《伊藤導》

 卒業アルバムの最後のページに友達や先生にメッセージを書いてもらったり、書いたりしながら、ボクは蒼生さんのことが頭から離れずにいた。他人(ひと)の卒業アルバムに蒼生の字を書きかけたくらいだ。
 「蒼い表紙の裏に書くことじゃないけど、君にも彼女が出来るといいね」
 つい、「蒼」という字を書いてしまい、誤魔化したら余計なお節介を書いていた。相手は親友だったから「そうだね」なんて言って許してくれたけど。

 *

 部室に着くと、後輩たちは花道を作ってくれていて「伊藤先輩、ご卒業おめでとうございます!」と大声で祝われた。それよりも彼女が出来たことを祝ってほしくて、後輩が手をマイクの形にして、ボクに「一言お願いします」とコメントを求めてきたときに「実は卒業の日に彼女が出来ちゃいました」と言ってみた。
 「それはおめでとうございます!」とリポーター役の後輩女子は驚いた様子で祝福してくれた。
 「え? 先輩、どんな子なんですか?」と別の後輩女子に訊ねられて、少し考えてから「ミステリアスな美女です」と応えてみた。
 「ミステリアス? いいですね。本当におめでとうございます!」
 「言わせたみたいになってない? 大丈夫?」
 「何言ってるんですか、伊藤先輩。めでたいに決まってるじゃないですか」
 「……ありがとう」
 思わず彼女がいることを告げてしまったが、言わなくてもよかったとわずかばかり後悔した。卒業の祝福の趣旨がズレるから、黙っておくべきだったと思う。
 同級生ごとに固まって席に着き、顧問の先生の到着を待ちながら、ボクは「なぜ、蒼生さんはボクにラブコールしてくれたのか?」を考えていた。木製のテーブルに開いた不恰好なくぼみを視界に入れながら、ボクの人生と蒼生さんの人生が交差した瞬間を思い返していた。

 *

 思い当たるのは、あれは確か二年のフィールドワークで動物園に行ったときのことだった。教室にて話し合いで班決めをすることになった結果、一緒の班になりたい人のところに行って誘うことになった。
 ボクは真っ先に親友であるデザ科男子の手を取り「あと三人どうしようか」と彷徨い歩いていたところに、蒼生さんは女友達を二人連れて「よかったら一緒の班になりませんか」とボクらを誘い入れてくれたことがあった。あの積極的な言動には恋心が手綱を引いていたのかと今更ながらに気付く。
 動物園か水族館か博物館。いずれかに行ってから集合場所の駅の前に時間までに向かうというフィールドワークだった。どういう流れだったかは思い出せないけれど、ボクらの班は動物園に行くことになったのだった。
 班決めのときはボクの方を数回盗み見るような視線を感じただけで、ボクと蒼生さんは話すことはなかったと思う。恥ずかしがり屋さんなのかな。ボクに似ていて。
 動物園でのシーンは数秒間しか印象に残っていない。あとはほとんど親友との会話ばかりだった。でも一度だけ、蒼生さんはボクに話し掛けてきてくれた。

 あれは動物園の通路の中に小さく構えていた売店の横を通過したときだった。
 蒼生さんはボクに近寄って、売店のぬいぐるみを指差して「導くんって、ペンギン好きですよね。あのペンギンのぬいぐるみ欲しくないんですか?」と言った。
 確かにペンギンは好きだ。彼女がどこでその情報を入手していたのかは分からないが、高校生になって新たにペンギンのぬいぐるみを買う気は起こらず「ペンギンは好きだけど、ぬいぐるみはいいかな」と断った。
 蒼生さんはそれを聞くと、何事もなかったかのように無言になってボクから遠ざかった。
 あのときすでに蒼生さんはボクのことを好きだったのだろう。でも、素っ気ない態度で応えてしまった。彼女からのシークレット・ラブアピールに気付かないままボクらはフィールドワークを終えた。

