「心配したんだよ。シュゼット……逃げ出したようだね。あれは腕の良い奴らとは聞いていたが、結果を見ればそうではなかったようだ」
にっこりと微笑んでいる。いつも彼が使用人たちに見せるような、優しい笑顔。
けれど、どうしてだろうか。ローレンス侯爵の目から、底の見えない深淵のような暗闇を感じてしまうのは。
「……あの人たちに、私を誘拐させたんですね。どうして」
理由は明白だったけれど、私は聞いてしまった。もしかしたら……何かの勘違いであると言って欲しかったのかもしれない。
そんな訳があるはずもないのに。
「ああ。誘拐はさせたね。今回は手紙を渡して貰う機会ではなかったからね。君を殺すかどうやって存在を消すか。ただ、それを実行する機会だっただけなんだよ」
謳うように滑らかに吐き出される、信じがたいほど酷い言葉。
「……ひどい」
声が震えてしまった。私が辞めようとしたから、口封じのために殺そうとしたんだ。
「シュゼット。君は本当に可愛いね。どこからどう見ても、上流階級の出だ。誰も君のことを、平民であるなんて思わない。言葉遣いや所作を見れば、育ちはどうしても出てしまう……君は裏路地で蹲っていたあの時が懐かしいね。私が君をあそこから連れ出さなければ、すぐに売られて娼館行きだっただろうけどね」
……それは、その通りだった。私はだから、ローレンス侯爵に感謝して……だけど。
「これまで私に宝石の密輸を、手伝わせていたんですね」
私の言葉を聞いてローレンス侯爵は、にこにこと微笑んで頷いた。
「ああ。知っていたのか。話が早いねえ。そうなんだよ。どうしても、それは誰にも知られたくなかった。君が私の管理下から離れると言い出すなら、こうするしかなかったんだよ」
「私の口止めのために、こんなにも大がかりなことを?」
信じられなくて絶句した。
けれど、それだけ宝石の密輸は儲かる犯罪なのかもしれない。使用人への金払いも良く、裕福なローレンス侯爵。
違法な犯罪行為で簡単に儲けたお金であれば、使う時にも軽々しくなってしまうものなのかもしれない。
「君を誘拐したあいつらは、頼んだ通りにシュゼットから奪った宝石を私に売りに来たから全員消したんだよ。先に絶対に逃げられないと聞いていたのに、シュゼットは帰って来ているじゃないか。どこからどう見ても可愛らしい貴族令嬢なんだから、殺しても良いし売っても良いと言っておいたんだけどねえ」
にこやかな黒い目の奥にある、底知れぬ闇。
どうして私はこれに気が付かず生きて来たのだろうと、ゾッとして背筋に冷たいものが走った。
「……そこまでだ」
いきなり扉の方から声が聞こえてきたので、ローレンス侯爵は慌てて目の前に居た私を後ろから羽交い締めにした。
「クロード……」
その時の私の声は、震えていたと思う。けれど、クロードが居れば、なんとかなるだろうと思った。
こんなにも緊張感溢れる場面だというのにクロードは普段と変わらない様子で、なんなら剣さえも抜いていない。
何の危険もない日常と変わらないとでも言いたげに。
「お前……ああ。この前に執事見習いで雇った男か! どうして、ここに居る。もしかして、シュゼットと結婚するというのは、そういう……」
私の背後にがっちりとしがみついたローレンス侯爵は、この状況が信じられないと言わんばかりだ。
「ああ。そういうこと。言っておくけど、あんたが頼りにしている怪しげな男たちなら、さっき俺が全部戦闘不能にした。今頃、医者にでも運ばれている頃じゃない」
「……この女が、どうなっても良いのか」
私の首には何か、金属製のものが置かれた。
……何? 刃物? 私の背中に冷たいものが走った。
「知らないことは公平な勝負ではないから、先に言っておくけど……俺はこの前に世界を救った勇者で、数秒かからずにシュゼットを取り戻すことが出来る」
「何を! 勇者がこんな場所に居る訳がない。リベルカ王国でお姫様とでもよろしくやっているだろう」
「人の言葉を信じないって、なんだか酷いね。密輸に手を染める悪党なだけあるよ。あんたの言葉を、シュゼットは、ずっと信じていたというのに……どうする? シュゼット」
「助けて。クロード」
すかさず私は、彼に今すぐして欲しいことを伝えた。
なぜだか、クロードはこの状況を楽しんでいるように思える。それほど余裕のある状況なのかもしれないけど。
「わかった。助けても良いけど、ひとつだけ条件がある」
私は何を言い出したのかと息をのんだし、背後に居て私の首に刃物を突きつけているローレンス侯爵だって同じはずだ。
「……条件って、何なの?!」
我に返った私は、クロードに叫ぶように言った。
「……これが終わったら、ご両親に会いに行こう」
「そんな話してる場合じゃないでしょー!」
「困難を共に乗り越えたせいか、仲良かったよ。今ならシュゼットも冷静に話し合い出来るはずだ。人の関係は時が過ぎれば変わっていくものだよ。良い悪いにつかずね。色々誤解あったかもしれないけど、一回勇気出したらなんだこんなもんだと思うものだよ」
今、そんなことを話し合っている状況ではないはずなのに!
