「詩音、百合ちゃんと別れたってまじ?」


 共通テストを数日後に控えた、寒さの厳しい1月。クリスマスも正月もなく、持ち得る時間の全てを勉強に捧げるそんな日々で、たったひとつ、生活に変化が訪れた。


「いんや、べつに別れ話とかはしてないけど」

「けど?」

「最近あんまり喋ってない、っていうだけ」


 深い緑色をしたマフラーをコートの上からぐるり首に巻き付ける。これは去年の冬に百合がくれたものだ。輪っかに端を通す。

 目の前にいる男は、なーんだ、とすこし残念そうな顔をする。


「百合ちゃんフリーになったのかと」

「おまえ狙うつもりだったの?」

「べつに狙ってないけど、可愛い子がフリーになったらちょっと湧くよな」

「へえ、そんなもん?」

「まあ実際、百合ちゃんが詩音と別れたら狙いたいってやつ、多いと思うけど」


 教材が詰まった黒リュックを背負う。赤本が数冊入っているせいでずしり重いが、これから使うのだから学校に置いていくわけにはいかない。


「そ。ごめん、おれ予備校だから、じゃあね」

「おー、おつかれー」


 百合の話をぶった斬って、友人に手を振った。

 去年の秋頃だった。放課後の帰り道、百合と些細な言い争いになって、百合がトラックに轢かれそうになったあの日から、なんとなく、おれと百合の間には距離ができ始めたような気がする。

 百合は放課後おれを迎えに来なくなった。不思議に思って、何度か放課後に彼女のクラスまで迎えに行ったりしてみたけれど、百合はいつも先に帰宅しているようだった。避けられている、と思った。

 うざったいくらいに来ていたメッセージもぱたりと止んだ。廊下で何度もすれ違ったが、百合はいつも友達を引き連れて歩いていて、おれには気づいていない、というか、気づかないふりしているように見えた。

 そんな距離感がずっと続けば、何も言わずとも周囲のひとは疑いを深めていく。ずっと近い距離感でいたおれと百合が、学校であまり話さなくなる。そんな変化に誰かが気づいて、いつの間にか「詩音と百合は別れたのかも」と囁かれる。学年が上がろうと、受験が近づこうと、みんな、噂話が好きなのは変わらない。

 だけど多分、別れていない、のだと思う。おれは毎日百合にもらったマフラーをつけて登下校をしているし、百合だって、おれがあげたブランドのヘアオイルを毎日つけているはずだ。すれ違うたびに、いつもと同じにおいがする。

 なんとも言えぬ気持ちを抱えながら、ひとり予備校に向かった。

 すこし前までは百合と歩いていた駅までの道、話し相手もいないからイヤホンでリスニングの音源を1.2倍速で流し聴く。

 駅に着いて、改札を通り、時間通りにやってきた電車に乗る。席に座れたから、今度はイヤホンを外して、地理の一問一答を赤シートで確認する。正解、正解、正解。この頃は正解が当たり前だ。この作業は失いかけた自己肯定感を取り戻すため。記憶を失わないためにするための儀式だ。あと20分、予備校がある駅に着くまで、できるだけ机のいらない勉強を進めておきたい。

 百合と一緒にいられなくても、自然とさみしい、という感情は抱かずに済んでいる。そのかわり得られたのは、ほんのすこしの手持ち無沙汰感だった。

 それを埋めるように勉強をする。何かを感じる前に。負の感情が湧き立つ前に。とにかく頭の中を別のものでいっぱいにする。知識、解法、時間感覚。やればやるだけ身に付いて、やればやるだけ楽になれる。受験とはきっと、そういう行為の繰り返しだと思う。

 それからしばらく電車に揺られると、予備校がある駅に着く。またもイヤホンをつけて、リスニングの音源を聴きながら予備校まで歩いた。

 受験という世界はあまりにも閉塞的だから、みんな気が狂っている。

 自習室では赤本マウント合戦が執り行われる。自習室でよく見かける、おそらく多浪の先輩が、難関大の赤本を机に積んで、知らぬ誰かを威嚇している。ばかばかしい。難関大の赤本を積んだところでおまえの頭がよくなるわけじゃないのに。そんなことを考えながら、赤本マウンターの隣の空席に腰を下ろす。

 志望校でマウントをとって、何が楽しいんだろう。おれは確かにT大を志望してるけど、だからといってそれよりも低いレベルの大学を志望する人に対して何とも思わないし、それに、一般受験組が推薦組をばかにするみたいな流れも、あまり好きじゃない。

