橘風香が人を強烈に惹きつける最も大きな要因は、言い表すことのできない唯一無二の雰囲気であるように思う。

 人はそんな橘風香の纏う不可思議な雰囲気に引き寄せられ、いつしか風香をもっと知りたいと願う。

 しかしいくら風香の趣味嗜好や言動の数々を聞き、積み重ねていこうとも、そんな表面的なものに目を向けているだけでは、風香の神秘の領域に足を踏み入れることはできないのだと、僕もようやく気がついた。

 結局のところ橘風香という存在を解き明かすことができるのは、彼女と同じような存在になるか、もとより全く同じ存在であるかの二つしかないのだろう。

 もし、風香が僕を選んだ理由がいずれかであったなら。

 いや、僕は確信している。

 僕が選ばれたのは。

 あの日彼女が僕に会いに来たのは。

 僕がこの世界で唯一、橘風香に近しい存在だからだ。

 理解者になるべくして生まれたからだ。





 約束通りにたっぷりと休みをもらった僕は、バスに揺られて久しぶりに地元へと帰ってきた。

 僕の生まれ育った町は、一言で表すのならば田舎だった。海と山、自然があると言えばそうなんだけど、高校生なんかは遊び場に困ったりして、都会への幻想を抱かせるには十分すぎるほど何もない、静かで小さな町だった。実際、同級生たちのほとんどが都会での日々を夢見ていた。

 ただ、僕はそんな彼らのようにこの町に対して不満を持つようなことはなかった。元々人付き合いを好まず、ゲームと本があればいい僕にとってこの町は苦にならなかった。僕が周囲の人間とはずれている、変わった人間なのだと自覚する、最初のことだった。

 家についた僕は、母と一人暮らしに慣れてきたという話をしたり、父に単位の話なんかをして、長旅の疲れを癒そうと早めに部屋で休むことにした。

 部屋は大半片づけられていて、ベッドと机くらいしかない。僕はだいぶ殺風景になった自室に入り、着替えなどを入れた鞄を置いて、机の傍にある窓を開けた。虫の声、夏の匂い、満月、うだるような暑さを除けば情緒的で素晴らしい夜だった。

 僕は鞄の中から黒いノートを取り出して表紙を指でなぞる。それから机のライトをつけて光を限りなく絞り、椅子を窓の傍に寄せて座った。月光と机のライトに照らされた黒いノートは、そうすることでようやく見えなかった何かが浮き上がるような気がした。

『私は夜とか暗闇が好きなの。人の営みを全て飲み込んでくれそうだから』

『黒が好きなのも夜を想起させるから』

『私は月を食べてみたい。その時は樹もさそうね?』

 黒いノートに書かれた橘風香の言葉が、ぽつりぽつりと頭に浮かんでくる。すると僕は笑ってしまう。ただもう不思議に不思議で、笑うしかなくなる。

 今夜はなんだか少し気分が良い。窓の外を再び眺めると、立ち並んだ家々の光に目が惹かれる。都会のように煌々としたものではなくて、どこか儚げなのが良い。いつかこの持論を風香に披露すると、同意してくれたことを思い出した。

 階下から聞こえてくる両親の笑い声、どこかで花火をしている音、そんな夜の中に僕と橘風香がいる。

『人は希望に向かって生きられるけれど、絶望に向かっては生きられない。だから私は日曜日が嫌い』

『人の心は高級なシャツのようにはできていないの。ふかふかのパンのようにもね』

 格言なのか単なる言葉遊びなのか、それを判断するのは聞き手として選ばれた僕だろうか。

 いったいどれくらい僕たちの世界に浸っていただろう。1人になれば、僕の頭の中は風香のことばかりになる。

 僕はふっと息を一つ吐いた。立ち上がって椅子を戻し、ベッドに寝転がった。

 仰向けになって携帯を開く。鈴野から連絡は来ていない。結局彼女は実家に帰ったんだろうか。今、何をしているだろう。なんというか彼女には生活感というか、日常を過ごしているという様子が未だにあまり想像つかない。酒を飲んでいるのか、スイーツでも頬張っているのか、勉強しているのか、本を読んでいるのか、どれもしっくりこない。

 彼女の行動の一切は僕が知るところ以外では決して起こっていないのではないかと、あり得ない考えも浮かんでくる。

 考えだしてどんどんと好奇心が膨らんできてしまった僕は、電話をかけてみようかと思った。

 でももしかけたところで何を話したものだろう。

 今君は何をしていたのか、なんてわざわざ聞くのもどうなんだろう。

 いやそもそも、電話をかけて確認したところで僕の考えを払拭することにはならないのではないか。

 もう寝てしまっていた場合、ひどく迷惑をかけることになるんじゃないか。

 しばらく悩んだけれど僕は結局電話をかけることはしなかった。そのうち、長旅に疲れた体が僕を眠りへと誘った。





 帰省してから三日間、僕は家から一歩も出ることなく過ごした。良く言えば、趣味に没頭していたということになる。悪く言えば、ひたすらにだらだらと、怠惰な時間を貪っていたということになる。

