「ほとんどひとりでいただいてしまって……。す、すいません」
 誇張、ではなくて。
 三藤(みふじ)先輩が、僕のお皿に休みなくのせてくれるので。
 おいしくてつい、たくさん食べてしまった。

「味見でお腹いっぱいだったから。構わないわ」
 素っ気なく答えるけれど、その顔はうれしそうで。
 おかげで僕は、心もいっぱいになりそうだ。

「……あら月子(つきこ)、本当は味見どころではないでしょう? 昨日の昼から、何度も作り直しているうちに……」
「いきなり現れないで! 落ち着かないでしょう!」
 いつのまにか、近づいていた三藤母を。
 先輩は、両耳を真っ赤にしながら慌てて押し戻す。

「ほんとうに、騒がしい母でごめんなさい」
 三藤先輩がぶつぶついいながら、僕を見る。
「量は足りた? もう少し多めに作ったほうが、よかったかしら?」
「とんでもないです! 美味しすぎてこれ以上食べたら……。あとで夕ご飯が食べられなくなっちゃいます」
 すると先輩が一瞬、固まって。
「ごめんなさい。夕ご飯までは用意していなくて……」
「そ、そういう意味じゃ、ないんですけど……」
 あぁ、三藤先輩はやっぱり。
 ……ときどき、真面目すぎるのだ。



「少し片付けてくるわね。あの、よかったらこれ……」
 ふたりで、ごちそうさまをしたあとで。
 三藤先輩が、いつものように律儀に両手を添えて。
 小豆色(あずきいろ)のブックカバーがかかった文庫本を、差し出してくれる。
「あ、ありがとうございます」
 僕が無意識のうちに、タイトルページを開くと。
 なんだか先輩にしては、珍しい出版社の……。
「前にここでお話ししたときに、教えてくれた本があったでしょ? その出版社の中から、探してみたのよ」
 僕の好きなジャンルの、新鋭の作家の最新作か。
「三藤先輩、もう読んだんですか?」
「え、ええ……」
「感想は……って、まぁそれは僕が読んでからにしますね」
 その表情から、いいそうなことはなんとなく理解できたけれど。
 いまはまだ、口に出さないでおこう。
 なぜなら、僕も……。

「実は、僕も先輩の好みのジャンルから、一冊持ってきました。ただ、申しわけありませんが、書店のカバーのままですけれ……」
 僕がいい終わる前に、先輩は正座し直すと。
 そのままスッと両手を伸ばして僕から本を取り、カバーを外して表紙を見る。
 続けて明らかな疑問系の声で、僕に聞く。
「これ、本当に自分で買ったの?」
 そう、いくら古典とはいえ。
 このジャンルは苦手だ、特に表紙が僕にとっては……。
「女子感満載よね……」
 そう、そうなんだ。
 花柄満載なのはともかく。
 美少女と美青年が見つめ合う、いかにも女子が好みそうな装丁で……。
 書店のレジで出すのが、正直恥ずかしかった。

 先輩が、ちょっとイタズラっぽい笑みを浮かべて、僕を見る。
「ねぇ海原(うなはら)くん。この本ね、もっとスタンダードな表紙のもあるのよ」
「そうなんですか? ……ってまさか先輩、持ってます?」
「実は、ごめんなさい……」
「で、ですよね。古典なんだから、文庫化されているものって限られますよね!」
「でも、わたしのとは別の現代語訳版だから。きっと雰囲気が違うでしょうし、きちんと読ませてもらうわ」
 そういって、笑顔になった先輩が。
 一度奥へと、昼食を片付けにいく。


 ……それからそれほど、長くは経っていないけれど。
 預かった本に、集中していると。
 ふと、隣にやわらかな香りを感じた。

 ……あれ?
 どこかで感じたことがあるけど、少し違う気もする……。
「お待たせ。遅くなってごめんなさい」
 もちろん、現れたのは三藤先輩だけれど。
 この香りって、僕の知っている三藤先輩の香りとは違うよなぁ……。
「先輩、お風呂入ってたんですか?」
「えっ?」
 そんなわけないだろう、と自分でも思う。
 でもほかに、言葉が見つからなかったのだ。
「もしかして、気がついてくれたのかしら?」
 ところが珍しいことに、先輩はあきれるわけでもなく。
 なにやら少し、うれしそうだ。


「海原くん。響子(きょうこ)先生からプレゼントもらった日のこと、覚えているかしら?」
 そういえば、そんなことがあった。
 一学期の終業式前に、僕がパンを買ってこいといわれたあの日だ。
「僕だけが、プレゼントがなかった日ですね」
「商品券があったじゃない。それであのとき、いただいたのが……」
「シャンプーですか?」
「違うわ、香水よ」
「『コウスイ』って、あの?」
「そう、香りの水と書く、香水。でも、ほかになにかあるかしら?」
 三藤先輩が、真面目に考え込む。