 もう、すべてに辟易としているのだ。学歴厨っぽいひとの発言も、多浪の自虐ネタも、カルトっぽい予備校指導者も、正直言って寒いし、痛い。結局誰がどう言おうが、大事なのは基礎だ。基礎を固めて、しっかり取るところで点を取って、おれはこんな場所から早く抜け出したい。

 共通テストはあと4日後。正直なところ、ほとんどの科目は完成している。大事なのは、いかにこの状態を維持したまま本番を迎えるかだ。

 とにかく英語と国語は毎日解いておく。それから暗記科目を触って、最後に化学と物理。すべてを満遍なく触ろう。なんとなく頭の中で計画を立てて、教材を開いた。







 自習を終えた20時45分。閉館の時間が差し迫る中、ロビーの自販機で暖かいコーヒーを買ったおれに、声をかけてくる人物がいた。


「詩音、おつかれ〜」


 見ると、友人である小森がいた。小森は夏期講習の頃から仲の良い、他校の同級生である。うちの予備校は浪人生が多いから、現役の、そしてノリの合いそうな友人の存在は、時として刺激にもなり、時として安心感をもたらすものであった。


「おー、小森。おつかれ。調子どうよ」

「まあぼちぼちかな。9時までちょっと話そうぜー」


 どうやら小森は21時に親が近くに迎えにくるらしく、それまで時間を潰したいらしい。

 おれも電車の時間まではもうすこし時間があるから、小森と一緒に21時まで待つことにした。

 小森も俺と同じ缶コーヒーを買った。それから、ふたりでロビーにあるベンチに座る。

 缶コーヒーのプルタブを開けて、ぐ、と中身を喉に流し込む。その途中で、小森が言った。


「自習室暑くなかった?」

「あー、うん、暑かった」

「だよなー。夏は冷房効きすぎてさみーし、冬は暖房やばいし、まじどうなってんの」

「さっきマサヤさん半袖着てたしな」

「えぐー」


 小森との会話は自然に勉強のことに終始する。小森は他校の生徒だから、共通の話題があまりない。もちろん、小森は百合のことも知らない。

 予備校を出てから、小森と仲良くする未来はあるのだろうか。この場限りの仲になるかもしれないし、ならないかもしれない。だがふたりとも、自然と将来の話はしない。未来が不確定だからだろう。


「共テ前、いつまで自習しにくる?」


 戯れにそんなことを訊く。小森はまたひとくち、缶コーヒーに口をつけてから言った。


「明後日まではふつうに来るけど、前日来るか迷うよなー。詩音は?」

「おれは、前日は流石に来ないかも」

「だよな、俺もそうしよっと」


 ふあ、と小森があくびをする。もう眠いのだろう。

 スマホで時間を確認する。20:52。まだすこし、時間がある。


「お、ふたりともお疲れさま〜」


 そんなところに突然、誰かがやってくる。

 目の前に差した影に顔を上げると、すこし若めの、スーツを着た男が立っていた。


「おつかれさまでーす」


 小森がスマホをいじりながら言った。おれもなんとなく会釈をする。

 スーツを着た、若いひと。きっとコイツは、大学生チューターだろう。

 大学生チューター、というのは、予備校講師とは違って、学生アルバイトである。質問対応など、簡単な生徒への対応や、校舎内の事務などをやっているらしい。


「ふたりとも高3? どこ志望なの?」


 緊張をほぐすためなのかよくわからないが、その大学生チューターはなぜかおれと小森に話しかけてきた。

 ふたりとも今のところはT大ですね、と小森が返す。


「へえT大なんだ、僕もいまT大だから、受かったら後輩になるねえ。学部は?」

「俺は経済、こいつは工学です」


 小森がおれを差すと、大学生チューターと目が合う。もう一度、軽く会釈をした。


「そっかあ。じゃあ共通テスト、頑張らないとねえ。ほら、うちの予備校って毎年T大志望の子多いけど、実際にT大受かるのって多くて3人くらいだしさあ」


 途端、緊張感が走る。

 これは高度な嫌味だろう。おまえらみたいな高校生がふたり仲良くしていても、ふたりとも受かるわけない、みたいな? そしてすでにT大に受かっている自分は、高みの見物、みたいな。