 その間、鈴野とは一度も連絡をとらなかった。急に連絡が途絶えたり、かと思えばふらりと僕の前に現れたりするのは最早いつものことになっていたので、彼女のことは一旦置いて僕はひたすら休暇を堪能した。

 僕が久しぶりに外に出ようと決意したのは、四日目のお昼前だった。ぱらぱらと降り出した雨を室内からぼんやり眺めていると、元クラスメートたちから飲み会に誘われた。外出するのにはちょうど良いかと、誘いを受けることにした。

 母にはなぜよりにもよってこんな雨の日に出かけるのかと問われたので、同窓会だと嘘ではないけれど正確ではない理由を伝えてから、実に三日ぶりに外出した。


 隣街に到着した時、時刻は16時だった。久しぶりに降り立った街はさすがに1年ちょっとではほとんど変わらない。けれど胸中にはなぜだか感慨のような感情が巻き起こって、自分で自分を笑った。

 僕はふらふらと歩いて、頻繁に通っていた本屋に向かった。目的の本があったわけではないけれど、そういう気分だった。時々、ただふらりと本屋の空気感を味わいたくなって立ち寄ることがある。風香に言ったら、よくわからないと困惑された。

 本屋にたどり着くと同時に雨が強く振り出した。ゆっくり過ごすように告げられた気がして、僕は少しだけ嬉しくなった。

 店内の客は結構多かった。部活終わりなのか、懐かしいジャージを着た男女、店員と楽しそうに話している中年の男性、真剣に参考書を選ぶ中学生らしき男子がぱっと目についた。

 僕は真っ直ぐ小説のコーナーに向かい、立ち読みをしようと思った。はたきで追い払われようものなら、それはそれで今晩の肴になるだろうとくだらないことを考えながら、小説の世界を次々に廻った。

 途中、興味を惹かれて購入しようかという本にいくつか出会ったけれど、まだ読み終えていない本たちが頭をよぎり、おまけに夏休みが終わって日常へと戻れば、友人との時間にも追われることになる。想定されるあらゆる忙しさが僕を正気にして、やむなく本を戻させた。

 興味のある小説は大体見終わったので、漫画コーナーを物色していると、ズボンのポケットに入れていた携帯が僕を呼んだ。手にしていた漫画を戻し、携帯を取り出す。連絡してきたのは今晩の幹事を務めている森下からだった。

 当時から彼は学級委員長などの仕切り役を任されることが多かった。実際は任されるというより、誰もやらないのでやらされていたという方が正しいけれど。

 森下からのメッセージは、今晩の店は彼の名前で予約しているということと、今日の集合時刻が17時30分であることを改めて伝えるものだった。真面目な仕切りっぷりに僕はくすりと笑ってしまう。僕は何度か文章を打ったり消したりして、結局、了解したことと、知らせてくれたことへのお礼を述べることにした。

 森下に返信した後、時刻を確認すると17時だった。僕は店を出ることにした。雨足は落ち着いていたけれど、傘が必要なくらいには降っていた。

 のんびり歩いて向かえば大体ちょうど良い時間になる。僕は小雨の中ゆっくりと街並みを眺めながら歩く。少しして、遠くに高校が見えた。僕は一度目を背けたけど、何かに腕を引かれるようにして、高校へと続く道を進むことにした。

 横断歩道を渡ると目の前に川があり、そこにかかる橋を渡れば高校に着く。僕はその橋の手前で足が止まった。薄闇に佇む母校は、確か職員室があった場所から白い光が漏れていた。

 胸中にざわめきが起こり、徐々に大きくなっていく。僕の意思とは関係なく、頭の中でページが次々に捲られていくようだった。とめどなく溢れる記憶に苛まれ、僕は立ち竦んだ。

