……朝の練習に、なぜか春香(はるか)陽子(ようこ)がいる。
 それが僕には、不思議で仕方がない。

 駐車場の反対側で、きょうは特別大きく。
 高嶺(たかね)由衣(ゆい)赤根(あかね)玲香(れいか)が声を出す。
 合わせて、春香先輩が負けじと声を張りあげると、
「叫ばなーい! お腹に力を入れなさーい!」
 すかさず藤峰(ふじみね)先生が、誰よりもよくとおる声で先輩に告げる。
「はーい!」
「そうそう、そんな感じー!」
 高尾(たかお)先生の声が、伸びやかに響く中で。僕は、つい。
 都木(とき)先輩は、今朝もごはんを作ってくれているのだろうけれど。
 三藤(みふじ)先輩はいったい、どこにいるのだろう?
 そんなことを、考えていた。

「う、な、は、ら、サボるなー!」
 春香先輩が声を出すと、ほかの全員が楽しそうに、同じ言葉を繰り返す。
「う、な、は、ら、サボるなー!!」
 あれ、ひとつ声が増えた気がする……。

 振り返ると、都木先輩が大きく手を振りながら。
 もう一度僕に、サボるなーと大声を出してから。
 朝ごはんの支度ができたと、知らせにきた。


「うわっ、すごっ!」
「まぁっ……」
「これ、本当に朝ごはんなの?」
「シェフが変わると、こんなに……イテッ!」
 最後にいいかけた僕の右足を、踏んづけたのは。
 ……え?
 春香先輩が、まさかね?
 僕は左側の高嶺に向かって、踏むなよ、といいかけるけれど。
「いっとくけど、いまのはわたしじゃないし」
 へ?
 じゃぁ。
 ほ、ほんとに春香先輩が??

「あのさぁ『(すばる)』、感じ悪い!」
 は……?
 い、いまいったのって。
 ハ、ハ、ハ、春香先輩ですよね?
「わたしのご飯じゃ、不満だったってことだよね?」

 都木先輩が、両手で口を塞いでいて。
 高嶺と玲香ちゃんと高尾先生の目が、点になる中。
 藤峰先生だけはわざとらしく腕組みをして、なにやら満足げな表情だ。


「ど、ど、どういうことかかかな?」
 なんとか正気を取り戻しつつある高尾先生が、代表して春香先輩に質問する。

「今後わたしは、海原(うなはら)(すばる)の『姉』になります」
 力強い声で宣言した春香先輩が。
 僕の右腕に両腕をからめると、とびきりの笑顔で僕を見る。
「ね、弟くん?」
 あぁ一見、天使の笑顔だ。
 でも、なにこの背筋が凍る感じって……。
「あぁ、兄弟だから。作り笑顔なんでヨロシク。勘違いしないでね」
 今度はなにその、低い声……。
 いきなり演劇部にでも変わったのか、この先輩?

「え、えっと……。陽子ちゃん?」
「高尾先生、そういうことですよ」
「あ、そそそ、そういうことね……」
 ……って先生。
 納得しないでくださいよ!



「……付き合ってとはいわないよ。『姉』になるとは、いうかもしれない」
 ……確か昨日の夜は、そういってたはずなのに。

 陽子ったら、もう宣言しちゃったの?
 わたしは、またひとつたくましくなった年下の幼馴染に。
 ただただ、驚くばかりだ。

 でも、海原君に誰かが説明してあげないと。
 もちろん『肝心』なことは、さすがにいえないけれど……。
 もうひとつのことさえ、彼は知らないんだよ?
 わたしは小さく一度、深呼吸してから。一歩前に出る。

「もう、陽子ったら。留学やめた途端、ねじでも外れちゃったの?」
「えっ? 留学やめたんですか?」
「……らしいけど、知らなかったの?」
「そんなの、聞いてませんよ!」
「ねぇ『弟分』がそういってるよ、陽子。それで本当に『姉』のつもりかなぁ?」



