。導くんとの生活ばかり頭に思い描いていたから、私のそばから彼が消えた途端にモノクロの人生になってしまった。
 市役所職員も手に職が付かなくて入ってすぐに休職しちゃったし、次の彼氏を探しても導くんと比べてしまう。
 もう一度、人生をやり直すには死ぬしかない。それが私の結論だった。

 死に場所を探して夜道をふらついていたら、高校に来ていた。
 包丁とか痛い死に方はしたくなかった。かといって線路の飛び込みとか迷惑を掛ける死に方も選びたくない。
 だったら餓死だ、と昨日の夜から水すら飲まずに何も口にしていない。それでも人間という生き物はそこまで脆弱ではなかった。二十四時間後の夜まで生きている。脱水症状で意識が朦朧としていたことさえも通り過ぎて、今は冴え切った脳が精神世界を見せていた。幻覚と幻聴で、もうあの世にいるのかと思ってしまうくらい五感が狂ってきた。
 死にたいはずなのに、導くんに救われる夢物語ばかりを願ってしまう。しゃがれた聲で「死にたい」と導くんに電話で連呼して、場所を訊かれて、高校と伝えた。
 私が息絶えるのが先か、導くんが救命するのが先か。
 ……もう、風景さえもピントが合わない。立つことも出来ずに校門の鉄柵にしがみついたまま、胃液を吐いた。髪がごっそり抜けた。それでも死ねない。

《伊藤導》

 高校までの一本道「森」は深夜になると人の気配は消えて、蟲の音に支配されて、鳥肌が腕を覆った。
 この先に蒼生ちゃんがいる。「死にたい」と連呼していた彼女の腐敗した心を変えられるかは正直自信がない。でも、ボクが振ったから、光彩ちゃんを選んでしまったから、彼女は死の淵に追いやられてしまったのだ。蒼生ちゃんはボクにしか救えない。
 深夜でも自動車は車道を駆けていて、ヘッドライトの燈りが時折闇を消した。昼でも代わり映えのしない風景は、夜になると先さえ見えず、どこまで歩いても無限に続く一本道に迷い込んだ気さえしてくる。
 タイミングは最悪だった。限界まで摩耗した下半身を必死に前へと動かす。立ち止まれば、きっと前進する勇気のゲージは奪われて、その場で蹲ってしまうだろう。膝の関節の中で鈍痛が弾ける。おまけに睡魔も襲っていて、目を瞑りたい衝動に抗いながら、ひたすらにがむしゃらに前進していた。
 曲がり角の小学校まで来たようだ。あと少しで高校に着く。奥から押し寄せる負のオーラがボクの接近を拒んでいる。ここまで来たのだから引き返すよりも会いに行ったほうが近い。
 バス停を通過した。擦り減った脚力も馬鹿力のエンジンを蒸かして、何度も倒れかけて、暴れる重心は死力を尽くして操作する。
 校門の鉄柵の前に蹲る制服姿の女性がいた。蒼生ちゃんだ。その姿を(まなこ)に映した瞬間、思わず立ち止まり、瞬く間に体力がこと切れて、膝が折れる。蹲る蒼生ちゃんと五メートルの距離でコンクリートに尻を付けて、膝小僧に顔を埋めていた。
 眼の奥が疼き出し、意識が消えていく。

《樹下蒼生》

 誰かの気配が耳を(かす)める。
 もしかして、導くん? 消えかけていた力が僅かに戻りかけて、その余力で私は気配に這い寄る。
 顔は見えないけれど、長い脚を見て、導くんだと分かる。微動だにしない。寝息も聞こえない。死んで、ないよね。
 近寄って膝を揺さぶる。人形のように動かない。目頭が熱くなって、頬を伝い、彼の美脚に滴る。滲んで見えなくなる視界を腕で拭う。歔欷(きょき)が溢れ出す。
 もう一度激しく揺さぶる。膝小僧から顔が離れて、頭をコンクリートに打ちつけた。導くんの白い顔。地面に仰向けになった彼からいびきが聞こえた。良かった。生きている。疲れて眠っちゃっただけみたい。
 背中に腕を回して上体を起こす。彼の胸に鼻を付けて、力いっぱい抱き締める。視界が涙に閉ざされる。
 「蒼生ちゃん?」
 導くんの声がして、零センチメートルの距離で見つめ合う。
 「見ないで」
 どうして本音と真逆の言葉が口を衝いて出てしまうのだろう。泣き腫らした私の顔は誰にも見られたくなかった。だけど、導くんだけなら見せられる。
 腹が鳴いた。あまりにも大きくて、これだけは彼に聴かれたくなかった。
 「もう、死にたいなんて言わない?」
 なんて罪な男なのだろう。このまま死なせてくれれば良かったのに。
 「うん」
 頬に水滴が触れた。
 雨の香りが鼻腔を掠める。無数の雨脚に踏みつけられて、制服が濡れていく。口許に垂れてくる雨を舌で舐める。ミネラルウォーターのように透き通った甘さで、下品だけど、口を開けて雨を飲んだ。獣に生まれ変わった気がした。
 白銀の糸雨(しう)が私と彼の身も心も一緒くたに縫っていく。
 「帰ろっか」
 よろめきながら立ち上がり、雨の闇夜を二人で歩き始めた。
「帰ったら、お腹いっぱい甘い物を食べたい。たらふく美味しいものを食べたい!」
「元気出てきたじゃん」
 導くんに肩を叩かれて、雨音に負けないくらい二人で笑い合った。