《樹下蒼生》

 降り続いた雨の影響で部屋の湿度が急上昇している。
 ラップが肌を包むようなゾワつく湿気に生きる気力さえ奪われていた。雨が上がったかと思えば、脳が眩むほどの太陽の光に天は焼かれて、蒸し暑さに汗が止まらなくなり、六月の終旬にしてエアコンの電源を点けた。

 「もう、夏かぁ。そういえば約束したっけ?」と独りごちながらエアコンの前で伸びをする。
 スカイブルーの手帳を開き、予定の無い土曜日に目を付けた。
 導くんのLINEのトーク画面を開き、メッセージを打ち込む。
 『暑くてエアコン点けちゃった(汗の絵文字)そろそろ導くんと水族館に行きたいな(可愛い顔文字)今週末の土曜って空いてる??(両目の絵文字)』

 返信を待つあいだ、次の面接の暗記をする。志望動機など、質問を予測してその答えを暗記してから面接に臨まないと、頭が真っ白になるからだ。
 三冊目に突入した面接ノートを開く。テスト勉強同様に、もう一冊のノートで答えを隠して、口答してからノートをスライドして答えとの一致を確かめる。簡潔に話したほうが伝わりやすい上に、暗記しやすくするため、長文は避けた。
 「あなたの短所と長所を教えてください。短所はミステリアスな言動が他人に理解されにくいことです。長所はそのミステリアスな言動が『感性』となって人を惹き付けることです」
 「蒼生ちゃーん、お風呂掃除の時間よ」
 母親に呼ばれて面接ノートを閉じる。

 *

 風呂掃除を終えて、自分の部屋に戻ると、さっきまでのやる気はどこへやら。全く面接の暗記をする気にならず、スマートフォンを弄っていると、導くんからLINEが届いた。
 『土曜? 空いてるよ。ごめんごめん、ちょうど講義中でさ。返信遅くなっちゃった。じゃあ、今度の土曜、朝10時、東口いけふくろう前集合』
 大学の講義かぁ。文芸学科だから、小説でも書いていたのかな。了解のスタンプを押して『導くんと会えるの楽しみ! 明日の面接も乗り越えられそうだよ(ウインクの顔文字)』と送信した。
 面接ノートを開く。よし今日中に覚えなきゃ。面接に失敗したらショックでデートどころではなくなっちゃうからね。

《伊藤導》

 昨日の講義の内容はほとんど頭に入っていない。ノートも上手く取れなかった。蒼生ちゃんとの水族館デートのことで脳内のメモリーは満タンで、嫌われたらどうしよう、来なかったらどうしよう、寝坊したらどうしよう、などと粗方、杞憂になることばかり考えていた。それは池袋駅の東口を目指す通称チェリーロードを闊歩している今も同じだった。
 脇には池袋PARCO本館へと直結する自動ドアがボクらの導線を誘っている。蒼生ちゃんへのプレゼントを買うのも手だが、何も良案が思い付かない。
 待ち合わせ場所のいけふくろうは、夏なのに派手なデザインの緑色の毛糸のセーターを着飾っていた。相変わらず愛されている。

 蒼生ちゃんは居なかった。時刻は九時四十八分。まだ約束の時間ではなかった。それでもLINEがないので、本当に来てくれるのか、不安に駆られて落ち着いていられなかった。キョロキョロと視線を彷徨わせて、痒くないのに頭を搔いて、鼻で深呼吸をして、スマートフォンの時刻を何度も確認して、傍から見たら忙しなく映るだろうとは分かっていても、浮足立つ心を鎮められなかった。

 『池袋駅着いたよ』
 蒼生ちゃんからLINEが来た。了解のスタンプを送信してから、寝癖はないか頭を触った。爪は汚れていないか、伸びていないか、服に埃が付いていないか、視線を落とす。
 「導くん! お待たせしちゃったかな?」
 駅の雑音の中から蒼生ちゃんの声がした。
 「ここだよ」
 肩を叩かれて、振り向くと蒼生ちゃんが立っていた。視線を思わず逸らしてしまう。蒼生ちゃんは胸元が大きく開いたアイボリーホワイトの薄手のブラウスにカジュアルなライトブルーのパンツを合わせていた。キリっと光る睫毛か笑顔のほうれい線が濃くなったからか、顔も少しだけ大人びた印象を受けた。
 ボクの恰好はクリアホワイトのシャツに、金のボタンが三つ付いた紺の薄手のジャケットを羽織って、下は濃紺のハーフパンツで、わざと美脚を露出してみた。
 彼女の視線は露出した美脚に注がれていた。毛が抜け落ちたボクの脚を気に入ってくれたのだろうか。釘付けになったままボクの裸の脚から目を離さない。
 「行こうか」
 ボクの声は蒼生ちゃんの耳に届いているのかわからなかった。ボクが歩き出すとようやく我に返ったのか、彼女は前を見て歩き始めた。