 いや、いきなり香水っていわれたので。
 こうなんか、大人のつけるものだよなぁ、と思っただけで……。
 あと、もっといえば。
 僕は、学校で。
「暑いっ!」
 そういいながら高嶺(たかね)由衣(ゆい)が、シュージュワーっと。
 まるで殺虫スプレーみたいに教室中に巻き散らかしてるやつとは違う。
 ……そんなことをふと、考えただけなのだ。
「海原くん……」
「はい」
「いま。ほかの女の子のこと、考えていなかったかしら?」
「へ?」
 三藤先輩の瞳が、少し不満げに僕を見ている。
「ここはわたしの家ですけれど……。ちょっとひどくない?」
 ま、まずい!
 怒られる前に、話題を戻さないと。
「そ、それで。どうして香水をもらったんですか?」
 先輩は、それでもまだ不満げだったけれど。一応話しを戻してくれるらしく。
「ずっと前、それこそまだ海原くんたちと一緒に通う前にね……」

 それは、高尾(たかお)先生とふたりで隣同士、座ってた頃のことだと教えてくれた。



「……あらごめん。もしかして、香りが苦手だった?」
 珍しく、高尾響子が話しかけてきた。
 もっともそのころは、まだ名前もなにも知らない。
 ただの『朝のお隣さん』、だったのだけれど。

「い、いえ。本なのに、いい香りがしたので少し驚いただけです」
 いま思えば、あの意味ありげな笑顔はさながら。
「やったー、気づいてくれたー!」
 ……みたいな感じだと思う。
 とにかく、あのとき。
 響子先生はとってもうれしそうだった。
「これはねぇ〜。和紙の(しおり)に、お気に入りの香水をちょっとつけてみたの」
「えっと、それは……。百貨店の一階で、よく化粧品売り場のかたがされてるようなものですか?」
「そうそう。まぁ百貨店じゃなくてもいいんだけれど、ムエットっていうんだよ」
 先生はそういうと、栞をひらひらとさせてわたしを見る。
「……もしかして、香水好きなの?」
「いいえ、持っていません」
「でも、デパートにはいくんでしょ?」
「基本は母親の買い物です。それに、わたしでは使う機会もありませんから……」
 いま思えばあのとき。
 響子先生が、もう一段階ギアをあげた気がする。
「じゃあよかったら、これあげる!」
「え、でも?」
「わたしの好きな香水を、気に入ってくれたお礼だよ!」



「……なるほど、そんなことがあったんですねぇ」
 海原くんが、妙に感心してくれるのはうれしいけれど。
 ……本当はね、この話しには続きがあるの。



「……あとね、いつかあなたに必要になりそうだなと思ったら」
「は、はい……」
「わたしにぜひ! 香水、選ばせてくれない?」
 だからね、高尾先生から一学期の終業式前にいただいたこれは。
 その約束の、証なの。
 かわいい小瓶に入った、その香りは。
 先生のものとは、少し違うけれど。
 とてもわたしの、好きな香りよ。

 ……ついでだから、ここだけのはなし。
 あのとき、わたしが慌ててしまったのは。
 プレゼントの中身が、香水だったからではない。
「そろそろ必要かな? まずは小瓶から!」
 手書きのそんなメッセージが、添えられていたから。

 ……海原くんにみられるわけには、いかなかったのよ。


 それからふと、海原くんの顔を見て思った。
「ねぇいま……。随分と熱心に、響子先生のこと考えてなかった?」
「あ、それですよ! 高尾先生の香りとの違いを考えていました!」
 ああホント、それをいまいうの……?
 響子先生の話しを出したのは、確かにわたしだけど……。
 なにもそこまで熱心に、思い出さなくてもいいんじゃない?

 もう一度いいますけれど。
 わたしの家よ、ここ。
 目の前にいるの、わたしなのよ!


「……でも、やっぱり違いますよね」
「えっ?」
「先輩の香りは、もっと先輩に似合っています」
「あ、ありがとう……」

 海原くんが意識して、話していないからこそ。
 いわれたこちらは、意識してしまう……。


 ……それからしばらくは、本の話をふたりでした。
 今回は、海原くんが無理して買って、読んでくれただけあって。
 古典の本について一緒に色々語り合えたのが。
 わたしはとっても、楽しかった。


 ……それからふと、空を見る。

 そろそろ、次に進めるかしら?


「ねぇ海原くん……」
「はい」
「三十分、いや二十分もかけないので。ここでもう一度待っていてもらえる?」
「いいですけど?」
 そういって、不思議な顔をする彼を残して。
 わたしは自室へと駆け上がる。

 あと、ひとつだけ。
 わたしはきょう、どうしてもやりたいことがある。



 ……あらあら、階段を走るなんて珍しいこと。
 さてさて。
 あの子の母親として、ひとつ頑張らせてもらうわよ。

 わたしは、ゆっくりと階段をのぼると。
 娘の部屋を、ノックする。
「月子、お手伝いしましょうね」
「うん、ありがとう。お母さん」

 ……やさしい返事ができる娘に、育ってくれた。
 いえ、そうではなくて。

 あなたの、『初恋』の相手が。
 あなたを変えたのかしら?


「……お待たせしました。玄関にいらしてもらえる?」
 熱心に本を読んで、娘との会話の準備に忙しい彼の背中に。
 わたしはそっと、声をかける。

「どうかしましたか?」
 のんびりと、そんなふうに答えて。
 そのあと玄関にいる娘を見たときの、あなたの顔ときたら……。


 母親としては、そうね。


 ……心の中で、思わずガッツポーズをしてしまったわ。