勉強タイムが終わり、三藤先輩が紅茶をみんなに淹れはじめると。
「わたし、これ使うね!」
玲香ちゃんが知ってかしらずか、三藤先輩の『湯呑み』を机に置く。
「あなたは、紙コップよ」
「えー。ティーカップ持ってくるとか知らなかったんだからいいでしょ? 紙コップじゃないのがいいから、これにして〜」
「その湯呑みは、お茶用だからダメよ」
「紅茶もお茶でしょ?」
「日本茶用だからダメよ」
「わたしは気にしないからさぁ〜」
「わたしの日本茶用の湯呑みだから、ダメなの!」
「も〜! わたしの湯呑みかしてあげるから仲良くして〜!」
春香先輩がまた、ふたりの仲裁に入っている。
……先ほどの勉強中も、英単語のスペルミスを玲香ちゃんが見つけたり。
お返しにと、三藤先輩が英文法の間違えを指摘したりして。
それが延々と続くので、春香先輩が困り果てていた。
「間違いに気づくのが勉強なのよ」
「だから教えてあげたんでしょ!」
「その程度の文法の人にいわれたくないわ」
「間違えるから勉強っていったそばから、それはないよね!」
「……まったく、仲がいいんだか、悪いんだか」
都木先輩が、世界史の教科書をカバンにしまいながら。話題を変えてくれる。
「そういえば来週からお盆まで、わたしだけみっちり講習あるけど。そのあいだの部活はどうするの?」
「えっと……まだ決めてませんでしたね」
「海原君は、予定とかあるの?」
「コイツに予定なんて、あるわけないですよ。ね?」
高嶺、話題に加わってもいいけど。断定しないでくれよ、な。
「なによ、じゃぁ予定あるの?」
「……なにもないのも、予定のうちだ」
「じゃ、毎日。部活しよ!」
湯呑みの件がひと段落したらしく。玲香ちゃんが話しに乱入してくる。
「毎日ですか? 講習ないのに、また学校くるんですか……」
「昴君、部長がそれじゃダメだよ! わたしだって、陽子ちゃんと『思い出』作りたいから。いいよね?」
「え、知ってるの?」
留学のことを指しているのだと気づいた春香先輩が、驚いた顔をする。
「そのほうが、あとから聞いて妙な気を使わなくて済むでしょう。もっとも、そんな気を使う人かは疑問ですけど」
三藤先輩が皮肉を込めていうけれど。
玲香ちゃんには、あまり通じていない気がする……。
……それはそうと。
さっきから、なにかおかしいんだよなぁ。
藤峰先生が、いつもと違った意味で挙動不審だ。
これはきっと、なにか隠してる。
「先生、どう思いますか?」
だから僕は、話しを振ってみたのだけれど。
え? なにその、不適な笑み。
藤峰先生が、一度大きく息を吸って。
それからいきなり。
「買っちゃった!」
また不思議なことをいい出す。
「いったい、なにを買われたのですか?」
三藤先輩が、聞いてあげるわよという感じで質問すると。
「放送機器の入れ替えですね!」
玲香ちゃんが、わざと被せてうれしそうな声をあげる。
「そうなの! このあいだのことで校長がご機嫌だったからね。いまこそ、ここは勝負だって思ってね! おねだりしたのよ〜」
「よかったー。ある意味。ザ・昭和みたいな設備だったんでうれしいです!」
「だよね! 実は副顧問の響子とも相談しててね……」
藤峰先生と玲香ちゃんが、盛り上がる中。
三藤先輩は、極めて冷静で。
「……先生。部長に相談しましたか?」
「あ、忘れてたかも〜」
「きっと副部長も反対するでしょうし、ですか?」
「そ、そんなことはないんだよー。ま、きっかけだからさぁ……」
「もう、そんなこと気にしないんだよ、月子ちゃん」
玲香ちゃんが、なんだかご機嫌なだけじゃなくて。
なんなのその不適な笑みが……。別のことを企んでない?
「そうと決まれば、体力作りからですね! それなら先生、やっぱりここは部活に燃える高校生。ザ・夏の定番の……」
「『合宿』ですね!」
おい、高嶺。
どうしてお前は、そこだけわかるんだ?
……ただ、普段なら。
このあと、一気にノリがよくなるはずなのに。
先生のテンションが、どうも変だ。
あの藤峰先生の口が、半開きのまま次の句が出てこないのって。
……あ、わかってしまったかも。
ふと周囲を見ると。
三藤先輩と、春香先輩もわかりましたね。
またやっちゃったんだね……みたいな表情がすべてを物語る。
「海原君、わたしも混ぜてよ」
都木先輩がそういって、僕たち四人で。
どうしても聞かなければならないことのために、じゃんけんをする。
はい、それでは負けた春香先輩。……お願いします。
「もう、部費がないんですね?」
「ご、ごめんねー。ちょっと勢いで……」
要領を得ていない高嶺と、意外とその辺は疎いらしい玲香ちゃんに解説しよう。
要するに、部費がないので。
これからの活動は、全部『自腹』だ。
「え〜。飛行機で、ビューンと北海道にいきたかった……」
「船とか乗って、温泉いきたかった……」
ちょっとそこのふたり!
