正午を、少しだけ過ぎた頃。
 僕は三藤(みふじ)先輩の家の、門の前に立つ。
 そこから、玄関をのぞいてみるが。
 予想外に、先輩の姿がない。
 なるほど、きょうはどうやら。インターフォンを押すところから始まるらしい。

 ……そういえば、これまではいつも先輩が外に出ていてくれたので。
 先輩の家のそれを押すのは、初めてだ。
 僕はカメラの前で、少し姿勢を正す。
 まず押してから、名乗って、要件を告げよう。
 えっと、『お弁当をいただきに参りました』でいいのかな?
 あれ、それだと持ち帰り弁当屋みたいで失礼か。
 でも『食べにきました』って、食堂みたいで変じゃないか?

 ……そんなことを考えていると、玄関が静かに開いて。
 先輩のお母さんが、笑顔で現れた。
「あ……。お、お母様……。こ、こんにちは」
海原(うなはら)君、いらっしゃい。カメラの前の練習姿、月子(つきこ)が喜んで見ていましたよ」
「えっ!」
「お母さん、どうして勝手に出てるいるの! 余計なこと、いわないでよ!」
 両耳を赤くした三藤先輩が、慌てて外に出てきて。
 その姿は、いつもと変わらず。
 やはりきょうも、せ、制服だけど……。
 ただ、きょうの三藤先輩は……。
『哺乳類』の描かれたエプロンを、つけていた。


 三藤家の、立派な日本家屋の中にお邪魔するのは。これが二回目だ。
 今回も玄関にあがらせていただき、広縁をとおり和室に進むのかと思いきや。
 三藤母が、僕を通せんぼする。
「月子、あなたのお部屋でよかったかしら?」
 うしろにいた先輩の頭が、僕の背中にゴツンとあたる。
「え、縁側です! 変なこといわないでよ!」
「あらー、別に構わないじゃない〜」
「お客様なのだから、和室ですっ!」
「いつまでもお客様扱いしたら、かえって失礼じゃないかしら? ね、海原君?」
 三藤先輩と、姿形はよく似ているけれど。
 先輩よりも『明るい系』のお母さんが、楽しそうに笑っている。
「そうなの? ではこちらへどうぞ」
「し、失礼します……」
 そう答えて前に進もうとすると、三藤先輩が。
「ちょっと。いま余分なこと、付け加えなかったかしら?」
 僕のシャツの背中をつまみながら、聞いてくる。
 ……どうやら、僕はまた。
 心の中を、読まれてしまったようだ。

 縁側だと、わざわざ先輩が指定したとおり。
 そこには向かい合わせで、座布団が敷かれていた。
 円卓には、既にクロスが敷かれ。
 一輪挿しには、灯台躑躅(どうだんつつじ)の枝が飾られている。
「初めてお邪魔したときに、あの奥に咲いていましたよね?」
「まぁ……」
 先輩のお母さんが、少し驚いた声をあげたあとで。
「いつもその調子で、娘も観察してくれているの?」
 また予想外のことを聞いてくる。
「い、いえ。そ、そんな……」
「ちょ、ちょっとお母さん!」
 僕以上に、先輩のほうが慌てていて。
「あ、あとは自分でやりますから! お母さんの分は、ご自由にどうぞ!」
 そう母親に告げたのだけれど。
「それなら、こちらでいただこうかしら?」
「えっ……。どうしてここなの……」
「あら。月子が自由にしていいって、いったのよ?」
 あの三藤先輩が、完全に手玉に取られている。

「き、客間はダメです!」
「つまらないわねぇ〜。では海原君、ごゆるりと」
 三藤母は、そういうと。先輩に背中を押されて名残惜しそうに消えていく。 

「……お、お待たせしました」
「な、なんだかすいません」
「……飲み物と、お弁当を持ってくるわ」
「お手伝い、しましょうか?」
「そうしたら母がまた出てくるから、絶対にここから動かないで」
「……はい」
 そんな会話を交わしてから、先輩は一旦奥へと消えていく。