 雨と車と見知らぬ人と、背後のさざめきを感じながら、僕は僕を穿ち、全身を包む感情の名前を考える。けれどわからなかった。いつまで経っても、どこにも行きつかなかった。

『あれは箱、ただの箱』

 やがて頭の中にそんな声が響いた。僕が目を瞑ると追憶の少女が微笑む。すると全身を蝕んでいた虚脱感のようなものが嘘のように消えていく。

 かつてのように。初めて黒いノートに文字を書き連ねた時のように、僕の体に力が戻ってくる。

 僕は高校に背を向けた。

 もう二度と、ここに来ることはないだろう。


 横断歩道で信号を待っていると、電話がかかってきた。森下からだった。

「もしもし」

「よ、久しぶり。成瀬もうつく?」

「久しぶり。いや、まだだよ。早くない?」

「そうなんだけどさ、俺はりきっちゃってもう店の前なんだよねー」

 電話越しにも待ち遠しそうにしている森下の様子が浮かぶ。

「この雨の中?」

「そうそう。で、暇だから同士を探してたのよ。いつごろつく?」

「そういうことならすぐ行くよ。街にはいるんだ」

「お、さすが! サンキュー! んじゃ待ってるわ!」

 元気いっぱいな元クラスメートとの電話が終わり、僕は携帯をポケットにしまった。信号が青に変わる。決して振り返ることなく、僕は歩き出した。

 途中、数人の元クラスメートから現在の所在を問う連絡が届いた。一つ一つに『あと10分くらい』『久しぶり。あと5分くらい』と返しているうち、周囲に明かりが広がり、車や人の通りがどんどん増えていって、やがて目的の店に到着した。

 店の前にはTシャツにジーパンと、見慣れた格好の森下が辺りを見回しながら、手元の携帯をしきりに触っていた。僕は遠目から『ついた』と連絡すると、森下は顔を上げてきょろきょろとして僕と目が合い、笑顔で手を挙げて近づいてきた。

「おす、久しぶり! 元気だったか?」

 既に大分テンションが上がっているらしく、行き交う大型車両にも負けない声で森下は言った。

「ぼちぼちだね。そっちは?」

「元気も元気。ありすぎて困ってる」

「単位落としたりしてないな、その様子だと」

「いや、一つ落とした」

 がっくりとうなだれる森下に、僕は笑う。

「おつかれさま」

「その様子だとお前は落としてないな? このやろーめ」

 森下は肩を組んで僕を揺らした。

「まあな。って、近い」

「んなこと言うなよー」

 じゃれる森下を振り払った時、今度は背中を軽く叩かれた。驚いて振り返ると、二人の女子がいた。名前は朝倉と笠原。

「びっくりした。あ、お久しぶりです」

 僕が挨拶を述べると、二人は大きな声で笑った。 

「何でそんな他人行儀なの!」

 森下同様に元気いっぱいらしい朝倉は、僕の肩を叩いた。

「ふふ。でもお久しぶりだね、本当に」

 落ち着いた様子で笠原は微笑んだ。当時からずっと仲の良いこの二人だけど性格は対照的だった。

「たかが1年くらいだけどね。三人は会ったりしてないの?」

 仲が良いということを知っていた僕は、森下に向かって聞いた。

「俺らは結構あちこちで会ってるよ、なあ?」

 森下の言葉に、二人は頷く。

「フットワーク軽いから! 本当は樹にも来て欲しいんだけどなー」

 朝倉はそう言って、三人で遊んだ時の話を僕にしてくれた。その会話の中で森下に彼女ができたことと、朝倉に彼氏ができたらしいことを聞いた。なぜだか三人はニヤニヤしていた。

 僕らが盛り上がっていると、見知った顔がだんだんと集まってきたので、森下の号令で店の中に入った。

 僕達は宴会用の大きな部屋に通された。森下に何人来るのかと尋ねると、十五人くらいと聞いて驚いた。僕は端に座った森下の右隣りに座り、さらに僕の右隣りには野球部のエースだった出口が勢いよく座り抱き着いてきた。あのころの坊主頭はどこへやら、出口の銀色の髪の毛が鼻をくすぐる。

「痛いよこの馬鹿力。つかなんだよ、この髪。どちら様ですか」

「大エースの出口君です」

「ああ、170キロ投げられるんだっけ」

「いや、169なんです」

 相変わらずお調子者らしい出口と話している間、森下は朝倉となにやら注文のことなどについて話していた。聞けば、今日の幹事は森下だけでなく朝倉もだったらしい。

 ほかの面々もなんとなく近くに座ったメンバーで話していた。久しぶりだからかまだ大っぴらに騒ぐ奴はいなくて、クラス分けをしたばかりのような懐かしい固さがあるようだった。

「樹、彼女出来たか? お兄さんに言ってごらんよ」

 僕の正面に座っていたムード―メーカの宮内がいきなり不用意に大声で聞いてくるものだから、一瞬会場の意識が僕へと集まるのを感じた。宮内はそういったことに疎いので、恐らく感じたのは僕だけだ。

「うん、八人」

 適当に僕が答えると宮内が大袈裟に反応し、あちこちで噴き出す声が聞こえてきた。そんな僕たちのやりとりがきっかけになったのか、互いに窺うようだった雰囲気が払われて、会場は一気に喧騒に包まれた。

