なぜ、あたしがこんな子に文句を言われないといけないのだろう。
そんなことを考えながら、目の前の野暮ったい女子を、きっと睨みつけた。
こんなふうにあたしが責められているきっかけは、ちょうど数日前、日本史の先生が急病で休んだせいで生まれた自習のとき、近くの席の男子たちとおしゃべりをしていたあたしの声がうるさかったことらしい。この子はきっと、おまえのせいで勉強に集中できなかったと文句を言いにきたのだろう。
目の前の女の子、下の名前は忘れたけど、同じクラスの安西さんは、わざわざあたしを人気のない階段の陰に呼び出して言うのだ。一般受験のひとに配慮してほしい、と。
「うちのクラス、ほら、共テ受ける人がほとんどだから、みんな切羽詰まってる、と思うの。だから、おねがい。みんなの邪魔、しないでください」
緊張の面持ちであたしにそう伝えてくる彼女の顔を、たっぷり、じっくりと時間をかけて見つめる。
あたしが何も言わずにずっと見ていたからか、居心地の悪くなった安西さんは、さらに言葉を重ねた。
「あ、えっと。ほら、この前の放課後、すずのちゃんが泣いてたの、知ってるかな。あれも、その、百合ちゃんの声が、あの、うるさくて集中できなかった、みたいな」
すずの。石井すずの。たしか、高山ななこといつも一緒にいる子だ。
ふうん、あの子が。気に入らないな。
さらに時間を置いて、相手がまた居心地悪そうにしたタイミングで、あたしはやっと、一言目を発する。
「そっかあ」
目を細めて、うわべの笑顔。普段よりも高めの声。
「ならー、あのとき喋ってた菅沼とか宗くんたちにもおんなじように言ってやって?」
「……え、それは、百合ちゃんに」
「あたしは別に困ってないもの」
ぴしゃり、言い張った。
ああ、むかつく。こんな野暮ったい女子に呼び出されて、苦言を吐かれて。誰かに見られたらどう思われるか。この子は自分の価値の低さにどれくらい気づいているのだろう。
そもそも。自習中に集中できなかったのなら、あのとき声を上げれば良かったじゃない。それをせずに、後出して文句を言ってくるなんて。馬鹿みたい。
「話ってそれだけ? あたし用事あるから、帰るねえ」
こてん、首を傾けて、背の低い安西さんを見下ろす。頭頂部のアホ毛が目立つ。汚いな、と思った。
そのまま、何も言わない安西さんの隣を通り抜けた。
高校3年生、秋。
学年中のみんなが、受験という二文字に支配されている。
あたしはすでに、総合型選抜、いわゆるAO入試で、東京にある私大への進学が決まっている。余程のことがなければ、進学が取り消されることはない。
みんな、受験に毒されすぎだ。
みんなだって、1年、2年のときは自習中に騒いで、お喋りをしていたくせに。3年生になって、自分が焦りだしたからって、ピリピリして、他人を責めて。ばかじゃないの、って思ってる。
期末考査で順当な成績を取って、小論文と面接の対策をして、総合型選抜という、世の中にある制度を使って進学先を決めたあたしを、よく皆が揶揄しているのも、知っている。一般受験じゃないくせに、総合型はズルだ、なんてことも、聞いたことがある。
だけど、どう考えても自分の力量に見合わないレベルの大学を志望してるひとの方が、みっともないし、情けない。どうせ共テで失敗して、志望校を下げるのが関の山だ。なぜそんな、わかりきったことに気付かないのだろう。あたしは自分のレベルに見合った大学への進学を、きちんと制度として存在する総合型選抜というものを使って決めただけだ。それに文句を言う筋合いなんて、誰にもない。
自称進学校であるうちの高校は、とにかく国公立大学への進学を推進している。みんなその洗脳を受けている。国公立進学が正義。一般受験が正義。指定校推薦や総合型選抜はズルをしている。お前も努力をしろ、周りに気を遣え、だの、うるさい。全部余計なお世話だ。各々が決めた受験の仕方や進学先に優劣があるわけがない。黙れ、黙れ。
そんなことを考えながら、理系クラス、3年F組の扉をからり開いた。
「詩音、いる?」
教室を覗き込むと、窓際後方の席に、すでに荷物をまとめた男の子がいる。彼はこちらを見た。
「ん、かえろ」
重たそうな黒いリュックを背負い、詩音がこちらにやってきた。
理系クラスの詩音との付き合いは、かれこれもう1年半くらいにはなるだろう。
背が高い。肌がつやつや。ちょっと重ための前髪と、そこから見え隠れする、蒙古ひだのないぱっちりとした瞳。すらり通った鼻筋は横から見たときにかんぺきなEラインを形成する。言ってしまえば詩音はすごくかっこよくて、しかも頭もいい。自慢の彼氏だった。
廊下を一緒に歩いていると、すれ違う友達が何人かあたしに向かって、「百合ちゃん詩音くんじゃあねー」と声をかけてくる。ばいばーい、と腑抜けた返事を返すが、詩音は何も言わない。
詩音はどちらかといえば人見知りだ。だけど、クラスの端っこにいるタイプの人見知りじゃなくて、クラスのトップグループのなかでは比較的おとなしいというだけのレベルの、人見知り。むやみやたらに愛想をふりまくことはないけれど、そつなく誰とでもコミュニケーションが取れるタイプだ。そういうところも、好きな要素であった。
「詩音は今日も予備校?」
「まあ、うん。授業はないけど、自習室使いに行く」
「そっかあ。身体こわさないようにね」
詩音の志望校はT大。この学校の成績上位者が軒並み目指す、地方旧帝大である。
だが、なんとなく、その辺のT大志望の生徒と、詩音のレベルが違うということは、あたしにもわかっていた。
