道玄坂を下りながら、渋谷駅の方へ歩く。
街の灯りはきらきらと瞬いて、
人の流れも相変わらず、止まることがなかった。
けれど、私の足取りは重い。
真夜のすぐ横にいるのに、
次はいつ会えるんだろうって、そんなことばかり考えていた。
そっと彼の横顔を見上げた、その瞬間。
ぱちりと、目が合った。
「……奈央ちゃん?」
「ごめん、見てた」
とっさに目を逸らす。
たったそれだけの会話なのに、
胸の奥がじんわりと熱くなる。
「見てた」って、それだけで。
まるで告白みたいだった。
ふいに、真夜が立ち止まる。
無言のまま、私の前に出て、車道側へと位置を変えた。
「……俺さ、渋谷、もう来れなくなるかも」
あっけなく放たれたその言葉に、
世界の音が、少し遠くなった気がした。
「……もう、会えない?」
自分の声なのに、震えていた。
目の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
歩道橋で出会って、
カラオケで叫んで、
ネカフェで話して、
少しずつ変わっていった日々。
その全部が、目の前を駆け抜けていった。
「……うん。たぶん、そうなる」
真夜は、相変わらず淡々としていた。
あまりにもあっけらかんとしていて、返す言葉が見つからなかった。
「だからさ」
彼が、ポケットからスマホを取り出す。
そして、無言でこちらへ差し出した。
「SNS、交換しよう」
「……え?」
「……嫌だった?」
「ううん。びっくりしただけ。嫌じゃない」
嫌どころじゃなかった。
心のどこかで、光がひとつ、ぽっと灯るのがわかった。
「終わりじゃない」
その事実だけで、こんなにも嬉しいなんて。
緩みそうになる口元を隠しながら、
自分のQRコードをそっと差し出す。
「よっしゃ、追加できた。ありがと、奈央ちゃん」
彼のスマホ画面に映った名前。
──『紺野 真夜』
アイコンには、夜空に浮かぶ星が光っていた。
「こんの、まよ……」
小さくつぶやくと、真夜が肩を小突いてきた。
「読むなって。なんか、恥ずかしいから」
「……でも、素敵な名前だね。
今日の夜空みたい」
ふと、そう口にしたら、真夜は目を丸くしてから、ケラケラと笑った。
「……奈央ちゃん、案外ポエマーじゃん」
いつもの調子。
けれど、耳が、ほんのり赤くなっていた。
見上げた空は、深い紺色に染まっていた。
あたたかな風が、そっと通り抜けていく。
さっきまで足元ばかり見ていたけど、
いまは、少しだけ先の未来を見たくなった。
この夜空の下で。
「また会える」
そう思えることが、こんなにも心をあたためるなんて。
人混みの流れに、身を預けるように歩いた。
ネオンと雑踏の波の中、
気づけば、別れの時間がすぐそこまで来ていた。
「……じゃあ。またね」
真夜が言う。
なんでもない口ぶりだったけれど、その声に、少しだけやわらかさが混じっていた。
「うん。またね」
「じゃあね」じゃなくて、「またね」。
たったそれだけで、
胸の奥が、ふっと軽くなった。
彼は、地下鉄の階段を静かに降りていく。
背中は振り返らず、まっすぐに。
私も、くるりと背を向けて、改札のほうへ歩き出す。
どちらも、振り返らなかった。
名前を呼ぶことも、手を振ることもなく。
でも、それがちょうどよかった。
私たちは、
友達でも、恋人でもなく。
同じ孤独を抱えて、生き抜こうとしている。
──「共同体」だったから。
電車の座席に身を預けて、
揺れるリズムの中で、
さっき交わした言葉を、そっと反芻する。
「……またね」
それだけの言葉が、
いつまでも、心のどこかに優しく残っていた。
母の退院が決まった。
「来週の水曜日ですね」
主治医は、にこやかに言った。
「くれぐれも、無理なさらないように」
「はい」
母はそう返しただけで、口をきゅっと結んだ。
表情は読めなかった。
それでも、どこか──少しだけ、不安そうに見えた。
私は、うれしいのか、こわいのか。
そのどちらでもあって、どちらでもなかった。
母がまた、無理をして倒れてしまうんじゃないか。
その心配と並んで、
ずっと胸の奥で疼いていた、もうひとつの思いが顔を出す。
真夜とのこと。
まだ母には話していない、自分の秘密。
知られたら、きっと叱られる。
けれど、それ以上に──
あの関係が壊れてしまうのが、こわかった。
最低だな、私。
