「……あ、おはようございます」
 わたしは、できる限り素っ気なく声をかける。

「た、高嶺(たかね)さん?」
 いつもなら。
 『名前呼び』から昔に戻ってますよ、とかいいたくなるところだが。
 さすがにいまは、やめておこう。

「熱中症とか、貧血とか、そんな感じですかね? 暑いし、朝早かったし」
 電車から見えちゃいましたよ、海原(うなはら)と朝から楽しそうに……みたいな嫌味も。
 いまはやめておきますよ、月子(つきこ)先輩。



「……高嶺! 手伝ってくれ!」
 海原のあんなに焦った顔を見たのは、『あのとき』以来だ。
 背中に月子先輩を背負って、授与所にアイツが走ってきた。
 先輩の、いつも白い顔がさらに白いのに驚いて。
 すぐには動けずにいたわたしに、気がつくと。
 アイツは今度は、冷静にわたしに声をかけた。

 偶然倒れる前に支えられたので、頭も体も打ったりしてはいない。
 多分、熱中症だろうから。
 まずは横にして、体を冷やす必要がある。

「……だから落ち着いて、社務所にきてくれ」
 アイツが、わたしの目を見て。ゆっくりと、話してくれて。
 今度はわたしも、理解ができた。


 布団の上に、月子先輩をゆっくりと横たわらせるアイツの目は、真剣だった。
「エアコンの温度を一番低く、風量を強くしてくれ」
 わたしは、いわれたとおりにする。
「冷蔵庫にペットボトルがあるか、冷凍庫に氷があるか教えてくれ」
 具体的にどこでなにを探せばよいか教えてくれたので、わかりやすかった。

「先輩のジャージを、脱がせてくれ」
 そういって、海原がどこかにいこうとして。
 わたしは慌てて、アイツの手を取った。
「心配するな。タオルとペットボトルで体を冷やす準備をしにいくだけだよ」
 そういったあと、アイツは。
「僕が、ジャージを脱がせたと知ったら……」
 真面目な顔で。
三藤(みふじ)先輩が怒って、二度と口をきいてくれなくなるだろ? だから、頼む」
 なにそれ? こんなときにその心配なの?
 わたしが思わず、口元をゆるめると。
「そうそう。高嶺がここで笑えなかったり、ついでに倒れられたら……」
「たら?」
「さすがに、僕が困るんだ……」
 まだ、真面目な顔をしているけれど。
 自分が少しでも、アイツの役に立てると思うと。
 わたしはなんだか、落ち着けた。


 三藤先輩の両脇に、ペットボトルを挟んでくれ。
 額にタオルを乗せて、ぬるくなったら氷水で冷やしてあるものと交換してくれ。
 高尾(たかお)先生を探しにいくけれど、見つからなくても五分以内には必ず戻るから。

「それまで先輩を、よろしく頼む」

 アイツが、先生を連れて戻るまで。
 不思議とわたしは不安にならなかった。
 アイツにいわれたことを守れば、なにも問題はないし。
 なにより、アイツが必ず約束を守ると信じていた。

「……うん、大丈夫そうだね。海原君、処置としては完璧だよ」
 この広い神社で、どうやって見つけたのかは知らないけれど。
 アイツはあっというまに、先生を連れてきた。

 ほっとして、力が抜けそうになったわたしに。
「お前も、飲んでくれ」
 アイツはよく冷えた麦茶を、やさしく渡してくれた。


 まだ真顔の海原を見て、思い出す。
 そういえば『あのとき』。
 部室の窓からわたしが消えて、頭を打ったと勘違いしたときも。
 アイツはこんな顔だった。
 ふと思い出して、ちょっと笑ってしまう。

「どうした?」
「だって前に、わたしが倒れたと勘違いしたときの顔を思い出したらさぁ……」
「あぁ、あれか……」
 アイツは、少し照れくさそうにしたあとで。
「まぁおかげで、学んだんだ」
 ボソリと付け加えると。
 ようやくいつもの、穏やかな顔に戻った。


