《伊藤導》
樹下蒼生という白雪姫にキスで起こされて、夢見心地を引きずったまま、洗面台で顔を洗い、蒼生の母親の用意してくれた朝食を彼女と並んで済ませる。目玉焼きとウインナーとマーガリントーストとカプレーゼだった。
「さすがに帰っちゃうよね」
と名残惜しそうな蒼生ちゃんに一週間後の脱毛デートの約束をして蒼生のマンションを出た。
帰宅すると、母親に「カラオケ、オールしたの? 楽しかった?」と訊かれたので「ほとんど寝ちゃったけど楽しかった」と整合性の取れそうな嘘をついた。
「あらそう。なら寝なくて大丈夫そうね」
「あぁ、そうだ。来週の金曜日に脚の脱毛の予約したから行くね」
「美意識高めで偉こちゃん」
それから脱毛デートまで蒼生ちゃんとLINEのやり取りをして、約束の日になった。隠しておくこともないと思い母親に、彼女が出来たこと、そして今から彼女とデートに行くことを告げた。
「導にも彼女が出来たのね。大事にするのよ。一度でもぞんざいに扱ったら関係が壊れるガラス製品だと思いなさい。いい? 女の子の心は熱しやすく冷めやすいの。鉄のように」
*
待ち合わせ場所の大宮駅西口の出入口付近に蒼生ちゃんはスマートフォンを弄りながら佇んでいた。
『ちょっと早く着いちゃった』と集合時間の十分前にLINEが来ていた。
彼女はミルクホワイトの薄手のシャツの上に若草色のカーディガンを羽織っていて、エナメルブルーのマーメイドスカートを履いていた。
対してボクはダークブラックのコートと薄藍のデニムを合わせて、自慢の美脚に視線が行くようにコーディネートをしたつもりだ。
「蒼生ちゃん、お待たせ。春らしくて素敵だね」
「え⁉ ほんと? ありがと! 導くんもスタイリッシュが際立つコーデだね」
蒼生ちゃんの手のひらに右手を触れる。オジギソウのように手のひらが閉じて、恋人繋ぎになる。
スマートフォンのナビ機能で目的地までの案内を開始させてから、春の大宮を歩き出す。献血の呼び掛けには会釈で返した。煉瓦調のデッキを下りて、目的地までの道程を行く。
「ちょっと緊張してる」
ボクが口火を切った。
「脱毛? そんなに痛くないよ。献血と比べたら全然」
蒼生ちゃんの視線はボクの顔ではなくて美脚に注がれている。身長の高いボクは彼女の旋毛を俯瞰する。ダークスーツのサラリーマンやOLと擦れ違う。
「髭脱毛はお試しでしたことあるんだけど、脚は髭よりも毛が長いから痛そうだなって」
「まあ、多少はね」
「やっぱそうでしょ。でも注射のときにいつもしている裏技があるから。痛みを軽減する裏技」
ようやく蒼生ちゃんはボクの顔を見上げた。
「え? どんなの?」
「精神科医からも効果的って言われたんだけど、アップテンポな曲を頭の中で歌うの。それだけ。それだけで痛覚のサインを脳に届きにくく出来る」
「なるほど。導くん? 話してたら着いたみたい」
恋人繋ぎのままビルのエレベーターに乗り、2階の脱毛サロンに入店する。
「いらっしゃいませ。メンズTBCへようこそ。本日、ご予約はされておりますか?」
スーツ姿の女性スタッフに招かれる。
「はい。十時半に予約しました伊藤です。こちらは付き添いです」
「わかりますよ。ここは男性様専用ですから。こちらは初めてのご利用でしょうか?」
「いえ、二回目です。前回は髭脱毛の体験コースに来ました」
「はい。脚の脱毛は初めてなので、アンケートにお答えして頂けますでしょうか?」
「はい。全然大丈夫です」
店内はオルゴール調の耳心地のよいメロディがちいさく流れている。黒革のソファーに二人で腰掛けて、アンケートを記入する。集中を削いでしまうからか蒼生ちゃんは黙っていた。退屈なのか時折、脚をブラブラさせていた。
「書き終わりました」と言って受付のスタッフにアンケート用紙を返す。ソファーからちょうど見える位置にテレビが点いており、メンズTBCのコマーシャル映像がループして流れていた。
「伊藤様。お待たせ致しました。こちらへどうぞ」
施術のスタッフに呼ばれたので、ソファーから腰を浮かしてゆっくり立ち上がってから、振り返り、蒼生ちゃんに「行ってくるね。楽しみにしといて」と告げると「いってらっしゃーい♪」と明るく返してくれた。