「八人ってホント?」

 宮内のすぐ後ろに座っていた相沢と、彼女と仲の良い小柳が声を揃えて僕に聞いてきた。

「ほんとだよ。樹だぜ? それくらいはやるよ」

 出口が肩を組んできた。僕は頷く。

「光源氏と呼んでくれ」

 僕が言うと、三人は笑った。

「一人分けてくれよ」

 出口のろくでもない発言に、真っ先に相沢が食いついた。

「あれ? あんた彼女いなかったっけ」

 その指摘で僕も思い出した。出口は他校に、卒業間近から付き合い始めた女子がいたはずだ。

「ああ・・・・・・そのことだけどよ。聞いてくれるか、お前ら」

 額に指を当てて小さな声で言った出口に、相沢、小柳、宮内は興味津々に頷いたので、僕も仕方がなく静聴してやることにした。

「実はな」

「はーい、それじゃ、飲み物頼むぞー!」

 出口が語り始めようとした丁度その時、狙ったように森下が叫んだ。僕たちは一斉に笑った。

「へいブラザー! そりゃないぜ!」

 出口が大声で抗議する。

「誰がブラザーだ。盛り上がるのは大いに結構だけど、まだプレイボール前だから」

 気の利いた森下の一言に、出口は体育座りをして黙った。話を聞いてあげようとしていた僕達はまた笑った。

 注文を終えると少し会場がトーンダウンして、みんな大人しく料理と飲み物を待っていた。僕は周りに流されて、ビールを頼んでしまった。

「なあ、よくこんなに集まったな」

 携帯をいじっていた森下に僕は言った。

「ん? ああ、ほんとにな」

 森下は携帯を置いた。

「幹事の求心力、交渉力か?」

「いやいや、珍しくお前がくるからだよ」

「またまた、私なんてそんな。そもそも僕は緊急参加だろ?」

「あー来る前提で勝手に話してた。許せ。てわけで、マジでお前の求心力だよ」

 本心から口にしているように見えて、僕は答えに窮した。だって、そんなわけがない。風香が聞いたら笑うだろう。

「お、来たみたいだぜ」

 出口が体を伸ばして、注文を運んできてくれたらしい店員を見ていた。「金額の割に豪華だね」と誰かが言ったのもうなずけるようなメニューが並び、各々の前に飲み物が置かれた。誰が言うでもなく全員飲み物を持ち、僕ももちろんジャッキを手にし、森下の方を見た。森下は立ち上がり、良く通る声で音頭を取る。

「みんなもう待ちきれないと思うのでさっさと言います! 今日は来てくれてありがとう! かんぱーい!」

「乾杯!」とみんな声の塊が弾け、ジョッキをぶつけ合う音があちこちで起こる。離れた席からわざわざ乾杯をしに来る奴にも対応して、僕はビールを飲んだ。まずかった。苦味にやられる中、ふとここにはいない友人の顔が浮かんだ。

「もういらない」

 僕は出口にジョッキを押し付けた。

「何で頼んだ!」

「最初の一杯はこれだろ? 世の中的には。義務は果たしたから後は好きなやつ飲むわ」

「お前なあ、俺もビール好きじゃねえんだよ」

「そんな髪の色して?」

「関係あるかっ」

「まあまあ。続き聞いてやるからさ。みや、相沢と小柳呼んでよ」

 宮内は振り返って二人をつつく。続きだと告げると、二人は顔を輝かせた。

「おうおう、みんな期待してくれちゃって。あ、でも、もう少し酔ってからだな」

「なんで?」

「泣こうかと思って」

「やっぱ、ビールは自分で飲むわ」

「ならんっ」

 一度回収した僕のジョッキを出口はひったくって、一息に飲み干してしまった。事情を知らない周囲は出口の雄姿をたたえたり、心配そうにしていた。森下は「ばかだなあ」と大笑いしていた。

 時間が経つにつれ会場はとても盛り上がり、誰かの笑い声や驚く声は途切れることがなくなっていた。

「でよ、彼女を問い詰めに前もって言わずに部屋に乗り込んだのよ。そんで喧嘩してたら、よりにもよってそのタイミングで相手の男が帰ってきて、鉢合わせたんだ」

 すっかり出来上がった出口は尋常でない熱量でなんとも哀しく恐ろしい話をする。

「そ、壮絶な話だね」

 途中から輪に加わった、温厚誠実で成績優秀だった筒井が僕に向かって言った。僕は大いに頷く。

「んで、お前はどーしたわけよ」

 微妙に呂律が回っていない森下が先を促した。不義理を許せない森下の目は、怒りと酒のせいか血走っていた。

「当然バトルよ。怒りのままにあれこれ言ってやったら、相手ビビッて逃げ出したわけ。急いで後を追いかけたんだけど、そういう奴ってさー、なんでか足が速くて。追いつけねえと思ったから片方の靴を脱いでさ、思いっきり投げたのよ」