たとえ部費があっても、そんな所で合宿なんかできませんけど!
「よし、やっとわたしの出番だね!」
そのとき、部室の扉が勢いよく開いて。
三藤先輩が、明らかに大きなため息をついて。
めちゃくちゃ得意げな顔で、高尾響子が登場した。
あぁ……。
い、嫌な予感しかしない……。
「みんな、来週からうちに集合ね!」
「は?」
「嘘よね……」
「へ?」
「ほんと!」
「やったー!」
「わたしもですか?」
割と冷静だった都木先輩に、高尾先生が返事する。
「あなたは一日中講習だから、勉強しなさい」
「わたしも、いきたかった……」
落ち込む都木先輩を、春香先輩がやさしくなぐさめる。
「残りはみんな、月曜七時にうちに集合!」
それを聞いた藤峰先生の目が、パッと輝く。
「久しぶりに、響子の家にいける〜!」
「いや、あなたここの教師だから無理でしょ」
……ガックリと肩を落として、それでもめげない藤峰先生は。
「よし、美也! 講習サボるよ!」
そう宣言しようとしたのだけれど。
「先生……」
「それはありえません」
都木先輩と三藤先輩の息が見事にぴったりあって、即座に否定した。
「……すいません、イマイチわからないんでー。来週響子先生の家にいくとか、合宿とか。海原でもわかるように解説してもらえませんか?」
高嶺よ、そうやって僕をダシにするな。
でもまぁ、僕も全部はわからないから、許してやろう。
……以下に、要点をまとめてみた。
高尾先生の実家は、神社らしい。
で、そこでバイトをして、部費を稼ぐ。
朝のボックスシートの面々は、基本自宅から通えばよい。
留学準備中の春香先輩は、通うのは大変だから誰かの家に泊めてもらう。
それで英語の勉強は、藤峰先生の代わりに高尾先生が担当する。
「……あの、ものすごく疑問だらけなんですけど、いいですか?」
三藤先輩が、代表して聞きなさいとばかりに僕に目で催促してくるので。
やむを得ず、高尾先生への質問を担当する。
「あの……。そもそも本校はアルバイト禁止なのでは?」
「お小遣いのためじゃないのよ、部費を貯めるためだけど?」
「それって、手段じゃなくて目的の話しなので違う気が……」
「いちいち細かいねぇー。そもそもわたし、まだここの教師じゃないわよ?」
……ダメだ、藤峰先生なみに話が通じない。
「バイトは毎日ですか?」
「あなたたち、暇なんでしょ?」
「えっと……。でも勉強に差し障りが出るのでは?」
「じゃぁ、ついでに勉強もしたら?」
「神社でですか?」
「部室でやっても一緒でしょ。はい次!」
……ダメだ、高尾先生に勝てる気がしない。
「海原もういいからさ。多数決ね、はい賛成!」
「わたしも!」
玲香ちゃんと高嶺は、こういうときのコンビとしては最高だ。
いや、高尾先生……。
先生が手を挙げても……。そもそもカウントする対象ですか?
「陽子ちゃんはどうしたい?」
珍しく藤峰先生が、誰かに配慮した発言をする。
「わたしは、えっと……」
「夏の思い出だから、いっときなよ!」
訂正、結局賛成させたかっただけらしい。
「部員がやるっていっているのに、部長と副部長がこないなんてあり得ないでしょ〜。じゃぁ、あとは美也、仕方ないからわたしたちは週末は参加できるように、講習がんばろうね!」
「はい。楽しみがあれば頑張れそう!」
「いえ先生。両親に説明するのは……」
三藤先輩が、まだまだ粘る。
「部活の練習よ? 問題あるなら、わたしがまた電話してあげるけど?」
「……佳織先生。それは、結構です」
ダメだ。先輩も、白旗をあげてしまった……。
「学校の許可、いまからでも取れるんですか!」
最後に粘るのは、僕しかいない。
どうだこの渾身の質問!
これまでほとんど実態のない部活だから、きっと厳しいはずだ。
「校長には、ぜんぶ終わってから伝えればいいんじゃない?」
「そうだね、それでいいよ」
ダメだ、この顧問副顧問に、常識は通じなかった……。
……でも、あれ?
部費を使い果たしただけなら、そもそもそんなに稼がなくてよいハズだ。
え……もしかして?