 ……外はまだまだ暑いけれど、不思議とここは心地よい。
 きっと、流れる風がおだやかなのだろう。
 奥のほうで、また先輩が母親となにかいっている声が聞こえてきて。
 それはそれで、新鮮な気分ながら。
 またなにか、心が落ち着く気がする。

「お、お待たせしました」
 藤色のグラスには、氷と飲み物が入っている。
 氷の周りで弾けるそれは、炭酸の効いた甘い飲み物だろう。
 それにどうやら、先輩もお茶ではなくて。
 きょうは僕と、同じ物を飲むようだ。

 明るい青色の布に包まれたものが、目の前に置かれる。
勿忘草色(わすれなぐさいろ)と、いいます。以下省略で、いいわよね?」
 反対側に座った先輩が、やや伏目がちに僕に告げる。
 先輩の思い出の色で、『あのとき』のことか……。
 はい、以下省略で、結構です。


 僕が、結び目を開こうとすると。
 先輩がいい忘れていた、という顔で慌てて付け加える。
「ちょ、ちょうどいいお弁当箱がなくて。お正月のお重を使ったから……。少し変かもしれないけれど、ごめんなさい」
「いえ、夏なのにおせちなんて。めちゃくちゃ豪華ですよ」
「そ、そうなの? あ、ありがとう……」
 少し驚いたような顔の、先輩が見守る中。
 目の前に重箱が現れると。
「わ、忘れていたわ……。ちょっと待っていて……」
 先輩がパタパタと、慌ただしく奥に戻る。
 するともう一度、お盆を取りに戻ってきて。
「あ、あと少しだけね!」
 そういって、また奥に消える。
 先輩の、普段見たことのないような慌てように。
 逆に僕の緊張が、だいぶほぐれてきた。

 ……墨色(すみいろ)の和皿が、手元に置かれる。
 なるほど、この重箱の中身をふたりでわけるのか。
「本当に、お正月みたいな感じですね」
「お、お雑煮までは作っていなくて! ご、ごめんなさい!」
「い、いやそこまでは……」
「そ、そうよね……」
 そう答えてから、先輩は一度深呼吸をして。
 ここでようやく、落ち着きを取り戻してきたらしい。


 いただきますをしてから、僕にあけさせて下さいとお願いして。
 ゆっくりと重箱の蓋を、持ち上げる。
「おおっ……」
 そこには、やさしそうな色の料理の数々が。几帳面に並べられていた。

「すごい。これ、全部ひとりで作ったんですか?」
 三藤先輩が、少し左の頬を膨らませながら僕を見る。
「あのね、いきなりその質問するの、意地悪してる?」
「へ?」
「さすがに……。そこまではまだ無理よ」
 またやってしまった、ま、まずい……。
「す、すいません。気遣いが足りなくて……」
 先輩は、一呼吸置いてから僕を見ると。
 美味しそうな卵焼きを、やさしく僕のお皿にのせなながら。
「そう、そのあたりよ。海原くん、もう少し考えてもらえないかしら?」
 背筋を伸ばし、そんなふうに僕にいう。
 
 ……ようやく、いつもの三藤月子に戻ってきた。


 三藤先輩が、取り箸を使うたび。
 人差し指に巻かれた、真新しい絆創膏が目につく。

 少しだけ学んだ僕は、傷の理由を質問しなかった。
 万願寺唐辛子を切った時なのか、丸茄子のヘタのせいなのか。
 もしかしたら、鰆の骨取りのときかも知れないけれど。

 その傷を作ったのは、間違いなく僕の『せい』だ。
 いや、訂正しよう。

 それは間違いなく、僕の『ため』なのだから。


 ひとつひとつの作業を、丁寧に。
 お母さんが見守りながら、じっくりと作ってくれた。

 そんなことがわかる味のおかずを、いただきながら。


 僕は、先輩の藤色の瞳の奥の奥まで。

 この感謝の気持ちが、届いて欲しいと思った。