伊藤導(いとうたくと)

 「今日は卒業の日だが、僕の提案で、最後の席替えを行うことにした」
 自然と拍手が生まれる。クラスメイトの好物は席替えだ。
 「クジを用意したから、今から一人一人のところに回って、クジを引いてもらう。その書かれている数字と同じ場所に座席を移動しろ。いいな? じゃ、回るぞ」
 クラスメイトの大半は女子生徒だ。なぜならデザイン科の教室だからである。男子生徒はボクを含めて五人しかいない。女子校のような無法地帯にならないためにボクらデザ科男子の目を教室に仕込んでいるようなものだ。
 クラスメイト全員がクジを引き終わり、整然としていた机と椅子がシャッフルされていく。ボクの最短距離(ベクトル)は短かったため、すぐに新天地に移動して、完成されていくのを達観していた。席替えでの移動先をボクは新天地と呼んでいた。
 ボクには二つの期待があった。一つはデザ科男子と近くになりたい。そしてもう一つは光彩(ひいろ)ちゃんと隣り合いたい。それらの二つの期待は見事に裏切られた。ボクの左右前後は話したことのほとんどない女子生徒で埋まっていた。デザ科男子が見事に方々(ほうぼう)に散っていた。

 担任の先生はいつの間にか姿を消していた。(しば)しの間、新天地でのフリートークタイムになる。
 ボクは女子と気軽に話せる(たち)ではないため、リュックサックの中から一冊の文庫本を取り出した。百田尚樹著『フォルトゥナの瞳』である。クライマックスのラスト数ページをこの無為な時間に読んでしまおうと、本を開いて物語の世界に入り込む。死ぬか、生き残るかの瀬戸際が描かれていて、教室にいることなど忘れて、作品の中にのめり込んでいると、前の子が「面白い?」と訊ねてきた。
 前の子の名前は、樹下蒼生(きのしたあおい)さんだ。どうしてフルネームで憶えているのだろう。そこまで興味はないのに。
 でも向こうはボクに興味があるみたいだ。相手が光彩ちゃんなら「面白いよ」と応えた。けれど蒼生さんだと、わざわざクライマックスシーンを中断してまで応えることはしなくていいかと、女子からの好意よりも小説を優先した。
 「ねぇ、面白い?」
 まだ訊いてくる。俯いたまま、視線だけを蒼生さんの首筋に向けて、やっぱいいやと小説に引き戻す。ペールオレンジの首筋は美しく照っていた。
 いよいよ「生」か「死」か判ってくる物語の一番面白いところに差し掛かる。あと少しだから待ってて、と心の声で伝えて先を読み急ぐ。
 すると突然、蒼生さんは立ち上がった。否が応でも視線は彼女に向く。蒼生さんはデザ科男子を次々に指差して「ブルータス、ブルータス、ブルータス、ブルータス」と呼んでから、同時にクルッと身体を回転して、そして最後に。ボクに向かって指差して、そりゃもう天使のような破顔で「……フフッ」と笑った。
 蒼生さんは席に着くとボクの方を向いて眺めていた。背もたれから顔を出して微笑みながらボクを見ていた。

 「生」か「死」か判明した。あと数行残っている。本に被さる蒼生さんの両手。正直邪魔だったその手はハートマークを形作った。ラブコールだった。「好きです」と言うのが恥ずかしくて、ハートマークのサインでボクに告白をしてくれた彼女にそのまま無視を貫くのはよくない。
 文庫本を閉じて、前を見る。蒼生さんがボクの返事を待っている。いや、彼女の左右の席の女子も同じくボクからの返事を待っていた。その眼が期待感で満ちていた。
 声を出す方法も忘れてしまったかのように声を絞り出すのに勇気が必要だった。ボクもハートマークで応えようかと迷った両手は机上に置いて、脳内で何度も言葉を生成した。その透明の言葉をなぞるように声にする。
 「この、ボクで良かったら」
 その言葉を口にした途端、氷の呪文を唱えてしまったかのように、前の女子たちは一斉に一時停止(フリーズ)した。あれ? 変なこと言ったかな。曖昧だったかな? と反芻する。
 停滞していた時間が再び動き始めると、蒼生さんより先に左右の席の女子たちは拍手した。その祝福の音を聴いてから、やっと蒼生さんの顔が明るく燈って「え? いいんですか?」と言った。
 もう一度返事をしないといけないのかと困り果てた表情を浮かべていると「よろしくお願いします」蒼生さんはそう言って、再び天使の破顔を魅せた。
 ボクは彼女がいたことはなかったから、あれ? もしかして初めての彼女が出来たのか? と半信半疑で思案する。ボクはたった今、樹下蒼生さんとお付き合いすることになったのか? どうしても実感が湧かなくて疑問形で喜ぶ。
 「よかったじゃん。蒼生ちゃん、ずっと導くんのこと好きだったもんね」と周りの女子が蒼生さんの恋心を明かした。
 「今夜は一緒に帰りましょう」
 ボクは蒼生さんにそう伝えると「もちろんです」と彼女は明るく返してくれた。