施術室へ向かう短い廊下でスタッフに
「彼女さんですか?」と訊かれた。
「はい。高校の卒業の日に告白されました」
「向こうからなんですね!」とわざとらしく手を口許に当てるリアクションをされて苦笑いが零れた。
施術室に入ると仰々しい機械がセッティングされており、思わず唾を飲んだ。
*
「伊藤様。以上となります」
氷嚢と布が外される。ベッドに座ってズボンを履いてから、エントランスに向かう。
「どうだった? 痛かった?」
ボクを見つけると蒼生ちゃんは黒革のソファーから立ち上がって、髪を左右に揺らしながら駆け寄ってきた。
「ちょっとだけね」と強がってみた。
「アップテンポな曲歌った?」
「あ。忘れてた」
「そうなんだ。じゃあ、そんなに痛くなかったのかもね。個人差あるし」
「伊藤様。今回のお会計が――」
《樹下蒼生》
受付で会計を済ませて、エレベーターまでスタッフに見送られる。
エレベーターの中で導くんはいきなり謝ってきた。
「ごめん」
「え? なんで謝るの?」
「いや、毛が抜けるのは二週間後らしい。だから、まだボーボー。だから、ごめん」
なんだ、そんなことか、と彼の善良な心を包み込むように笑顔の魔法を振り撒いて
「知ってるよ。時間差で抜ける。そしてまた生えてきたら、また施術を行う。その繰り返しで、やっと毛が生えなくなるんだから」
と優しいトーンを意識して伝えた。
導くんの肩の緊張が抜けるのがわかった。
「でさ、このあとのランチだけどさ。大宮駅の中のルミネにしようかなって思うんだけど、どうかな?」
「あそこ、飲食店あったっけ? 服とか香水とかは買いに行くけど……あぁ、そういえばあったね。3階に」
「どうかな?」
「うん。いいと思う」
「よし、じゃあ、そこに行ってから店を決めよう」
卒業したけど、まだ春休みだから、私たちは高校生カップル。恋人繋ぎで歩く高校生カップルに羨望の目を向ける男性は、きっと恋人がいないのだろう。
宝くじ売り場の脇の階段を導くんは上り始めたから、私も上り始める。恋人繋ぎをしたままだと危ないけれど、導くんは私のペースに合わせて一段一段上ってくれた。春風に混じった粉塵が目に入って、視界が擦れる。導くんは眼鏡が汚れている。
「春は花粉とか黄砂とか、風が汚いよな。こんなに綺麗な蒼生ちゃんがくすまないように早く駅構内に入ろう。あ、でも、ゆっくりでいいよ」
導くんは優しい。早く建物に避難させてあげたい優しさと、階段をゆっくり支えながら上ってあげたい優しさが、彼の心の中で混じり合っている。
春の洗礼を全身に受けながら大宮駅の構内に避難する。風が強いわけではないが、花粉と黄砂のWパンチで風の肌理が粗い。
*
レストランフロアに着いた。エスカレーターを取り囲むように飲食店が立ち並び、そのどれもが客で賑わっている。昼時に差し掛かっており、空いている店は見当たらなかった。その中でも多くの人が並んでいなさそうな店に狙いを定めて、最近オープンした「ねぎし」でランチを済ますことにした。
「ボク、ねぎし、初めて。麦飯ととろろと牛タンの店かぁ。いいね」
「導くん、初めてなんだぁ。私は何度か来たことあるよ。ここじゃないけどね。ねぎしは女性のほうが好みの店かもね。ガッツリ系じゃないし」
「蒼生ちゃん、ねぎしのあれこれ教えて?」
お茶を飲んだ導くんが顔を顰めた。
「どうしたの?」
「これ、お冷なのか、お茶なのか、わからないなぁ。水なのか茶なのか判別出来ない茶色いグラスに注がれていて、見た目では確認出来ないよ」
「確かにね。でも、これはお茶だよ」
導くんはもう一度確かめるように口に含むと
「へぇ、これお茶なんだ。お冷じゃないていうのもいいね」
メニュー表を一通り眺めてから、導くんは牛タンと麦飯ととろろのお得なセットを指差した。
「私もこれにしようと思ってたぁ」
導くんとは馬が合う、ときもある。
「え? 本当? 単に王道そうなものを選んだんだけどな。じゃあ、頼んじゃうね」
「うん」
女性店員に導くんは視線の矢を放つ。私はそのクールな眼差しに見惚れる。