 夜、街灯のもと、逃げる不貞を働いた男。そして靴を持って構える出口。きっと話を聞いている全員の頭の中に、彼がマウンドで見せた美しいフォームが浮かんでいるだろう。

「さっすがエース」

 朝倉が呆れつつも笑って言った。

「俺の放った靴はすさまじい勢いで見事相手に」

「おお」

 興奮した様子の宮内がテーブルを叩いた。

「当たらなかったんだよ」

 悔しそうに言った出口に、僕達は一様にお腹を抱えて笑った。「外すんかい!」と誰かと誰かの声が重なって、さらに笑いは大きくなった。

「いやあ、やっぱな、靴って無理よ。投げるもんじゃない。しかも片方だけ脱いだせいでフォームも崩れたし。全然届かないどころか、指にひっかかってほぼ垂直に叩きつけもんね」

「メンコか」

 僕が言うと、またみんなは大声で笑った。泣くと言っていたはずの出口も、自分で言っていて面白いのか笑っていた。

「まあ、そのあと何とか我に返ってさ。別れるって言って終わり」

「それから連絡もなし?」

 笠原の問いに出口は頷いた。僕達は笑い疲れて、一度深呼吸をしたり、飲み物を飲んだりした。

「でもやっぱり、人生ってそういうとこあるよな」

 森下がつぶやくように言った。

「と、言うと?」

 出口が聞く。視線が森下に集まる。

「ん、いや、ここでくるか。みたいなさ、意地悪なところっていうか。狙ってたのか? みたいなタイミングで物事が起こったりすること」

 森下の発言に全員心当たりがあるような反応を示した。

「あるな、それ。野球も守っててさ、来るな来るなと思ったらくるもんな。あとここぞという場面で打順が廻ってきたら、不思議と打てたりする」

 出口が思い出すように言った。

「そうそう。それも一つだな。そういうさ、人生の、そういうとこ。ある、よな」

「だいぶ酔ってるでしょ、あんた」

 朝倉の指摘に緩んだ目で森下は首を横に振った。どう見ても酔っている。

 周囲の空気がほどけていくなか、僕はアルコールに浮かされた頭で森下の言葉を考えていた。

 人生の、意地悪なところ。

 心当たりなら僕にも少しだけあった。

 五月の連休明けのこと。

 とても不思議な存在が、その正体を教えてくれることもなく、たくさんの謎を残して、消えてしまったこと。

「樹? おーい」

 小さな手が目の前で上下して、僕ははっとする。周りはそんな僕を見て、笑っていた。

「どうしたの、気持ち悪い?」

 笠原の気遣いに、僕は首を横に振る。

「大丈夫、ぼーっとしてただけ」

「酔ったのかー、たいして飲んでねーだろ」

 森下は骨がなくなってしまったように、くねくねとした動きで僕に絡んできた。

「酔ってるのはお前だ」

 森下を引きはがして、料理を下げにきた店員に僕は水を二つ頼んだ。

「優しいなあ、相変わらず」

 宮内の発言を僕は否定する。

「だから八人も彼女出来るのか。見習うわ」

 煙草を口に加えた出口が続く。なんだか随分すっきりした顔をしている。

「是非そうしなよ」

 僕は出口に乗ってあげる。

「ちなみに、実際のとこどうなんだ?」

「・・・・・・きくなよ」

 僕達のやりとりでまた周囲は盛り上がった。

「そもそも八人とかいう時点で察してくれ、なあ、筒井」

「そ、そうだね」

 苦笑いで筒井は頷いた。

「ええ! 嘘だったのかよ!」

 間抜けな宮内が叫び、その頭に、うるさいと小柳が手刀を入れた。

「まあ、そうだよな。お前は大学デビューとか、もくろむタイプではないな」

 出口はタバコをふかして言った。嗅ぎ慣れない匂いだった。

「そうそう」

 出口は僕と肩を組んで慰めるように、やさしく頭をなでてきた。そのうち笠原が水を受け取ってくれていたらしく、手渡してくれた。礼を言ってさっそく一口飲むと、今日口にしたどんなものよりもおいしかった。すぐに二口目を飲もうとして、出口に奪われて、飲み干されてしまった。そして出口は力尽きたのか、テーブルに突っ伏した。煙草はいつの間にかちゃんと消していたようだった。