 *

 顧問はすでに部室に来ていた。
 卒業生たち一人一人にメッセージつきのマグカップが手渡されて、解散の雰囲気が立ち()めていたから、蒼生さんにLINEで『部活終わった。自転車置き場で待ってて。すぐ行くから』と送信した。
 「じゃあ、ボクは一足先に帰ろうかな」と言うと、後輩の女子は顧問の先生がいる前で「彼女さんが待ってますもんね」と言った。
 「あら、伊藤くん。彼女出来たの?」
 顧問の女性に訊ねられると顔が熱くなってきて「はい、今日出来ました。行ってきます」と言って部室から逃げ出した。
 「逃げることないじゃない? ね?」と顧問の女性は言って、ひと笑い起きていた。
 やっぱり言うんじゃなかった、と再び強い後悔に襲われて、昇降口で待ち伏せしていた親友のデザ科男子に「悪い。今日は別の人と帰る」と言って、自転車置き場へと向かった。

樹下蒼生(きのしたあおい)

 導くんの部活が終わるまで、卒業アルバムの最後のページにコメントをもらったり、卒業アルバムの写真を注視したりして、導くんと私が一緒に映っている写真を探した。
 けれど、見つからなかった。
 教室で待機していたら、先ほどの席替えで左右同士になった子たちとの女子トークが始まっていた。
 「ねぇねぇ、蒼生ちゃんは導くんのどういうとこが好きなの?」
 改めてストレートにそう訊かれると返事に困った。一目惚れ。気が付いたら恋していたのだから、そこに明白な理由は多分ない。どうして一目惚れしたのか? という質問に変換して思惟を巡らす。
 導くんのどこに惚れたのか? そう考えながら、彼を脳裏に浮かべると、その姿は服を着ていない、裸だった。でも見たことはないから想像上の肉体に彼の顔。早く応えなきゃ、と思っていたら口を滑らせていた。
 「身体、かな」
 「え⁉ 見たことあるの?」
 「いや……服の上から、想像で……」
 「あぁ、でもでも、導くんスタイルいいよね」
 「わかってくれる?」
 「脚長くて、美脚で、身長も高くて」
 「そうそう、モデル体型だよね」
 「憧れちゃう。私も導くんみたいな美脚だったらなぁ」
 「でも、脱毛はしてないみたいだね。毛深くは……ないけど」
 「脱毛したら、もっと美脚ってことー⁉」
 「そう!」

 陽が沈み始める。
 そろそろかな? なんて思っていたら、導くんからLINEが来た。
『部活終わった。自転車置き場で待ってて。すぐ行くから』
 私は『りょーかい♪』と返信した。
 「ねぇねぇ、導くんに何ていうのかな? 好きアピール、みたいなのってした?」
 「フィールドワークの動物園で彼の好きなペンギンの話をしたこと、くらいかな」
 「へぇ、そうなんだあ。でも、導くんは蒼生ちゃんの、シークレット・ラブアピールに気付いていないんでしょ?」
 「シークレット・ラブアピール? そうだね、素っ気ない返事されたから。多分、気付いてないんじゃないかな。てか、導くん、部活終わったみたい。行ってくるね」
 「うん! 行ってらっしゃい。楽しんできてねー」
 「じゃあね、また会おうね」

 明かりの()いた教室を抜けて、仄暗い廊下を渡って、昇降口へと向かうと、導くんの親友がいた。本当は、導くんは彼と帰る予定だったのね、と思いながらオフホワイトの靴を履く。
 黄昏色の校舎から少し歩いたところに待ち合わせ場所の自転車置き場はある。二階建てで、どちらの階で待ち合わせるのか分からなかった。私はLINEで『何階の自転車置き場?』と送信すると、彼が私のところに来てくれた。
 「お待たせ。蒼生……ちゃんは。バス? 自転車? 歩き?」
 コンパスのような夕影が導くんの足許(あしもと)から伸びている。影まで美脚だった。当たり前だけれど。
 「バス……だけど、今日はいいや。家まで歩こう? 大変かな?」
 「いいよ。でも、遅くなるね。家までついてきてくれるの?」
 「導くんの家、行ってもいい?」
 導くんの顔に陰が差す。黒子になる。
 「実家暮らしだから、厳しいかな」
 「うちも実家暮らしだけど、多分、親が許してくれると思う。てか、説得してみせる。から、私の家来ない?」