「あの、先生?」
藤峰先生と、高尾先生がギョッとした顔で。
僕と、もうひとり気がついた三藤先輩を交互に見る。
その泳ぎすぎている目を見て、確信した。
「まだ、隠していることがありますよね?」
「……まったくもー」
「まぁでも陽子ちゃん、楽しめるからいいんじゃない?」
「そうですよー。海原とか月子先輩がやってくれますからぁー」
部費だけで足りるはずもない、機器更新費用を『稼ぐ』のが。
僕たちに勝手に課せられたミッションだった。
いくら他校のキャンセル品で、格安だったといわれても……。
「お給料で自腹切ったら、二度とパンが買えなくなるのよ!」
「お洋服の可愛くない副顧問なんて、みんな嫌だよね?」
目だけ涙ぐんでも、どう見ても顔が笑ってますけど……。
「ごちゃごちゃいわない!」
「そう、遊ぶよ!」
「い、一応部活だけどね……」
「代わりに講習いってくれたら、わたしやるよ?」
そんなに目を輝かせて、キラキラされて、ほほえまれて、最後に包み込むような笑顔でいわれたら……。
「あんな大人には、ならないわ……」
「部員が顧問ふたりを養う必要、ありませんよね……」
三藤先輩と僕の意見は一致しているけれど、とても勝てそうにない。
とにかくこうして。
僕たちの『合宿』の夏が始まることが、決定して……。
……迎えた月曜日の、朝六時半。
僕は三藤先輩の家の、門の前に立っている。
「う、海原くん。お、おはよう……」
いつもと変わらないその姿で、三藤先輩がややぎこちない挨拶をする。
……って、いつもと変わらない?
せ、先輩!
制服ですよ、それ。
「あら海原君、おひさしぶり」
「お、お母様! ご、ご無沙汰しております……」
「もう、なんで出てきたの!」
三藤先輩の、両耳が赤くなる。
「だって、なんだかいいじゃない!」
今朝も三藤母は、すこぶるご機嫌だ。
「わざわざ家の前までお迎えなんて。ちょっとうらやましいわ。ねぇ海原君?」
「……えっと。と、とおり道ですので、立ち寄らせていただきました」
三藤母が、少しイタズラっぽい笑顔をしながら、ひそひそ声で教えてくれる。
「この子ってば。昨日からずっと、着るもの迷っててねぇ……」
「えっ……」
「朝も三回着替えて、結局制服にしたのよ〜」
「それはいわないでってお願いしたのに! もう、いってきます!」
珍しく大股で歩き出した先輩を。
僕は、三藤母に一礼してから慌てて追いかける。
……しばらく桜並木を進んだ、三藤先輩が。
突然立ち止まって、その藤色の瞳で僕をじっと見る。
な、なにかお気に召しませんでしたでしょうか?
「ちょっと、海原くん。朝から感じ悪い」
「す、すみません!」
「……絶対なにか、わかっていないよね?」
痛いところを突かれた。
多分、多分だけど、制服のくだりでしたか?
「制服のことじゃないよ。もっと大切なこと!」
月曜早朝から、これはマズイ。
僕は必死に、先ほどのわずか数分のやり取りを思い出すけれど。
やっぱり、わからない……。
「……あのね、海原くん」
小さくため息をついた、三藤先輩が。
一歩僕に近づいて、上目遣いでぐっと目を合わせてくる。
「わたしはね! ついでに拾った、みたいにいわれたくない!」
あぁ……。
ようやく、理解した。
僕が『とおり道なので』といったのが、気に入らなかったんですね……。
思いがけない理由で、片頬を膨らませたまま同じ姿勢でいる三藤先輩に。
不覚にも、僕の口元が緩んでしまう。
それがきっかけで先輩も、自分のいつもと違うテンションに気づいたのだろう。
慌てて一歩下がると、今度は足元のほうに視線を落として。
声もボリュームダウンして、ボソッとつぶやく。
「そういうところは、直さなきゃダメなんだから……」
それから。三藤先輩がもう少しいいかけた、ちょうどそのとき。
並木道の横の線路で、駅に向かって減速しつつある列車のほうから。
聞き覚えのある騒がしい声が、幾重にも重なって聞こえてきた。
わざわざ窓をあけるなよ、玲香ちゃん。
こんな朝から叫ぶなよ、高嶺。
すでにやけになっていません? 春香先輩。
「近い、近いよそのふたりー!」
「朝から、離れなさーい!」
「ふたりとも、降りるからもうやめて〜!」
「……知らない人のフリをして、いいわよね?」
三藤先輩は、そういうけれど。
口元だけは、ほほえんでいる。
そうだった。
真夏の、まだ朝七時前なのに。
僕達五人は、めちゃくちゃ元気な笑顔だ。
「春香陽子のために、夏休みはたくさん笑おう。笑顔で送り出そう」
先週金曜日の帰りに、みんなでそう誓い合った。
いい出したのは高嶺で。
もちろん、誰ひとり反対しなかった。
この朝、そんな想いを胸に。
僕たちはまた、新たな日々を。
みんなで、迎えていくことになる。


