高校生活初めての、夏休みまであと少し。
きょうも、一年生のクラスが並ぶ長い廊下は。
教室の扉が開くたびに流れ出る、エアコンの冷気と。
開放された窓から入る外の熱気が、複雑に混じり合う。
「高嶺由衣さん、わざわざありがとう」
職員室で頼まれた配布物を渡しに訪れた、三組の扉の前で。
日直の女の子が、律儀にわたしをフルネームで呼ぶ。
「あぁ、気にしないでいいよ」
「でも助かったから、ありがとう」
頭にバンダナを巻いた子は、そういうと。
もう一度やわらかな笑顔を添えて、わたしを見る。
思いのほか、その仕草がかわいくて。
「い、いや〜。平気だってこれくらい」
そう答えながら、わたしも慌てて笑顔を作る。
三組の女の子は、まだわたしとなにか話したそうだったけれど。
「……由衣ちゃん、大変!」
「も〜、どうしよう!」
バタバタとわたしのクラスから、走ってきた女子たちが。
「非常事態!」
「事件だよ!」
その言葉とは裏腹に、目をキラキラさせながら次々と口にする。
「……なんだか、大変そうだね」
バンダナの子に、そういわれて。
「ごめんね!」
わたしは短く答え、小さく手を振ってから。
なにかが待ち受けている、一年一組へとやや大股で歩き出す。
……間違いない、あの『能天気男』がまたなにかやらかした。
わたしは歩みを早めると。
あけっ放し教室のうしろ扉から中に入る。
すると、ほんのコンマ何秒かの静寂が訪れて。
好奇と興奮が激しく入り混じった視線が、一気にわたしに集中する。
いったい、今度はなんなのよ?
わたしは、クラスの『情報屋』・山川俊をにらみつける。
その口が、葉っぱを入れすぎたトノサマバッタみたいにモゴモゴしている。
いいからさぁ、とっとといいなよ!
「……は? 略奪? 逃走? なんなのそれ!」
「お、怒らないでくれよぉ〜。俺はただ、その場にいただけだし……」
「いたんでしょ? だったらボケっと突っ立ってないで、その辺の柱にでもくくりつけときなよ!」
クラスの男子たちが、巻き添えを避けようと教室から続々と避難していく。
あぁ、一学期もあと少しだったのに……。
これじゃ、『アイツ』のいうとおり。
わたしの、『黙っていればめちゃくちゃかわいい』とかいうキャラ……。
どう考えても、完全崩壊じゃん!
……例によって『事件』は。
わたしが教室を離れていた、わずかな時間のあいだの出来事だったらしい。
もちろん原因は、『あの』先輩。
だけじゃなくて……。
あの『ふたり』の、先輩たちだった……。
……パタパタパタパタ。
ん?
僕の教室の横にある、非常階段を。
聞き覚えのあるテンポで、『あの』先輩がおりてくる気配がして。
続いて非常扉が、慌ただしく開いた気がしたと思ったら。
席のすぐ隣にある、廊下側の腰高窓が突然ガラリと開く。
「海原くん! いますぐわたしときて!」
先輩は、そういうと。
無防備だった僕の右腕を、勢いよく引っ張る。
ガン!