「もうっ!! わかったから!! 良いから早くー!!」
彼の条件を受け入れると私がそう叫ぶとクロードの姿はいきなり消えて、背後から抱きつかれていた圧はなくなり、振り向けばローレンス侯爵は片手で頭を持たれてぶら下がっていた。
その手に持っていたのは……ペン? あ。私の首に当てられて刃物だと思って居た物は、何の危険もないペンだったんだわ。
頼りにしていた雇われた人たちが来るまでの単なる時間稼ぎだったのかもしれない。よくよく考えればローレンス侯爵は戦闘なんて一度もしたことがなさそうだもの。
……だから、クロードはあんなにも余裕を持っていたのね。
私の命には何の危険はないと思えば、あんな遊びにも思える条件付けにも納得するわ。
「おい……シュゼットを利用して、殺そうとしたんだろう? お前の雇った男たちがあまりに怪しすぎるので、騎士団がここに来るのは時間の問題なんだよなあ。言い残したいことはあるか?」
クロードはまるで子猫を持ち上げているように易々とローレンス侯爵を持ち上げていて、もう逃げられないと悟っているのか顔は青ざめぶるぶると震えていた。
「……クロード。もう」
私はなんだか、可哀想に思えた。これから、ローレンス侯爵は今までの罪を、すべて精算することになる。
「約束だよ? シュゼット」
私の言葉を聞いてクロードはローレンス侯爵を床に落とした。彼は観念したのかうずくまり、身を丸くしていた。
王族が肝いりで関税を掛けている高額な宝石の密輸に、敢えて手を出していたのだ。貴族剥奪は免れず、何もかもを失うだろう。
私たちがここで全てを失うことになる、ローレンス侯爵を責め立てるまでもない。
ここに居る全員が、わかっているもの……悪事に手を染めた彼の末路を。
◇◆◇
「いやあ、これは、すごいことになりましたね!」
新聞を手にした翼猫ギャビンは興奮した様子で飛空挺のロビーでくつろぐ私とクロードにそう言い、紫色の翼を羽ばたかせた。
色々と事騎士団からの情聴取も終わった私たちは、必要な荷物を纏めてリベルカ王国へ帰るところだ。
私は自分がこれまでにしたことを、何もかも正直に洗いざらい話した。そして、疑問を持ちつつも、特別な仕事として、あれをしていたことも。
けれど、騎士団側から見れば、私がただ利用されていたことは、一目瞭然だったらしい。
ローレンス侯爵の日記にも私のことを利用しているとはっきり書かれてあったらしいし、密輸の片棒を担がされている割には、あまりにも生活が質素過ぎると言われた。
何かしら……それは、確かにその通りなのだけれど、えも言われぬ気持ちになってしまう。
だから、騙されていてただ手紙を配達していただけとなった私は、ノディウ王国の司法では晴れて無罪となり、クロードと一緒に私の家出したトレイメイン伯爵家へと向かっている。
……私にはそれでも、あの人を……ローランス侯爵を憎み切る事が出来なかった。家出したのに無事だったのは、あの人が私を一番に見つけたからだ。
その事については、感謝をしている。たとえ利用するためであったとしても、ある意味では救って貰えていたのだから。
そして、新聞で大々的に報道されてわかったことだけれど、ローレンス侯爵が密輸先としていたのは、ギャビンがクロードに『悪事を暴いて欲しい』とお願いした大臣だったのだ。
今はそれが判明し、ギャビンは新聞を見て興奮して騒いでいた。
けれど、勇者の案内人に選ばれし翼猫は、他の人の目から姿を消すことも出来るらしく不可思議な現象も注目されていない。
誰かが目をこらせば、勝手に新聞が浮いていることに気が付く人だって居るかもしれないけれど……人は人のことを、そこまで注目して見て居ないということなのかしら。
「いや、凄いですね。クロード。ちゃんと仕事していたんですね」
ギャビンは興奮気味にそう言い、クロードは飲んでいた紅茶のカップを置いて肩を竦めた。
「それは、結果的に……まあ良いや。ギャビン。これはちゃんと国王陛下に言っておいてよ。俺は世界を救った勇者として、世のため人のために働いているってさ」
「もちろんですとも!」
ギャビンは綺麗に新聞を折りたたみ、まるで騎士の誓いでもするかのように胸に手を当てた。
「まあ……別に俺も人助けしたくない訳ではないし、一番の目的のシュゼットだって見つかったし、これからは出来る範囲で色々やるよ」
クロードがそう言えば、ギャビンは肉球を合わせて目をキラキラとさせた。
「そういう言葉を、待っていました! クロード。ようやく勇者としての自覚が芽生えたのですね! リベルカ王国国王陛下にも、僕からそう報告しておきますね!」