 仮にこの学生チューターに悪気がなかったとしても、こいつ、結構だるいな。共テ直前の、ナーバスな受験生に言うべき話題じゃない。放っておいてくれた方が数億倍マシだ。


「T大なんか行っても、意味ないっすね」


 急に口から飛び出た言葉に、学生チューターがおれを見て、首を傾げた。おれの発言の意味がわからなかったみたいだ。

 T大なんか行けても、おまえみたいになるなら、意味ない。ひとの気持ちがわからなかったら、なんにも意味ない。

 そんな想いを視線に込めるが、学生チューターはずっと、訳のわからない顔をしている。

 ……ほら、やっぱり意味ない。

 こいつなんかに言葉を尽くす意味はない。だけど、小森がわかってくれるならそれで十分だった。

 共通テストがすぐそこまで迫ってきている。大丈夫。やるべきことをやるだけだ。







 日々はきっかり24時間周期で進んでいく。

 共通テストの得点率は9割2分。満を持して出願し、手に入れたT大工学部、前期選抜の受験票。センター後に燃え尽き症候群になることもなく、ただひたすらに2次試験に向けて、日々の時間をすべて勉学に費やした。

 百合との関係は何も変わらないまま。おれは未だに深緑色のマフラーをつけたままだし、百合の髪の毛からはあまい花のにおいがする。廊下でたまに目が合う。そんな日々を繰り返す。

 ついにやってきた、2月25日。国立2次試験の当日である。

 いつも通り、制服にコート、そして百合がくれたマフラーを巻いて、受験票と、腕時計、筆記用具、かんたんな勉強道具にのど飴、マスクの予備など、全ての持ち物を万全にして、当日を迎えた。

 緊張感とともに、終わりがもうそこまで来ている気がした。

 数学、英語、そして理科の筆記試験を受け、終わる頃にはもう陽が沈み始めてきた。2月とはいえ、まだまだ凍えるほどに寒い。

 最終科目の回答時間の終了が告げられ、筆記用具を置いた瞬間。ふっと力が抜けて、自分が空っぽになったような感覚がした。

 手ごたえは、正直ある。完答の自信がある大問も多かった。序盤で大きなヘマをしていなければ、きっと合格点は超えている、と思う。そんなこと、他人に対しては口が裂けても言えないけれど。

 沈みかけた夕陽の合間を縫うように、大学の最寄駅に向かう。来春から、ここを使う学生になれますようにと、そんな願いを込めながら、一歩ずつ歩いていく。

 そうしてたどり着いた、駅の前。

 見知った顔がいる。


「……百合?」


 くすんだピンクの、ニットのロングワンピースに、ベージュのコートを合わせて、赤いマフラーで首元をもこもこに埋めた百合が、おれを見つけて手を引いた。

 とても驚いた。百合とまともに喋るのは数ヶ月ぶりで、しかも連絡すらもまともに取っていなかったのだ。どうせ春からは百合は東京に、おれはT大のあるこの地方に残るのだから、どちらにせよ距離が離れることによる自然消滅は免れないだろうと、半分諦めてもいたからだ。

 だから、まさか百合が事前に連絡もなく、国立2次の当日に、こうやっておれに会いに来るなんて。思ってもいなかったのである。


「百合、どうして」

「……ずっと避けてしまって、ごめんなさい」

「うん、それは、そうだけど。どうしよ、ちょっと、びっくりしてて」

「詩音が大丈夫なら、ちょっと話したい、かも」


 駅前はさすがに受験生の波でごった返していた。人のいる場所から少しはなれて、人通りの少ない駐輪場の方に場所を移した。

 百合は寒そうに顔を埋めて、そしてやはり、すこし気まずそうだった。


「これ、渡したかったの」


 百合は鞄から赤いパッケージを取り出して、渡してきた。

 受験の験担ぎ、といえばで有名な、キットカット。黒いマジックで、「受験頑張って ゆり」と書かれている。


「もう終わったじゃん」

「ね、終わっちゃった、」

「大丈夫、百合のおかげで、たぶん受かったから」

「あたしなんかいなくたって、詩音は勝手に受かるでしょ」


 言いたいことも、聞きたいこともたくさんあった。どうして避けていたのか、とか。ほんとうはずっと、寂しかった、とか。だけど、全部どうでも良くなってしまった。


「百合、いっしょに帰ろ」


 いつもみたいに指を絡めた。

 ああ、この瞬間が永遠に続けばいいのに。