「やれやれ。あ、すみません水くださーい」

 気を聞かせてくれた朝倉に僕は礼を言った。ふと森下の声が聞こえないと思ったら、出口同様机に伏していた。

「幹事大丈夫?」

 筒井は心配そうに森下を見ながら言った。

「ま、アホたちのことは放っておこ? ところで樹、彼女はともかくとして友達はできた?」

 朝倉が言った。

「あ、僕もそれ聞きたい」

「私も」

「俺も」

 なぜだか全員興味津々らしく、僕はたじろぐ。必死に、どう答えようかと考えた。しかし思考はまとまりをもたずに、答えを探していたはずなのに、いつの間にか僕はここにいない友人が今何をしているのかという、関係のない想像をしていた。

 本か、ゲームか、あるいは何もせずぼーっと夜空でも見ているのか。また、想像できない姿を想像する。

 それともちゃんと帰省して、家族と談笑しているのか。彼女の家族はどんな人だろうか。

「おーい、樹」

 遠くで、朝倉の声がした。

「成瀬?」

 筒井の声も聞こえてきて、静寂が遠のいていく。

「あ、あれ。何の話してたっけ」

 とぼけてみせると、みんなは呆れたように笑う。

「やっぱり、酔ってるでしょ」

 笠原の指摘に、僕は頷くことにした。それが一番いいと思った。

「友達だよ、友達」

 朝倉に再度促された。

「うん、百人いる」

「ワンパターンだなっ!」

 急に飛び起きた出口に僕達は驚いた。それだけ言って、出口は再びテーブルに倒れた。

「・・・・・・なんだこいつ。まあ、冗談はともかく、いるよ」

 僕は鈴野の顔を思い浮かべながら答えた。

「良かった。あんたってさ、出口の言うとおり大学デビューっていうか、積極的に話したりしないタイプだろうから、心配だったのよ」

 少し間があって、僕も含めて、発言した朝倉以外の全員で顔を見合わせた。

 どうやら言いたいことは同じで、代表して僕が言ってあげることにした。

「お母さんか?」

 また大きな笑いが起こった。


 水を大量に飲んで、何度もトイレに通うことにより復活を遂げた森下が、全員に退席の時刻が来たことを告げた。全員次々と森下に今日の代金を支払い、集計が終わると、森下がすくっと立ち上がった。

「はい、今日はお疲れさんでした! またやるんで、来てください! えー、最後は何で締めたらいいんだろう」

 考えていなかったらしい森下に、一本締めという提案がなされて採用された。よく意味も分からず一本締めを終えて、僕達は店を出た。

 店内は空調が効いていたので、外に出た僕はまず熱気にやられた。もうすっかり夜だというのに、結構な暑さだった。ひとまず全員での飲み会は終了になり、以降は各自で好きにしていいことになった。

「成瀬どうする?」

 筒井がそう聞いてきた。僕は自宅まで筒井の車で送ってもらうことになっていた。

「合わせるよ? 送っていただく立場だしね」

「うーん」

 僕たちがが決めかねていると、森下にカラオケに誘われた。筒井も乗り気なようだったので、参加することにした。


 結局、朝倉、笠原の女子2人と、森下、出口、筒井、宮内と僕の7人でカラオケに行った。

 酒を飲んだ勢いもあって、みんなこれでもかというくらいに熱唱していた。特にカラオケ好きの出口はマイクをなかなか離さなかった。ようやく順番が回ってくると、僕は恥ずかしがる筒井と一緒に、以前日向が歌っていた曲を入れて歌った。そこからデュエットの流れができて、いつの間にかすっかり出来上がっていた朝倉と、再び出来上がってしまった森下は肩を組んで、何曲か連続で歌っていた。

 その最中、筒井と宮内がトイレに、出口が煙草を吸いに部屋を出た。楽しそうに熱唱する二人を微笑ましそうに見守っている笠原に、僕はふと浮かんだ考えを確かめることにした。