もし扉だったら、たとえそんな派手な音がしても割と痛くないだろうけれど。
今回はなんというか、もっと鈍い音がして。
「うっ……」
コンクリートの壁に腰から下を強打した僕は、一瞬それ以上の言葉を失う。
「……ご、ごめんなさい」
声の主は二年一組、三藤月子。
僕の所属する『放送部』副部長だ。
「い、生きているわよね? 海原くん?」
「はい。な、なんとか……」
ふと、三藤先輩は窓から僕を引っ張ったことに気がついたらしい。
小さく息を吸い、突然冷静な声になると。
「次は窓ではなく、扉をあけてから腕を引っ張ることにするわ」
そう、僕に告げるけれど……。
まだ少し、論理に飛躍があるような気がする。
「あの……。そもそも引っ張るのをやめませんか?」
「仕方ないでしょう、急いでいるの」
これがこの春の衝撃的な出会いから、親睦を深めてきた成果と呼ぶべきか。
先輩はとてもやさしいときと、容赦ないときを巧みに混ぜ合わせて。
独自の理論で、僕に接してくれる。
……パタパタパタパタ。
また非常階段のほうで、別の聞き覚えのある足音がしたと思うと。
教室の前扉がガラリと開いて、クラスの女子たちが思わず歓声をあげる。
三年一組、都木美也。
最上級生のあいだで、男女を問わず人望厚く。
その他の学年にも基本的に、憧れの存在みたいな扱いをされているけれど。
こと、『放送部』においては……。
「海原君、あなたが必要なの!」
「えっ?」
「いいから! わたしと一緒にきて!」
都木先輩は、いうが早いか。
コンクリートにぶつけた痛みの残る、僕の右腕をもう一度勢いよく引っ張り。
衆目の中、そのまま廊下を進み出す。
カチ、カチ、カチ……。
教室の中の皆が固まった、数カウント。
腰高窓の前で三藤先輩がフリーズしていた、数カウント。
我に返った三藤先輩が、すでに遠く影になりつつある僕に向かって。
透き通った声で、大きく叫んだひとことは……。
「海原くん、お願い! わたしを置いていかないで!」
「……も、もう話さなくていいからさ、山川」
「えっ? 高嶺さん。せっかくいい感じで、盛り上がってきたのに?」
「盛り上がりとかいらないから! 黙ってなよ!」
「は、はい! す、すいません……」
あ、頭が頭痛する。
馬から落馬したっていい……。
山川が、若干脚色した気はするけれど。
わたしと、中学以来の同級生。しかも四年連続同じクラスで。
この春から『わたしと』同じ『放送部』に入った、あの男。
しかもなぜか部長になった海原昴の身に起こったことは、だいたいわかった。
それに、間違いなくあの『ふたり』は。
周りにとんでもなく誤解されそうな、セリフを残して消えたなんて自覚。
これっぽっちも、ないだろう……。
「ほんと。部室の外でやるなんて、困ったふたりだよねぇ〜」
「えっ? せ、先輩!」
気がつくと、両手で頭を抱えるわたしの前に。
ある意味部内で唯一『頼れる』先輩、春香陽子が。
いつもどおりの苦笑いを浮かべながら、立っている。
「じゃ、わたしたちもいこっか?」
「え? いまからですか?」
「あ、そうそう。でもその前に」
陽子先輩は、思い出したようにくるりとその場で一回転すると。
まるでお花畑の中にいる少女のような笑顔になって、クラス全員に話し出す。
「藤峰佳織先生からの伝言でね、このあと授業は自習でお願いします」
「おおっ!」
いつのまにか教室に戻ってきていた男子たちが、盛り上がる。
自習だから喜んでんの? それとも陽子先輩を見られたから?
先輩は、そんな男子たちにわたしじゃできないほほえみを見せてから。
「自習の内容は。うしろにいる長岡仁先輩が運んでいる、夏休みのプリントを始めてもらっていいそうです。じゃぁ、みんなよろしくね!」
明るく声をあげて、教室の後ろの扉に手のひらを向ける。
すると、確かに……。
都木先輩と同じ三年一組で、男子バレー部部長。余分な情報だけど、都木先輩に振られた過去を持つ長岡先輩が。
ものすごい量のプリントを抱えて、立っている。
「由衣ちゃん。振られたっていう情報は、もう忘れてあげてね……」
小さな声で、陽子先輩が釘をさす。
えっ? わたし、口に出したっけ?
「じゃぁ、あとは長岡先輩」
「お、おぅ……。ま、任せとけ……」
あれ?
長岡先輩に、やさしく手を振る陽子先輩を横目で見ながら。
なんだかこれまでとは、雰囲気が違う気がしたけれど。
「いくよ、由衣ちゃん」
そううながされたわたしは、それ以上考える時間がなくて。
このときはまだ、違和感の『正体』まではつかめなかった。
……一年生の廊下から階段をのぼり、中央廊下に入ったところで。
始業を告げる、チャイムが鳴る。
「でね、由衣ちゃん……」
「はい?」
えっ、なに?
陽子先輩の声のトーンが、突然下がって……。
さっきみたいなお花畑、どこにいったの?
「この先のことは、絶対に他言無用だよ」
「ど、どうしていきなりそんなに怖い声なんですか?」
「いけば、わかるよ……」
そういって、それっきり黙ってしまった先輩のあとを。
一転、わたしは足取り重く歩いていく。
そして到着したのは、やはり……。
手書き文字で『機器室』と記された。
例の、あの部屋だった……。


