《伊藤導》

 帰ろうか迷っていたら、風呂上がりの蒼生ちゃんが部屋に現れた。青の寝巻に着替えていて、頬に水滴が咲いていた。
 「帰らなかったんだ。だったら風呂、入ってきなよ」
 その声は冷淡さを帯びていた。ボクは部屋を出て、母親に「一晩泊まることにしました。その前に風呂ってどこでしょうか」と訊いた。
 「風呂はこちらよ」
 母親はリビングの出入口付近の木の扉をスライドして開けてくれた。洗面台と脱衣所、その奥に浴室が磨りガラスの不透明のドアからモザイク状に透けていた。

 *

 浴室を出ると、新しいバスタオルとボクの分のパジャマと下着が畳まれて用意されていたので、パジャマに着替えた。
 青と白のストライプ模様で下はスモーキーグレーの毛糸の半ズボンだった。半ズボンの裾から脚が大きくはみ出たが、母親は蒼生ちゃんがボクの脚を好きだと知っているのだろう。制服と来訪時の下着を畳み、手に持ちながら、母親に「パジャマ用意してくれてありがとうございます。では、おやすみなさい」とお礼をした。
 「蒼生のだけど、似合ってるじゃない。モデル体型だから女子のも着熟(きこな)せちゃうわけね。おやすみなさい」と母親は言った。
 父親は寝息を立ててソファーで仰向けになっていた。

 蒼生ちゃんのいる部屋に戻ると、彼女はベッドに座って卒業アルバムを読んでいた。
 彼女はボクの存在に気付くと、卒業アルバムを開いたまま机に置き、ボールペンを手に取った。
 「導くん。私の卒アルにコメント書いてくれないかな?」
 彼女からボールペンを受け取って、机の前の椅子に座る。何を書いたら喜んでくれるのだろうとあれこれ逡巡した挙句、何もいい案が思い付かなくて、ボールペンを持って固まっていると「何でもいいですよ」と蒼生ちゃんは猫なで声で言ってくれたので、とりあえず頭に浮かんだ言葉を記していった。
 『ボクを彼氏に選んでくれてありがとう。これからもよろしくね 伊藤導』
 蒼生ちゃんはボクのコメントを読んで笑みを燈すと、アナログ時計を見上げた。

 零時三十五分。春休みに突入していた。
 「導くんは進路先、どうしたんですか?」
 ボクは椅子に座ったまま彼女の(きら)めく双眸を見つめて応えた。
 「大学の文芸学科に進学します。小説家の夢を叶えるためです」
 「デザイン科じゃなくて?」
 「デザイン科に入ったのは小説の顔となる表紙のデザインを自分でするためです」
 「そうだったんだね。じゃあ、本命の文学の道に進むんだね、いいね」
 「蒼生ちゃんは? 進路」
 「私は就活しようかと。インターンシップはいくつか行ったけど、どこも『ここで働きたい!』とは思わなくて」
 「就活か。大変だね。応援するよ」
 「ありがとー。じゃあ、こんな時間だし、私と寝よ♡」
 「一緒のベッドでいいの?」
 「うん。もっちろーん!」
 「導くんが先に入って」
 蒼生ちゃんにそう言われたので「失礼します」と言って裸足をベッドに乗せた。奥の壁側に身を寄せて、脚にライトグレーの羽毛布団を掛ける。脚を曲げて胸を圧迫する体育座りの姿勢で、掛け布団を持ち上げて、中に入れるようスペースをつくる。
 「入るね」
 蒼生ちゃんはボクが空けたスペースに身を収めると、脚を伸ばして枕に頭をつけて、ボクのほうを向いた。シャンプーの匂いが鼻を満たしてきた。
 ボクも脚を伸ばして枕に頭をつける。ゆっくりと蒼生ちゃんの方に顔を向ける。彼女の顔を間近で観察した。
 中くらいの長さの睫毛の下に覗く双眸は暗褐色の虹彩で、鼻はやはり中くらいで少しとんがっている。唇は荒れた様子はなく、髪はセミロングでこちらも暗褐色。顎の近くにはニキビが出来ていて、普通の顔立ちをしていた。可愛いというより女子だなって印象を受けた。これから彼女を愛していかなければならない。
 少し話をするのかなと思っていたら、蒼生ちゃんの瞼がゆっくりと下がってきて、そのまま眼を瞑ってしまった。
 彼女の唇とボクの唇の位置を念入りに確認してから、彼女の寝顔に接近した。鼻の孔が視界に入り、唇が柔いものに触れた。蒼生ちゃんが眼を開ける。至近距離でボクと数秒間見つめ合った。ボクはゆっくりと枕に頭を戻して距離を取った。
 もう一度、彼女を見ると寝息を立て始めた。ボクも眼を瞑り、蒼生ちゃんの呼吸を耳許で感じながら、彼女の寝顔を頭に浮かべた。その顔が変化して、光彩ちゃんの顔になる。
 結局、あの子には告白出来なかったなぁ、と後悔の念を夢の波がさらった。

《樹下蒼生》

 導くんに「本当は光彩ちゃんと付き合いたかったんじゃないの」と訊いたら、導くんの愛情が壊れてしまいそうで訊けなかった。
 彼と一緒の布団に入ると、瞬く間に睡魔が襲ってきた。もっと彼の顔を見ていたかった。その瞳の奥にある心には光彩ちゃんが映っているようにしか思えなかった。
 遠のく意識の中、導くんの気配を強く顔面に感じた。その刹那、唇が何かに触れた。反射的に眼を開けると、彼の頭は枕に戻る途中だった。キス、されたのだ。どうして導くんは私にキスをしてきたのだろう。寝顔を見てチャンスだと思ったのかもしれないが、好意を強く(いだ)かなければキスなど出来ないはずだ。私を心から愛してくれることを誓った証なのだろうか。
 思考はやがて中断して、意識が途絶えた。

 *

 隣の枕には導くんの寝顔があった。美容室に行っていないのか千円カットの床屋で切られたボサボサのヘアスタイルで、顔は整っているほうだと思う。うっすらと髭が生えているが、朝から剃っていないのだから仕方ない。唇は薄紅色で荒れてはいない。
 私は彼を起こそうとして、自分の唇を彼の唇に近づけて、優しく触れた。眼が開かないので仕方ないなぁと思いながらも、彼の唇を舌で触れた。