 ペースを合わせながら階段を上り、駅の外に出る。初夏の池袋は明度が高く、街の風景が(きら)めいていた。
 「毛、抜けたんだね」
 蒼生ちゃんが脚の毛のことを言っているのだとすぐに分かった。
 「風呂で脚洗ったら、突然、毛がごっそり抜けて、洗い流したら、ツルツルになってたよ。ちょっと怖かった」
 大通りの信号待ちの時間に彼女と話す。視線を向けると、顔よりも先に大きく開かれた胸元に導かれる。中くらいのバストでもこの服装では胸にしか眼が行かない。
 群衆の塊が解れていく。信号は青になっていた。少し早歩きで横断歩道を渡る。蒼生ちゃんは必死になって付いてきてくれる。
 「風呂で抜けたんだ。ベストタイミングだね」
 「確かにそうだね。ベストタイミングだ。掃除しなくて済むもんね。排水溝に流しちゃえば」
 二回目の信号待ち。今度はすぐに青になる。青というか青緑色、ボクの一番好きな色。
 人混みに囲まれる。カップルも多い。みな手を繋いでいる。ボクらもとっくに恋人繋ぎをしていた。それがまるでカップルの証であるかのように。

 サンシャイン通りは歩行者天国のようで、そうではない。自転車やバイク、自動車もこの人混みのダンジョンに突如として出現した。その度に(おのの)きながら道を譲る。
 喫茶店ピザ屋ゲームセンタ―映画館ネット喫茶その先にサンシャインシティへと続く下りのエスカレーターがあり、ボクらはそれに乗り、次いで、動く歩道に乗った。つい歩きたくなる速度の、平らなエスカレーターに運ばれながら、ボクらは向かい合って、サンシャインシティの想い出を語った。
 「高校の友達とよく池袋の娯楽施設で遊んだなぁ」
 「そうなんだ。私はあまり池袋には来ないかな。雑多過ぎて好みじゃない」
 「ごめん。そんなとこに連れてきちゃって」
 「うんうん、いいの。導くんと一緒だし。ゲーセンとかじゃなくて、水族館だから」
 動く歩道を降りてスロープを上り、エレベーターで屋上まで昇ってから、サンシャイン水族館の入場チケットを購入した。

 優しい水流の人工の滝がガラス窓を濡らしていた。その透明な奔流の向こうに人影がぼやけて見える。
ボクらは順路に従ったり、あえて抗ったりしながら、自由な経路で空飛ぶペンギンまでの余興を楽しんだ。
 水槽の乱反射が織りなす光の点描は薄闇と相俟って、水底を彷彿とさせていた。クラゲのドームで蒼生ちゃんの足が止まる。
 「綺麗!」
 半透明のクラゲがドーム全体を自由に遊泳している。綺麗といえば綺麗だった。
 「クラゲを眺めている蒼生ちゃんのほうが綺麗だよ」という恋愛の常套句が浮かんだけれど、口にはしなかった。

《樹下蒼生》

 歩いているとただの風景だが、立ち止まると360度拡がる光景に一瞬で呑み込まれて、その世界の住人になれる。
 「クラゲって眼があるのかな。ボクらを見ているのかな」
 「クラゲの目」とスマートフォンで調べることも出来たが、幻想的なムードが壊れる気がした。
 クラゲの漂う世界から再び歩き出す。

 今度は熱帯魚のコーナーのようだ。
 「幼いときに観たファインディング・ニモを想い出すね」
 カクレクマノミの鮮やかなオレンジと、グッピーの麗らかなブルーに癒される。
 「そうだな。ディズニーあまり観ないけど、ニモだけは最後まで見たなぁ」
 ディズニー人気は圧倒的に女子の票に偏っているけれど、導くんもディズニー好きではないみたいだ。いつかディズニーランドでデートもしたかったが、諦めるべきだろうか。
 熱帯魚のコーナーの中にあるチンアナゴの水槽に、(たか)っていた人が散ってから、導くんは手を取って私を誘った。細長い体をクネクネさせながら穴に引っ込んだり出てきたりして私たちに挨拶しているかのようだ。見た目と名前からどうしても男性のアレを想起してしまうが、チンは日本犬のことらしい。犬の顔に似ているらしいが、そうは見えなかった。
 「ねぇ、犬の顔に見える?」
 「見えないなぁ。耳も鼻も無いし。チンって顎の英語のことかと思ってたら、日本犬なのね。勉強になる」
 「顎って英語でチンなんだ! 導くん、やっぱり博識だね」