「ねえ、朝倉の付き合っている相手ってまさか」

 小声で耳打ちすると、笠原は意味ありげな顔で頷いた。僕の予想はあたっていたらしい。

「内緒ね、もうみんな気づいてるかもだけど」

「いや、多分気が付いてないだろ。みやとかも知ってるの?」

「ううん、多分知らないかな。樹には今日言うつもりだったらしいけど、あれだけ酔っ払っちゃったらね」

 笠原は困ったように笑った。

「そっか。ま、似合ってるよね」

「うん。私もそう思う。ね、樹はさ、さっき彼女いないって言ってたけど、ほんとのところはどうなの?」

「え、いないよ? ほんとに」

「へえ、ほんとにいないんだ」

「うん。笠原の方こそ、学校にいい人いないの?」

「いい人はいるかもだけど。彼氏はいないよ」

 長い髪に指をくるくると巻きつけながら、笠原は答えた。その仕草と画面の明滅が相まって、彼女の横顔に不思議な雰囲気をもたらした。

「ふーん。笠原、もてそうなのに」

 余計な一言だったかという不安を、すぐにアルコールがさらっていく。

「私なんて全然だよ」

「またまたご謙遜を」

「・・・・・・ね、あのさ、樹」

「ん?」

「その、ほんとうに、大丈夫?」

「え?」

 心臓が一つ、大きくはねた。

「・・・・・・みんな思ってるんだろうけどさ。彼女がいないのとかって」

「なんのこと?」

 さっぱり何を言いたいのか、わからない。わかっていないはずなのに、なぜか心臓は速くなっていた。

「あ、ううん。ごめん、気にしないで」

 笠原が顔を伏せると、偶然、曲の最高潮がやってきたらしく、森下と朝倉は歌っているのかただ叫んでいるのか、マイクが割れるほどの大声を出した。僕と笠原は身をすくめ、同時に出口が何ごとかと部屋に飛び込んできた。

 かすれた声で楽しそうに事情を説明している二人をよそに、僕は気を取り直して、笠原に何を言おうとしたのか聞いた。しかし笠原は、少し考えるそぶりを見せてから、なんでもないと言った。その顔は悲しげだった。固く結ばれた口に、僕はそれ以上聞くことはしなかった。

 そうしないほうが良いと、ノートの中の少女が言っている気がした。

 まるでスキップでもされているように、気が付けばあっという間に退室の時間が来た。足元のおぼつかない森下と朝倉を支えて、僕たちは支払いを何とか済ませて店を出た。さすがに全員疲れたようで、正気のある人間だけで簡単に挨拶を交わして、解散になった。

 筒井の車に僕と森下と出口は乗った。女子達は徒歩で帰るらしく、ボディガードとして宮内も歩いて帰った。助手席に座った僕は、女性陣と宮内に手をふった。笠原と目が合うと、にっこり笑っていた。

 僕や筒井とは異なり、この街に住んでいる出口と森下は互いに家も近かった。二人の家は少し入り組んだところにあるので、筒井が近くまで行き、適当なところで二人は降りた。さすがに力があるのか、森下をしっかり支え、笑顔で手を振る出口の健闘を祈り、再会を約束して車は発進した。

 道を行く車は他になく、窓の外、景色の移り変わりを眺めながら、僕は筒井と改めて近況について話した。地元で働いていた筒井は、仕事を辞めたいと悩んでいると打ち明けてくれた。

「なんか、つまらなくてさ。僕の人生これでいいのかなあなんて。甘いかな」

 自嘲するような声だった。

「無責任になるから簡単には言えないけれど、個人的にはいいんじゃないかと思うけどな。人生は、多分、一回だから」

 僕が言うと、筒井はくすりと笑った。

「多分、か」

「ああ、うん。証明のしようがない」

「そうだね、うん。成瀬の言う通りだよね」

「超個人的意見だから。あくまで」

「うん、ありがとう。でもやっぱり、成瀬っておもしろいよね」

「そう? 自分では、少しも思わないけど」

「発言が他と違うというか、なんというか。人生は、多分、一回きりなんて、わざわざ多分ってつける人、他に知らないよ」

「そうかな」

「うん。そうだよ。成瀬って、ほんと変わってるよね」

 知っている。僕はどこかおかしいのだ。

「・・・・・・でもほんと、元気そうでよかった」

 笑顔を引っ込めてほっとしたように筒井はつぶやく。独り言だろうかと、僕は何の反応も示さずに次の言葉を待った。

「ほらまあ、あらからだいぶ経つとはいえ、成瀬、大丈夫かなって」

 心配そうな筒井の声が耳に届くと、頭に鈍い痛みが走った。鼓動は早まり、視界が揺れる。どうもアルコールのせいではないようだった。

 苦しみの中、黒いノートの中の少女が、両手を広げて僕を包み込もうとしているのが見えた。

 僕は身を委ねる。すると体は軽くなり頭痛は治った。

「成瀬?」

「ん、ああごめん。そういや筒井ってさ・・・・・・」

 僕は話を変えたくて、高校時代の話なんかを振った。筒井は初めこそ何か言いたげに見えたけれど、思い出話に花を咲かせるうち、その気は失せたようだった。

 家の前まで送ってもらい僕は車を降りた。送ってくれたことに何度も礼を言い、彼の悩みが解決するように祈っていると伝えると筒井は嬉しそうに笑って、帰って行った。去り際にまた何か言いたそうな顔をしていたけれど、僕は気が付かないふりをして別れた。