模試の判定を聞き出したことがある。悪いときでもC、大体はB判定らしい。まわりのT大志望の生徒がDとかEとかいった、言ってしまえば微妙なアルファベットをあてがわれている間も、詩音はずっと、それよりも数段階高い位置にいる。
それもそうだ。みんなが学校内の自習室や放課後の教室でだらだらと時間を浪費している間、詩音は予備校に通って質の高い授業を受けて、夜遅くまで勉強してる。それを詩音は、2年生のときからずっとこなしていた。いまさら慌てて勉強しはじめたその辺のひとが、詩音に敵うわけがない。
そしてあたしは、そんな詩音に選ばれた自分を、ほんのすこし誇らしく感じていた。
校舎を出て駅までの道を歩く。車道側を歩く詩音の右手が、あたしの左手に絡まった。自然に、かたく結ばれる。毎日のルーティン。詩音に触れられるのは、この瞬間だけ。
そんな詩音に、あたしは心の中のもやもやを吐き出した。
「さっきね、クラスの女子に呼び出されたの」
「……へえ、どうして?」
「あんまり覚えてないんだけど、なんかあたし、すこし前の自習中に菅沼たちと喋ってたらしくて。そのときの声がうるさかったって、急に言われて、困っちゃった」
ただの愚痴のつもりだった。詩音ならきっと共感してくれるだろうって、そんなことを考えていた。
だけど、詩音の反応は想像とはすこし違っていた。
「喋ってたらしくて、って、喋ってたんだろ? そりゃあ、みんなピリピリしてるんだから、それなりに配慮はしたほうがいいだろ」
「……え、あたしが悪いの?」
「現場見てないからなんとも言えないけど、わざわざ百合に言ってくる意味は、考えた方がいいんじゃね」
ほんのすこし、繋がれた手が緩まった気がした。
詩音、なんでそんなこと言うの。
やめてよ。あたしの味方でいてよ。
「でも、そんなに迷惑だったなら、そのとき言えばよかったじゃん」
何かを乞うように言葉を重ねても、詩音はうん、と頷くだけだった。
足取りが妙に重い。
「後から言われたって、あたし困るよ」
そのまま、1分ほど無言で歩く。手はまだ繋がれたままだ。
無言に耐えられなくなってきた頃合いで、詩音が口を開いた。
「その場では言えないよ。たぶん百合って第一印象けっこう怖いし」
「じゃあ、どうしたら」
「せっかくこうやって気付かせてくれたんなら、次から気をつけたらいいじゃん。ただでさえ百合はもう進学先決まってるんだし、それなりに配慮は必要でしょ」
ぴしり、なにかが壊れていくような気がした。
あたしが一番言われたくなかったことだ。おまえは推薦で決まってるんだから、一般組に配慮しろ。
なにそれ。うざい。なんであたしが。どうしてあたしが、ばかにされなければならない?
「……詩音も、思ってるの? 推薦組は一般組よりも格下、みたいな」
「は? なんでそうなるの」
「みんなそうやって、あたしのことばかにするのよ。推薦組はあたまが悪い、だから配慮が足りない、とか」
「おれはそこまで言ってない」
「じゃあどういうこと?」
やけくそで言葉を放っていく。止めなければ、と思うのに、止まらない。止められない。
今まで我慢してきたことが爆発しそうだ。見ないふり、聞かないふりをしてきたのに。今まで何ともなかったクラスメイトたちが、最近牙を剥いているのだ。百合は推薦組、わたしたちよりも下、だから配慮が足りないとなじってもいい、攻撃してもいい。そんな微かな空気感を、感じていないといえば嘘になる。
詩音と繋がれたゆびさきがほどける。
「おれは、べつに推薦だろうが一般だろうが、べつにどうでもいいけど、だけどそういうの関係なく、するべき配慮はするべきって言ってる」
「なんなの、詩音もなの? 詩音ですらあたしの味方でいてくれないの?」
「それは違うって」
「もういい、あたし先に行くから」
むかついて、どうしようもなくなって、大股で先に進もうとして交差点を突っ切ろうとした矢先。
クラクションの音が聞こえる。
「……っ、ばか!」
ぐ、と後ろに腕を引かれ、そのまま後ろに倒れ込む。
その瞬間、目の前をハイスピードで過ぎ去っていく大型トラック。轢かれていたかもかもしれない、と思うとゾッとした。
詩音が庇ってくれたから、けがはない。あわてて詩音から退ける。
「……ごめんなさい」
「うん、ほんとにね」
「ごめん、」
「わかったから、ちゃんと手繋いでて」
起き上がって、砂埃を払った詩音がもう一度手を差し出してくる。
遠慮がちに繋ぎ直して、駅までの道を歩く。
もう、さっきの話の続きをする気にはならない。だけど、別の話題を提示することもできなかった。
詩音は、あたしとは違う。
詩音は、みんなとも違う。
きっと学年の誰よりも努力家で、なのに誰よりも謙虚で、そして、誰よりも格好いいのだ。
かたやあたしは、自分の非を認めたくない。だからあたしは、あたしを攻撃するひとを敵視して、一般組のみんなを逆恨みしてる。
ほんとうは、心のどこかでわかってる。一般受験組のみんなの邪魔をしてはいけないこと。あたしの言動はきっと、みんなにとっては鼻につくようなものであるということ。
だけどあたしは、どうしたらいいかわからない。あたしはただ、毎日、今まで通りの生活をしたいだけなのに。もうすぐ終わってしまう高校時代を、ただ、無駄にしたくないだけなのに。
いちばん努力家な詩音の隣に並ぶ、いちばん最低なあたし。あたしはもう、彼の隣にいる権利なんか、ないのかもしれない。
ゆるく手をむすんだままアスファルトをローファーで踏んだ。