 ……なるほど、だからきょうは冷静になれたんだね。
 海原の成長にわたしは役に立てた。それはうれしい。

 でも同時に。
 あのときのわたしと、きょうの月子先輩。
「アンタにとって、どっちが心配だった?」
 そんなことを聞きたいと、考えてしまった。

 意味のない問いは、海原を傷つける。
 いや、違う。

 きっと答えを知って、傷つくのはわたしだ……。


「しばらくわたしが見ておくから。ふたりとも、少し休みなさい」
 高尾先生はそういって、ちょっと照れくさそうに冷凍庫を指差す。
「わ、わたしの名前が書いてある、赤い箱があるから……。あけていいわよ」

 そういえば氷を探しているときになんだか、金属の箱があった気がする。
「なんですか、これ?」
「いいから海原君、あけなさい」
 するとアイツが、声を殺して笑いながら。わたしのほうを見る。
「仕方がないでしょ!」
 高尾先生の顔が少しだけ赤くなったけれど。
 いったい、なにが入っているの?

「ちょっと手、広げてみ?」
 いわれたとおりにすると、海原が。
 わたしの手に、よく冷えたものをいくつか置く。
 な、なにこれ……?
 赤い箱に、わざわざ入れ直してあったのは。
 個包装の、チョコレートで包まれた小さなアイスクリームで。
「先生、いまどき小学生でもこんなことしませんよ……」
「そのままだと、いつも全部父に食べられるの! 子供の頃からそうなの!」
 アイツにいわれて、高尾先生がすっごく恥ずかしそうにしていた。


「……甘くて、おいし〜」
 笑顔のわたしを、海原がじっと見る。
 な、なによ? どうかした?
「なぁ、調子悪くないよな?」
 もしかして。そんなにわたしのこと、心配してくれるの?
「平気平気。大丈夫だから心配しないでいいよ!」
「そうか、ならよかった」

 ……笑顔を添えて返したのに、なにその顔?
 ふと、畳の上で横になっている月子先輩を見てから。
 頭の中で、自分の姿を重ねてみる。


 ……まさかと思うけれど。
 コイツ! もしかして……?
「ねぇ、アンタさぁ? 本当にわたしの『体調』心配しくれてる?」
 普段の海原なら、この流れでさすがに理解できるはずだけれど。
 でも、きょうは違った。

「お前を運ぶのは、さすがに重そうだから。頼むから絶対、外で倒れるなよ」
 アンタさぁ……!
 いま、真顔で答えたよね!

「そうだねー。格好つけてたけど、単に先輩をおんぶして喜んでたんだねー!」
 わたしの怒りのこもった、嫌味たっぷりのセリフを聞いて。
 この、『最低鈍感男』が。
 ようやく間違いに気づいたらしい。
「うわっ! ご、ごめん!さっきのナシ!」
「いまさら遅いわよっ! アンタなんてサイテー!」



「……いつまでも月子ちゃんの体操着姿に見とれていないで、部長は働こっか!」
 しばらくして、高尾先生はそんなことをいうと。
 アイツを働かすために、社務所から追い出した。
「もうちょっと涼んだほうがー」
「なにいってんの! 三人分働いてこそ、部長だよ!」
 そうそう、高尾先生。
 わたしは先生のそういうところが、大好きだ。

 もう大丈夫なんだろうけれど、念のため月子先輩を確認する。
 そういえば、わたしのときは頭をさんざん鷲掴みにしたくせに。
 きょうのアイツは。
 布団に寝かせてからはこの人には、一切触らなかった。
 でも、ここまで背負ってきたんだよね……。
 うーん。
 なんだかちょっと、複雑だ……。



「……た、高嶺さん?」
「あ、おはようございます」
 わたしは、できる限り素っ気なく声をかける。

「よく覚えていないのだけれど。なんだか、ありがとう」
「いいんです、頭とか打たなくてよかったですね」

「でもわたし……。どうしてここにいるのかしら?」


 不思議そうな顔の、月子先輩にわたしは。

「わたしじゃ運べないでしょ、とだけ答えておきます」

 それだけ告げると。

 あとは無言で、冷えた麦茶を差し出した。