 とっくに寝ている両親を起こさないよう静かに、僕は自室へと戻った。時刻は1時だった。お風呂に入ろうか迷って、疲労が勝ったので着替えすらせずにベッドに仰向けに倒れ込むと、一気に眠気がやってきた。

 今日のことをぽつぽつと思い出していると、ふと、僕の頭に鈴野の顔が浮かんだ。するとあれほど押し寄せていた眠気はどこかに行って、僕は勢いよく体を起こした。ベッドから降りて、椅子を窓の傍に寄せて座った。夜空を見上げると、今日は月が見えないようだった。

 僕には僕自身にもよくわからないところがある。

 今、気が付けば鈴野に電話をかけているのだって、なんでそんなことをしているのかわからないんだ。

 夜中にいきなり電話をかけるなんて非常識な行いだとわかっている。けれどそんな僅かな自制心は、闇夜に飲み込まれてしまった。

 耳に鳴り響くコール音が、重たい頭にはこたえる。出るわけがないと思っている僕もいたけれども待ち続けた。

 まあ、出ないよな。

 諦めかけた時、耳に小さく「はい」という声が入ってきた。

「あ」

 出てくれたのだと理解したけれど、そもそもなぜかけたのかわかっていなかったので、続けるべき言葉が見当たらなかった。

「樹?」 

 鈴野の小さな、消え入りそうな声が僕の名前を呼んだ。きっと普通の声なのだろうけれど、今の僕にはそう聞こえた。

「ああ、成瀬、ですけど」

「知ってる。久しぶり。どーしたの?」

「あー、いや。何してたのかなって」

「なにそれ」

 クスクスと鈴野の笑い声が聞こえた。

「なんとなくだよ」

「なんかいつもと違うね。まさかお酒でも飲んでた?」

「わかる?」

「うん」

「さすが」

「でしょ」

「うん。それで、何してたの?」

「特に何ってこともないなー。樹がいなくて暇だったからぼーっと夜空を眺めてましたっていうのは冗談で・・・・・・さっきまではゲームしてたよ」

「なんだ、僕は夜空を見ていたのに」

「へー、残念。んで、誰と飲んでたの? 私のことほったらかしてさー」

 電話越しにも鈴野がふざけようとしてるのはわかった。僕は不思議な安堵を覚えた。

「絶世の美女達と」

「国が傾くような?」

 僕は笑った。鈴野もくすくす笑っていた。

「そうそう。困ったよ、なかなか帰してくれなくて」

「罪深いなあ樹は」

 彼女はこの数日間ひたすら本を読み、ゲームをし、後は眠っていたのだと教えてくれた。どうやら実家には帰らなかったようで、酔いに任せて理由を尋ねると、移動が面倒だったからだという答えが返ってきた。

 僕の想像力も大概だと心の中で笑った。

「飲み会ではどんな話をしたの?」

「ん? いや、別になんてことはないよ」

「私としては参考までに、聞きたいんだけど」

 何の参考かと思ったけど、催促されたので懇切丁寧に今日の話題をいくつか教えた。やはり出口の壮絶な別れ話には、彼女も興味を示しているようだった。

「災難だねえその人」

「いい奴なんだだけどね」

「いい奴、かあ」

「そうだよ。昔からね」

 あらかた話し終えてしまい、静寂が訪れた。これ以上拘束してはさすがに申し訳ないと思い、僕は電話を切ろうと決めた。

「さて。そろそろ寝ようかな」

「うん、寝ようかー」

「ありがとう、付き合ってくれて」

「いえいえ。あ、ねえ、樹」

「ん?」

「・・・・・・なんでもない」

「はあ、なにそれ」

「本当に何にもない。ただ名前呼んでみたくて」

 意地悪な声色に、僕はため息をついた。

「やめてよ。眠れなくなったらどうするの?」

「どきどきして?」

「違うよ。実は何か言いたかったんじゃないかって」

「あー、何にもなくてごめん」

「まったくどいつもこいつも」

「え? 他にも?」

「・・・・・・なんでもない。おやすみ」

「えー、気になる。教えてよー、ってあれ、切った?」

「切ってない」

「なんだよー」

「ねえ、凛」

「なに?」

「・・・・・・なんでもない」

「やっぱり君は野蛮だよ」

 僕達は笑い、別れを言って電話を切った。僕の体は限界だったようで、ふらふらと椅子から立ち上がり、再びベッドに倒れ込んだ。どのくらい話していたのか、正確にはわからないけれど、結構な時間が経っているように感じた。

 意識が消える寸前までずっと、僕は凛のことを考えていた。