昼休みを告げる、チャイムと同時に。
いっそ学校から、脱走しよう。
そう心にもないことを、思ったけれど。
……肝心の授業が、終わらない。
あぁ。
よりによって、きょうに限って。
なんでわざわざ、藤峰先生の授業なんだ……。
「ブ、ブリオッシュとフォカッチャをマクハーで食べます」
指名された山川が、黒板の前でぎこちなく。
もう五回目の音読をし終えて、固まっている。
「フランスの菓子パン、イタリアのパン! ほら、これが最後のヒント!」
先生が、ブなんとかとフォなんとかが書けるようにと、粘るけれど。
英文法の授業ですよね、これ……。
そんな単語、正しく書ける必要あるんですか?
「ぶ、ブカレスト?」
「えっと、ブリオッシュ」
「ブダペスト?」
「うーん、ブリオッシュ」
山川が、意外に世界地理が詳しいことだけはわかった。
ただ、おかげで先生が。
「あぁ、ハンガリーとルーマニアね。なるほど〜」
僕の地図帳を、チョークまみれの手で持って。
「ちゃんと覚えときなよ、海原君!」
そういいながら、勝手に期限の切れたパン屋のポイントシールをはっている。
「先生。マクハーがやっぱり、英和辞典に載っていません……」
ヘルプに指名された女子が。困り果てた顔で、僕を見る。
「うーん、アラビア語でカフェって意味なんだけどねぇ〜。難しかったかぁ〜」
あぁ、先生は絶対、アラビア語が話せるんじゃなくて。
どこかでこの変な例文を、拾ってきただけだ。
「マクハーのスペルは、忘れたから海原君調べといてね」
「えっ?」
「先生、お、俺は……」
「山川君は、パン屋にいって聞いてきなさいよ。明日提出ね、はい授業終了!」
結局五分オーバーで、授業が終わる。
「授業中から、アンタ落ち着きないよ。トイレ?」
あのなぁ、小学生じゃないからさぁ……。
隣で高嶺が、とぼけたことをいうけれど。
ひょっとしたらコイツも、数分後には鬼になっているかもしれない。
「遅くなった、急ぐよっ!」
放送室にいく気満々の高嶺が、声をかけてくる。
そうだよな、お前は一刻も早く到着して。
三藤先輩のおかずを、誰よりも早く確保したいんだもんな……。
「な、なぁ高嶺……」
「どした? やっぱトイレ?」
「えっと……」
「あ、いたいた。海原くーん」
「えっ……」
なぜか三組の女子が、廊下から声をかける。
「姫妃先輩がね、食堂で待ってるね、だって〜」
「あ、ありがとう……」
三組の子と、あの先輩がどう繋がるのかはわからないけれど。
あぁ……。
高嶺に聞かれた、万事休すだ……。
……予想どおり僕の隣で、アイツの大きな目が点になって。
それから、普段の何倍も大きくなった気がした。
カチ、カチ、カチ。
処刑台へのカウントが始まった……はずなのに?
「キキ先輩って。……えっ? まさか……波野《なみの》姫妃《きき》?」
「へ?」
「え、まさかアンタ! 知り合いなの?」
「は?」
「ウソぉ! すごいじゃん!」
……高嶺の目が、うつろ、じゃなくて。
目線は、教室の天井の染みを見ているはずなのに。
なぜだかともて、キラキラしている。
「ほら。去年、一緒に観たよね!」
「そ、そうだっけ?」
な〜んにも。き、記憶にないんだけれど……。
「学校見学がてらの文化祭でさ。ほら、舞台でお姫様やってた!」
……あぁ、なんだかコイツに。
無理矢理連れていかれた、文化祭か。
ここであえて、復習を兼ねて説明すると。
コイツと僕は、同じ私立中学出身で。
大抵の同級生は隣にある『本校』に進学する。
ごくごくたま〜に。
同じ学園が経営する、我らが通称・『丘の上』に進学して。
結果、奇跡的に僕たちは。四年も連続して同じクラスに所属しているのだ。
……そして、あのときは。
確かここ、『丘の上』の文化祭実行員が。
なんでも、前売の金券が売れずに困っていて。
「ねぇ、模擬店なんでも半額になるよ!」
そういって、僕がランチを買おうと手にしていた五百円玉を強奪して。
「ふたりで千円! これで二千円も食べられるぅ〜!」
そうやって喜んでいたアレだ。
コイツみたいなヤツが、『本校』の文化祭の金券と勘違いして買って。
「なにこれ! バス代考えたら全然得じゃないんだけど!」
そうやって使わないことを想定した、ある意味で完璧。
実際はエゲツナイ発想の、金券だ。
……ん?
もしかして。
今度、委員会の資料を調べないと。
……僕は、ひょっとしたら。
去年の文化祭担当に『藤峰佳織』の名前がないかどうか。
念のため、確認しなければならないと思った。
……で。
もったいないから使うんだと、連れていかれた、あの文化祭か。
「ステージでさ! めっちゃくちゃ可愛かったよねぇ〜」
ん?
むさ苦しい感じの男子たちの塊が、大勢で演歌を熱唱していて。
お前が、ぶんぶんタオルを振り回していたことしか、覚えていないけど……。
「いやそれ。次のバンドのときと、ごっちゃになってるだけだよ〜」
いつもなら、間違えたら噛みつかれそうなのに。
いまのコイツの頭の中には、お姫様しかいないらしい。
「で、なに? 文化祭のステージの相談? やっぱ熱心なんだねぇ〜」
も、もしかして。
まさかのコイツが、救世主なのか?
「……な、なぁ高嶺」
「ちょ、ちょっと!近いから!」
いつもと逆の展開だが、ここは勢いだ。
「廊下に出よう」
「う、うん……。どのみち部室いくから出るけど……」
隣で、山川がジト目でなにかいいたげだったが。
それを放って、そのまま廊下に出てしまって。
……随分経ってから、思い出した。
約束の『カレーパン』、すまんかった!
「……なわけないでしょー! 月子先輩ぶっ飛びすぎ〜」
実際、高嶺は救世主だった。
何色なのかはわからないけれど、キラキラしたお姫様が頭の中で回っていて。
「ないない! アンタがあのお姫様となんてありえない!」
「そ、そうだよな……」
「もう、地球が一日一万回まわってもない!」
おい、大丈夫か?
ち、地球は……。
一日一回だけしか回らないはずだけど……。
「舞台の相談だって、わたしが説明しとくからさ。いっといで!」
……うーん。
なにかが、釈然としないけれど、
ここは救世主に任せておこう。
ひょっとしたら、一回くらいなら。
三藤先輩だって三日? 一週間? まぁできれば、明日には……。
許してくれるかも、しれないし。
「今度、絶対紹介してよ!」
中央廊下で、ブンブンと腕を回しながら。
アイツはご機嫌に、放送室に向かう。
他人のものだし、胃のなかに入れば一緒だけれど。
僕は、何回転もしたあのお弁当箱の中身が、無事なのだろうかと。
余計なことながら心配になった。
……さて、こうなれば仕方がない。
覚悟を決めて、食堂へいこう。
こうして、僕は。
悲劇の舞台へと。
一歩一歩。
自ら、着実に近づいていった。

