《伊藤導》

 元々、今日は喫茶店で執筆をする予定を入れていたから、光彩ちゃんの既読が付かなくても、ボクは出発した。
 「もし、光彩ちゃんが来てくれるとして、デートになるのだろうか」と浮かれた気分が独り言を誘発していた。
 ボクは光彩ちゃんとの未来か、蒼生ちゃんとの未来か、どちらかを選び、どちらかを捨てる日がいつか来るだろうと悟っていた。二人の女性を天秤に掛けたとき、どちらが好きかで選ぶなら、光彩ちゃんに傾いていた。でも、選ばなければならない使命感が蒼生ちゃんのほうへ傾かせているのも事実だった。

 大学の文芸学科でゼミナールの文芸雑誌に掲載する小説を一ヶ月後までに書き上げなければならなかった。
 プロットを書き殴ったノートと、ラップトップPCを開いて、初稿だし完璧に書く必要はないと言い聞かせて、タイピングの筆を走らせる。
 埼玉県がもしも絶海の孤島だったら、という架空の設定で青春小説を書いていた。タイトルは『クラムシーの独創』。不器用の英語はクラムジーだが、字面的に濁点を取った。
 高校生の恋愛を書いていたので、ボクは執筆しながら高校時代に思いを馳せていた。蒼生ちゃんではなくて光彩ちゃんをヒロインのモチーフにした。主人公のモチーフはボクだ。
 小説の世界にのめり込めばのめり込むほどに、蒼生ちゃんへの想いは薄れていって、代わりに光彩ちゃんへの想いが濃くなっていく。
 蒼生ちゃんとの結婚生活よりも、光彩ちゃんとの結婚生活のほうがより鮮明にイメージ出来た。
 今日をキッカケに光彩ちゃんへのシフトチェンジをしていきたいとさえ理想は膨らんでいた。

 アイスコーヒーのLサイズを注文したが、もうすぐ無くなりそうだ。光彩ちゃんが来たら、別の飲み物を頼めばいい。
 筆が乗ってきた。それと同時にスマートフォンがLINEのアイコンを燈した。開くと、光彩ちゃんからだった。
 『もうすぐ着くよ。もうコーヒー飲み終わっちゃったよね、ごめんね』
 『りょーかい。光彩ちゃんが来てから何か頼むよ』と返す。
 光彩ちゃんともうすぐ会えると考えるだけで浮かれてきて、筆が進まなくなった。シャットダウンしてスマートフォンを弄る。思わず笑ってしまう投稿が眼に入り、「何、笑ってるの? お待たせして悪い」という光彩ちゃんの声が降る。
 光彩ちゃんだ。本当に来てくれた。まぁ、友達だし。普通のことなのだけれど。
 「別に。そんな大したことじゃないよ」
 光彩ちゃんはベージュのフリルワンピースを揺らして、座るボクと立ったまま目線を合わせている。白黒のペンギンのショルダーポーチがチャーミングだった。髪はさっぱり目にカットされていて、触覚ヘアは健在だった。
 「導くん、何飲む? 同じのにしようかなって」
 「んじゃあ、アイスティーのストレートかな。サイズはMサイズで」
 「OK! それじゃ注文してくるね」
 「いってらっしゃい」

 友達の光彩ちゃんとどんなことを話そうか。蒼生ちゃんは話に出さないほうがいいのかもしれない。折角いないのだから。高校を卒業してから今、光彩ちゃんが何をしているのか訊きたい。二人分のアイスティーをお盆に乗せて運んできた彼女に早速訊いてみる。
 「春から美大の予備校に通ってるよ」
 「イラストレーターとか目指すの?」
 「なれたら……いいんだけど、絵が上手じゃなくて。だから予備校に通ってるんだけど、デザインには絵を描く才能も必要じゃん。だから……」
 「随分、自信なさげだね。自信持たなきゃ。ボクだって、なれるか分からない小説家目指してるから。ボクはいつかなれると思ってるよ。書き続けてるからね」
 光彩ちゃんは琥珀色に透き通り輝くアイスティーをストローで飲んだので、ボクも飲む。正直、お腹はタポタポだが、話していると喉が渇く。キュルルと腹が鳴いた。
 「これ、話すか迷ったんだけどさあ、話していいかな?」
 「何? 気になる。いいよ」
 光彩ちゃんはベージュのワンピースの皺を引っ張るように脚の上に手を置いて、座り直した。
 「実は、予備校で私、告白されてさ」
 モジモジと身を震わせてから、脚をぎゅっと閉じて「今、付き合ってるんだよね。でもさ」
 「そ、なんだ。光彩ちゃん可愛いからね」
 「でもさ、練習のつもり」
 「え、どいうこと?」
 「蒼生ちゃんには悪いんだけどさぁ。本命は導くんだから」
 ほっぺたを膨らましてアイスティーを飲む光彩ちゃんの顔が紅かった。

 スマートフォンのカバーの小窓にLINEのアイコンが燈る。誰からだろうか。好奇心で開くと、蒼生ちゃんだった。
 「導くん、今から会わない?」
 マズい。今は会えない。ボクが怪訝な顔でスマートフォンを弄っていると、光彩ちゃんが不安げに目を(しばたた)かせた。
 『今は無理。用事があって』と送ると二秒後に既読が付いた。
 機嫌を損ねたかもしれない。光彩ちゃんはさらに表情を一層暗くしてアイスティーを飲んでいる。
 蒼生ちゃんから三通の返信が来た。それは脅迫にも思えた。
 『あの子といるんでしょ?』
 『場所教えなさい。じゃないと』
 『縁を切るわよ』

