――シュウちゃんって、彼女いるの……?
 口の中で広がっていた甘さが消える。チョコレートの香りも消える。向けられた視線はまっすぐだった。
 アイスを頬張って笑う朔也を想像していた俺は、すぐに言葉を返せない。
「付き合ってる人、いるのかなって」
 言い換えられた言葉がゆっくり落ちてくる。もしもここで「いる」と答えたなら、どうなるのだろう。嘘でも彼女がいると言ってしまえば、俺自身に鎖を繋ぐことができるのではないだろうか。朔也を傷つけないために、そうするべきではないだろうか。
「あ、シュウちゃん。アイス、落ちちゃう」
 視線を手元に向ければ、齧り取った部分のバニラはチョコレートの表面を今にも滑り落ちそうだった。
「あ、わ、やべ」
 溶けた部分ごと大きく口の中に入れる。柔らかな感触と冷たい甘さが一気に広がる。唇で吸い取るように飲み込めば、不意に朔也が顔を背けた。「俺も食べなきゃ」とスプーンでピンク色のアイスを掬い取る。視界の端で膨らんだ頬がフレームに重なる。耳が赤いのはシャワーを浴びたからだろうか。ドライヤーの熱が残っているからだろうか。
 落ちてきた塊は冷たすぎて、体の中の熱を強く自覚させた。
「……いないよ」
 朔也に嘘をつきたくなかったのか。
 自分を縛ることができなかったのか。
 零れたのは優しくも甘くもないただの事実だった。
「そっか」
 再び繋がった視線は揺れていた。不安。安堵。緊張。嬉しさ。浮かぶ感情はどれだろうか。複雑すぎてわからない。
「シュウちゃん、モテそうなのに意外」
 そう言って笑った朔也の声は、弾んではいなかった。朔也は俺に彼女がいたら嬉しいのだろうか。喜ぶのだろうか。俺は朔也に彼女がいても笑えるだろうか。きゅっと縮んだ心臓をさらに強く押さえつける。今だからこそ聞かないといけない気がして。
「そういう朔也はどうなの? 彼女いるんじゃないの?」
 揺れそうになる声を隠すようにアイスを齧る。歯に滲みる痛さよりも胸の奥の方が強く疼く。けれど痛みはいずれ消える。忘れていく。それなら早く触れてしまった方がいい。
 朔也が「いる」と答えたなら、きっと終わりにできる。燻り続けた想いをなかったことにできる。
「いないよ」
 いるわけないじゃん、と笑った朔也は俺のよく知る表情をしていた。手放したいと願いながら、聞こえた答えに安堵する。押さえつけていた力が緩む。痛みを覚悟していたのに嬉しさに包まれていく。朔也を傷つけたくないと、朔也の幸せを願っているはずなのに……俺は……。
 ギシッと体に響いた振動。顔を上げれば「ごちそうさま」と空になったカップを片手に朔也が立ち上がったところだった。
「シュウちゃんも捨てる?」
 差し出された手のひらに「ああ」とチョコレート色が薄く残る棒と袋を乗せる。
「ありがと」
 かすかに触れた肌が離れる寸前、きゅっと指を掴まれる。
「朔也?」
 名前を呼ぶと朔也は「ごめん」と笑い、手を離した。どこか寂しそうに。見たことのない表情を浮かべて。
「ゴミの分別聞いてなかったなって」
「あ、ああ、そっか」
 キッチンへと一緒に向かう間も。並んだゴミ箱を前に教えているときも。隣に立つ朔也を少しだけ遠くに感じた。

 目の前を流れるのは夕方のニュース番組。今日の天気の急変について話している。ソファの上ではなく、ソファを背にする形で床に座る。慣れないのは、いつもとは違う視線の高さと、体の両脇にある朔也の足のせいだ。触れないよう自然と力が入る。
「自分でやるのに」
「買い物付き合ってもらったし。これくらいさせてよ」
 後ろからかけられた声の近さに肩が揺れる。ぶわりと温かな風が後ろから吹く。太い指は意外なほど優しく地肌に触れてきた。心地良い風の温度に反して毛先から落ちる雫は冷たい。
「冷たくなってるじゃん」
 朔也の声がドライヤーの音に遮られる。少しだけ荒っぽく指が動き、水分が飛んでいく。
「せっかくなら一緒に食べたいなって思っちゃったから」
 風の勢いを越えるよう声を大きくする。
「アイスなんてあとでもよかったのに」
 俺が朔也の顔を見ることができないように、朔也からも俺の顔を見ることができない。けれど朔也の声は俺に向かっていて、指はせわしなく動かされている。俺は自分から触れないように体を縮めることしかできない。じわりと上がる熱をドライヤーの風のせいにして。
「……シュウちゃん、髪伸びたよね」
「ああ、切りそびれただけだったんだけど、意外と似合うって言われてそのままにしちゃったんだよな」
「それって」
 急に小さくなった声は風の音に飲み込まれた。言葉を拾いきれず「ん? なんて?」と聞き返せば耳元でカチッとスイッチの切れる音が鳴った。ふわりと揺れる空気。消えた熱。離れていく指。地肌に残る感触に微かな寂しさが混じる。
「終わった?」
 顔を振り返らせると同時、髪の先が朔也の膝を撫でる。
 びくりと揺れた足が背中にあたった。
「ごめん。くすぐったかったよな」
 背中から伝わったのは小さな衝撃にすぎなかったのに。心臓はおかしなくらい跳ね上がる。近すぎる距離を今さらながらに実感した。
 朔也はドライヤーを手にしたまま動かない。顔は俯けられ、表情は見えない。返ってこない言葉に空気が変わる予感がして、思わず立ち上がる。距離を取らないといけない気がした。
「ありがとな」
 縮んでいた体を伸ばし、視線を朔也ではなくソファの後ろへと向ける。壁の時計は午後六時を示していた。そろそろ夕飯を準備しなくては。
「夕飯リクエストある?」
 朔也に問いかけつつ、体をキッチンへと向ける。頭の中を冷蔵庫の食材で埋める。
「ないなら適当に作るけど」
 一歩、踏み出した瞬間だった。
 腕を掴まれたのだと認識すると同時、
「シュウちゃん」
 朔也が名前を呼んだ。
 振り返ると、立ち上がった朔也はじっと俺を見つめていた。
「俺――」
 開いた口は、音を紡ぐ前に再び閉じられる。
 飲み込まれた言葉を聞き返すより早く
「俺も手伝うよ」
 と朔也が笑った。
 笑顔の下に隠されたのは何だったのか。気にならなかったわけではないが、朔也が言わないと決めたならそのままにしておくべきだろう。
「じゃあ、二人で作るか」
「うん」
 自然と離された手に足を止めれば、朔也が先に踏み出した。一瞬にして抜かされ、そっと息が漏れる。
「シュウちゃん」
 朔也は振り返ることなく、キッチンへと足を進めながら言った。
「ん?」
「俺、彼女はいないけど。好きなひとはいるから」
 冷たい水を飲み込んだように。体の奥がぎゅっと縮んだ気がした。