「ご注文ですね」と店員が近寄って来る。
「これ二つと、あと烏龍茶」
「お茶あるのに烏龍茶頼むの?」
「ああ、いつもの癖で、じゃあじゃあ、烏龍茶無しで。はい。すみません」
私と導くんは対面して座っていた。でも、変に緊張するから横並びがいい。
「導くん、こっち来なよ。横並びで座ろ?」
「んん、そうだね」
導くんが移動する間に客の観察をする。眼鏡を掛けた若者はとろろご飯を搔き込み、スーツを着たサラリーマンは、一口サイズの牛タンを三回に分けて食べていた。
《伊藤導》
そういえば蒼生ちゃんと付き合ってから、彼女のミステリアスは薄れていた。あれがアイデンティティだと思っていたが違ったみたいだ。
と、油断していたら桜が頻りに舞い散る鐘塚公園でのデート中、蒼生ちゃんは桜の樹に向かって指鉄砲を撃ち始めた。
「バン! バン! バンバンバンバン!」
「何してるの?」
「桜の花びらを撃ち落としてるの」
なるほど、その発想は無かったと感心する。散りゆく桜を自ら撃ち落としているかのように魅せるなんて。女の子には魔法使いになりたい願望があると聞くが、魔法ではなく指鉄砲なところがわかりやすい。
でも、恥ずかし気もなく公園で指鉄砲を乱射しまくる彼女の無邪気さには感服さえ覚える。
「桜を撃ち落とすのもいいけどさ。あのベンチでテキトーに語り合わない?」
テキトーは余計だったかもしれない。
「うん。いいよー♪」
ここ、鐘塚公園は遊具に満ちているのではなくて、広々としたスペースがあってのびのび出来る、散歩には打ってつけな大人の公園だ。
自販機でホットの缶コーヒーを二つ買ってから、桜の絨毯が敷かれたコンクリートを踏み締めて、遠目にソニックシティの高層ビルを入れながら、ベンチに二人っきりで座る。
蒼生ちゃんに缶コーヒーを渡すと「あたたかい」と言って、缶コーヒーに頬擦りをした。プルタブを開けて湯気の籠った熱々の珈琲をチビチビと飲む。
「今年最後の桜になりそうだな。春風に揺り落とされて、春の滂沱みたいだ」
「ボウダ?」
「滂沱の涙のボウダだよ。大泣きって意味」
「導くんってボキャブラリー豊富だよね。文学の道に進むんだから当たり前かもしれないけど。どうやってボキャブラリー増やしたの?」
蒼生ちゃんはベンチに対して垂直に座らず、ボクのほうに脚を向けて斜めに座っていた。ボクは首を捻って目を合わせていたが、首が疲れてきたので、座り直してから彼女の真似をして斜めに座った。
「幼い頃から図書館で読書し続けてきたし、中学校の朝読書の時間で一人だけ広辞苑読んでたからかな」
「えー! 朝読書は普通小説とかエッセイとか漫画でしょ? 辞書を読んでたの? 面白いね」
「ボキャブラリー増やしたくて、今日は『あ』の日とか、明日は『き』の日にしようとかね」
「『あ』の日は、『あ』から始まる言葉を覚えて、『き』の日は『き』からってことだよね。確かに始めから読んでいたら、あ行だけしか読めないかもしれないもんね」
エナメルブルーのマーメイドスカートの裾が波打った。春の強風が二人を襲ってきた。風が弱まるまで話を中断して、じっと耐える。風が収まる。
飲み忘れていた缶コーヒーは人肌の温度まで下がっていて、人間のエキスを飲んでいるようで途端に不味く感じた。嫌々、喉に全部流し込む。
「さてと、暗くならないうちに帰りますか」
ボクはベンチからそう言って立ち上がる。
「今年も春は見納めかぁ。夏は恋の季節」
「でも、その前にマインドブル―な梅雨がある」
「じゃあさ、夏の初めに次のデートの予定入れちゃわない?」
「いいね。どこに行きたいとかある? それともボクが決めようか?」
「水族館に行きたい」
「空飛ぶペンギン、まだ見たことないから、池袋行こうか」
「いいね! じゃあ、夏感じたらLINEするね。そろそろデートしない? って」
「案外、早く夏来るかもな。異常気象だし、近年」
大宮駅西口に向かって歩き出す。思い出したかのように蒼生ちゃんから恋人繋ぎをしてくれる。
葉桜が増えてきた。夏色の桜だ。
春は幻の季節になりつつある。桜だって葉桜が主流になるのだろう。