 館内から外に出た。ガラス窓を濡らす人工の滝を抜けると、導くんは待ちきれないとばかりに空飛ぶペンギンの展示まで私を置いて、早歩きで行ってしまった。
 「導くん、待ってよー」
 泣きそうな声で訴えるが、聞く耳を持たない。

 正しくは『天空のペンギン』という展示名らしい。ここ、マリンガーデンに置かれた巨大水槽をペンギンが優雅に泳いでいる。
 「ごめんごめん、早く観たくてさ」
 「何ペンギン?」
 「ケープペンギンだね」
 白と黒のコントラストが映えるケープペンギンは私たちの頭上を泳いでいた。
 都会の風景が巨大水槽から透けていて、確かに空を飛んでいるみたいだ。
 「ペンギンって、もともと空飛んでたんだよ」
 導くんは眼鏡のテンプルをクイっと指で持ち上げて、豆知識を披露してくれるようだ。
 「えぇ! そうなの!?」
 わざと大袈裟なリアクションを取って、機嫌を損ねないように心掛けた。
 「ペンギンはオオウミガラスが南極のブリザードで翼が凍る墜落死に遭い、陸を歩き、海を泳げるように翼を戦略的に退化させた姿と云われているんだ」
 「ペンギンってカラスだったの?」
 「黒いカラスではなくて、白黒のカラスだけど、そうだよ」
 『天空のペンギン』をいかに都会の空を飛んでいるように撮影出来るか導くんと勝負をして、引き分けになり、マリンガーデンからお土産屋に移動していると、導くんは突然、私から眼を逸らして、別の女子を見た。母親といるようだけれど、導くんの視線を奪われて、嫉妬の念に駆られたので、私もその子を凝視した。
 ――光彩ちゃんじゃん!

《伊藤導》

 『天空のペンギン』の展示を堪能して、お土産屋に向かう途中、見知った影が視界を過った。それは一組の母娘(おやこ)だった。 
 明らかに初恋相手の光彩ちゃんだ。
 熱視線の正体を確かめるように、ゆっくりと光彩ちゃんの首がボクを向く。そして指を差して母親にボクの存在を知らせた。
 蒼生ちゃんとの恋愛が半分だけ形骸化している原因は、光彩ちゃんへの恋心にあるとボクは前から考えていて、いつか再会したら「光彩ちゃんと縁を切りたい」とずっと考えていた。
 蒼生ちゃんとのデート中にまさかそれが起こるとは想定していなかった。でも、千載一遇のチャンスを逃したくない。ボクが光彩ちゃんに対して思わせ振りな言動を取ってきたことも自覚していた。
 この際、どうにでもなれと光彩ちゃんに歩み寄る。蒼生ちゃんも光彩ちゃんの存在に気が付き、気まずそうに立ち止まり、ボクを追わなかった。
 「実は光彩ちゃんに初恋してました」
 そう伝えるか迷いながらも何か言わなければならない空気に背中を押されて、気付いたら大声でその台詞を告げていた。
 「薄々気付いていたよ、で、何?」
 光彩ちゃんの懐かしい声がする。
 「蒼生ちゃんと本気で付き合うためにも、光彩ちゃんに嫌われたいと思ってまして」
 「え」
 光彩ちゃんは固まって、ボクの言葉を嘘か誠か反芻している。
 「私は導くんのこと嫌いじゃないよ。むしろ友達になりたいって思ってる」
 初恋相手と恋人関係ではなくても、せめて友達関係になれるのなら、出来ればなりたい。蒼生ちゃんは許してくれるのだろうか。分からなくて「ありがとう」と返した。でも、その言葉だけでは友情は芽生えない気がしてきて「友達になろう」と言ってみる。
 「うん」と光彩ちゃんは頷いて、母親の手を取り、何処かへ行ってしまった。
 光彩ちゃんと友達になれたけれど、蒼生ちゃんと恋人のままでいても図々しく思われないかと心配しながら、蒼生ちゃんの下に駆け寄った。
 彼女は眉を引き攣らせて、肩で呼吸していた。