 ……美也(みや)ちゃん、ありがとう。
 ちょっと急ぎすぎて、順番を間違えてたね。
 年上の幼馴染は、やっぱり頼りになる。
 でももう、悩まない。

 ……わたしは、決めたんだから。

「もう、相変わらず鈍感な弟だなぁ〜。留学やめたの、みんなもう知ってるよ?」
「ええっ……。僕だけ知らなかったんですか……」
 『昴』がなにか、いっているけれど。
 うん、出だしはこれでいい。
「それに美也ちゃん。これは、わたしの弟。『弟分』じゃなくて、弟なの!」
 よし!
 笑顔で、いい切れたと思う。
 そう、これがわたしの決意表明。
「ということで、昴、美也ちゃん、あとみんなも! これからもヨロシクね!」



「…………」
 ……僕は、なにもいえず。
 その場に立ち尽くすしかなかった。
 よくわからないけれど、僕が寝に戻ったあとの、宿坊で。
 きっと何かがあったのだろう。

 すると途方に暮れていた、僕の背中のほうから。
 何事もなかったように、いつもの声が聞こえてきた。
「折角作ったのに、冷めるから食べてもらえないかしら」
 僕が、驚いて振り向くと。
 お玉を持ち上げた格好の、三藤先輩が。
 無表情のまま僕を……。
 ではなくて、春香先輩の背中を見つめている。

「……あ、そうだよね。ごめん月子(つきこ)!」
「……許さない」
「えっ……」
 一瞬、場の雰囲気が凍りついたけれど。
 相変わらず三藤先輩は、そんなことは気にしていないようだ。

「せっかく、ベストのタイミングで作った卵焼きなのに……」
「え?」
「冷めたら、許さない」
「えっ? ……そっちなの?」
 思わず藤峰先生が、声に出す。
「お味噌汁も冷めるじゃないですか。それも許せませんけど!」
 三藤先輩に、重ねていわれて。
 なぜだか、高尾先生までアタフタし出して。
「みんな早く座ろっ! 部長も急いで、号令!」
「は、はい。それじゃあ、いただきます!」
「いただきます!」
 そう、唱和して。
 この場はどうにか……。
 三藤先輩が、爆発せずに収まった。



 ……海原くんが、おいしそうに食べてくれてよかった。
 だから、それに免じて。
 先ほどからチラチラと、わたしのようすをうかがっている陽子に。
 わたしのいまの気持ちを心の中でだけ、教えてあげる。

 予告なく『昴』と呼び捨てにされたのは、不愉快だ。
 由衣さんみたいな距離の取り方ができたのも、不愉快だ。
 『姉』というポジションにいきなり収まったのは、正直理由がよくわからない。
 でも、でもなにより許せなかったことがある。

 今朝のご飯は、わたしが海原くんにこの夏『初めて』作った、ご飯だったのに。
 陽子、あなたに主役を奪われたのが、許せない。

 海原くんが、お味噌汁のおかわりをしようと席を立つ。
 わたしが慌てて、よそいにいこうとしたのだけれど……。
「アンタよりわたしが先!」
「由衣ちゃん、年上に譲ろうよ!」
「玲香ちゃん、それなら先生が最初かなぁ〜」
「ちょっと佳織、大人げないよ!」

 ……ほんとにもう、みんな子供なんだから。
 そう思うと、もう。
 自分の怒りがなんだか、とても心の狭いことに思えてきた。



 ……よかった、月子。
 いま、少しだけ笑ったよね。

 いきなりでごめんなさいと、あとでしっかり謝ろう。
 親友同士でも、ケジメはつけないとダメだよね。

 でも、わたしわかったことがあるんだ。

 あなたは、わたしが彼に恋したなんて。
 微塵にも思ってないんだね。
 それどころか、ひょっとしたら自分自身の気持ちさえ……。

 女の子に鈍い男子と、女心に鈍い女子かぁ。

「陽子、いまなにか失礼なこと考えていない?」
「へっ? ないない! 気のせいだよきっと」
「そうだといいのだけれど……」
 月子が接近していたのに。つい、うっかりしていた……。


 さてさて、『姉』として。
 わたしはいったい、誰を応援したらよいのだろう?

 なんだか、これはこれで。
 当分イバラの道が続きそうだ……。