 本当にマズいことになった。これだから女の勘は恐ろしい。
 「ねぇ、何かあったの?」
 光彩ちゃんが心配してくれている。取り敢えず早急に場所は伝えないと縁を切られてしまう。
 喫茶店の情報をLINEに貼った。
 蒼生ちゃんが来る前に光彩ちゃんを帰さないと修羅場になる。
 『今から向かう』と蒼生ちゃんから返信が来て、心が逸り出す。ここは単刀直入に伝えたほうが良さそうだ。
 「光彩ちゃんさ」
 「何?」
 「悪いんだけど、帰ってくれるかな、来たばっかりだけどごめん」
 「え? 何で? 私が帰らないといけないわけ?」
 二人も女を怒らせてしまった。男は女に色んな意味で弱い生き物だ。あたふたしていると、光彩ちゃんの憤怒の表情に不気味な微笑が混じった。口角を上げながら怒りを露わにしている。
 「実はさ、蒼生ちゃんもボクに会いたいみたいなんだ。友達より恋人優先だろ?」
 この言葉が火に油を注いだ。

《坊之園光彩》

 「友達より恋人優先? それじゃ、友達なんか一生作れないですよ。第一、私だって導くんの恋人のつもりなのに」
 (はらわた)が煮えくり返った汁を自ら吸っていると、眼から涙として出てきそうになってくる。
 「……」
 「だって、恋人ぐらい想ってくれなきゃ、友達にすらなれないじゃないですか」
 「……っ」
 「黙ってないで、何か言って!」
 「……いや、ボクは光彩ちゃんと友達でいたいと思っているよ。でも、蒼生ちゃんがそれをさせてくれないから」
 きっと導くんの胸中で愛と恋が火花を散らして正面衝突しているのだろう。どちらが愛でどちらが恋なのかわからないけれど、女の勘が示しているのは、私が恋で、蒼生ちゃんが愛。私への恋という生理的な衝動と、蒼生ちゃんから恋されている故に愛でもって応えなければならない愛の宿命の両極端な感情に優劣を付けないといけないのだ。どちらも優先順位を高くしていると、客観的に見て、浮気になる。
 誠実な導くんは浮気も避けたいし、恋も愛も選べないから、葛藤の正面衝突が彼の中で繰り広げられているのだ。
 その上、厄介なのが導くんの恋心は元両片想いだということ。そして、蒼生ちゃんが初めての彼女だから嫌われたくないのも痛いほど私には分かる。
 導くんの混沌としたうねりを持った葛藤を幾分緩やかな渦巻きの葛藤に変えてあげる方法はある。私が告白かラブコールをすればいい。略奪愛だ。その場合、蒼生ちゃんとの喧嘩は確定事項となるだろう。だから、まだ出来ない。
 自動ドアが開き、殺傷能力を秘めた一陣の気配の風が吹き、私は一瞥する。そこに居たのは大股で歩き、(けい)(がん)を光らせる明らかに喧嘩腰な、蒼生ちゃんだった。

《樹下蒼生》

 「私以外とデート?」
 優しい声を意識しても、憤慨の吐息が混じって、嫉妬が声色に滲み出ていた。光彩ちゃんは俯いている。導くんは私の気迫にすっかり凍てついていた。
 「いや、友達だから」
 彼の声からは黒鍵のメロディのような嘘の響きがした。
 「トモダチ? 光彩、友達なの?」
 光彩ちゃんを責めるつもりはない。でも、真偽を知りたい。
 彼女は席を立つ。
 「ごめん、私、帰るね」
 逃げるつもりだ。逃がすわけにはいかない。ゴールキーパーの気分で反復横跳びをして光彩ちゃんを通せんぼする。私のディフェンスに太刀打ち出来ずに、憐れな表情を浮かべる彼女を可哀そうと思った瞬間、私の内側に留めていた憎悪の蓋が開いた。周囲の客の顔にモザイクが掛かり、客の声もノイズキャンセリングされていく。輪郭も曖昧になって、ホワイトアウトした視界の中央にアーガイル柄のタイルが見える。鮮明に映るのは光彩ちゃんと導くんの二人の姿だった。開栓した感情の孔から噴き出した憎悪の毒ガスが私の理性を抹殺していく。
 「私の彼氏に二度と近づかないでくれる?」
 「じゃ……帰っても?」
 「良いわけないだろうが!」
 暴力を振るっては法に触れるので、振り上げた拳をお冷のコップに振り下ろし、テーブルに倒れたコップは水を嘔吐した。お客様、と女性の声が耳を通り抜ける。
 「おいおい、喧嘩なら外でやってくれ」
 男性客の声がして、息絶えた理性が蘇った。
 「すまないが他のお客様のご迷惑になることは控えて頂くとありがたい」
 優しそうな店長が心を鬼にして私に伝えてくれた。
 「ごめんなさい」
 三人してヒョコヒョコ平身低頭しながら、店を出た。

 曇天の果てで遠雷が鳴っている。
 店の外に出た途端、ペンギンのショルダーポーチを暴れさせて一目散に光彩ちゃんは逃げてしまった。空っぽになった憎悪が、悪目立ちした理性が、彼女を赦していた。
 それでも、どうしても導くんには制裁を加えたかった。
 通行人が散在する只中で、私は導くんの頬に平手打ちを食らわした。鳴り響いたその音があまりにも爽快で、荒んでいた心はすっかり快晴になったが、遠くの空で雷が落ちた。