そう思っても、消えてくれなかった。
「お母さん、家……綺麗にしておくね」
「ありがとう、奈央ちゃん」
母の顔が、少しだけほころんだ。
その笑顔を見て、胸がちくりと痛んだ。
それでも、彼と話したいという気持ちは、
どうしても抑えられなかった。
夜。
溜まった食器を、今日こそは洗おうと思った。
蛇口をひねると、水はぬるくて、
夏がもうすぐそこに来ていることを思い出させた。
「……早いな」
独り言みたいに、ぽつりとつぶやいたそのとき。
シンクの脇で、スマホが震えた。
画面には、
──真夜
「元気?」
それだけ。
ほんと、真夜らしい。
あわてて手を拭きながら、返信を打つ。
「元気だよ。真夜は?」
すぐに、返事が来た。
「微妙。両親に監禁されてる」
「監禁」なんて、きっと冗談混じりだ。
でも、その裏にある「助けて」のニュアンスは、すぐに伝わってきた。
自由に出られない。
勉強ばかりで、反論もできない。
父親は家の中で平気でタバコを吸っていて、
真夜は「受動喫煙しまくり」だと、軽く書いてきた。
「えっ、大丈夫なの?」
分かってる。
大丈夫なわけがない。
でも、聞かずにはいられなかった。
──それっきり、スマホは鳴らなかった。
メッセージの下に、小さな「既読」の文字。
返したくないのか、返せないのか。
どちらなのか、見当もつかなかった。
彼がどこに住んでいるのか、私は知らない。
マンションか戸建てかも分からない。
私にできることは、なにひとつなかった。
洗い終えた食器を、ガチャリと乾燥機に入れる。
陶器とステンレスの音がぶつかり合って、
やけに冷たく響いた。
その音だけが、今の私の無力さを教えていた。
母の退院日。
病室のベッド脇で、大きなボストンバッグに荷物を詰めていく。
タオル、パジャマ、歯みがき粉――
最後に、机の上にあった雑誌をそっと手に取る。
表紙には、由比ケ浜の海。
(……いつか、真夜と行ってみたい)
そんなことを思ってしまって、あわてて首を横に振った。
彼からの連絡は、あれきり来ていない。
私だけが心を寄せているのかもしれない。
理屈ではそう思っていても、どうしても彼のことが頭から離れなかった。
「奈央ちゃん」
母の声に、はっとして振り返る。
きちんとメイクをして、服も整えている。
「いつもの母」が、そこに立っていた。
それを目にした瞬間、
張りつめていたものがふっとゆるんで、全身から力が抜けそうになる。
「……お母さん。帰ろう、家に」
母は、ゆっくりと目を細めてうなずいた。
初夏の風が、病院の玄関先を抜けていく。
私たちは、陽の差す方向へと歩き出した。
母との生活は、思っていたよりずっと、何でもなかった。
久しぶりに帰ってきた家の空気は、
どこかあたたかく、静かだった。
散らかっていた部屋も、洗い物も、
母がいるだけで、あっという間に片づいていく。
拍子抜けするほど、日々はスムーズにまわり出した。
それでも。
きれいになったキッチンを見渡しながら、
心のどこかが、ぎゅうっと縮む。
(……私って、だめだな)
そんな風に思ってしまうのも、事実だった。
母は、朝食をさっと用意してから、仕事に出かける。
以前と同じ、スーパーのレジ打ち。
「じゃあ、いってくるね」
「……いってらっしゃい」
私は手を振りながら、背中を見送った。
ふつうの母と、ふつうの娘。
無職だけど、ふつうの子どもとして日々が流れていく。
でも――
ほんとうは、全然「元通り」じゃなかった。
真夜が、いない。
その穴は、スマホを見ても、外を歩いても、
何ひとつ埋まってくれなかった。
机の上に、通信制高校のパンフレットが重なっていた。
母が入院中に取り寄せていたのだろう。
「苦労かけて、ごめんね」
以前、そう言って、母は目を伏せた。
その姿が頭に焼きついている。
「お母さんのせいじゃない」
そう言いたかった。けれど、言えなかった。
心の奥にはまだ、
「お母さんのせいで」「お父さんのせいで」
そんな、言葉にできないものが渦巻いていた。
ただ、ふつうに高校に通いたかった。
ふつうに、友達をつくって、笑って過ごしたかった。
きっと、そんな思いが行き場をなくして、
「バカやろう」って、あの日、叫びになったのだ。
気づけば、スマホを手に取っていた。
「真夜は、どうしてる?」
文字を打ち込んでから、少し迷う。
それでも、送信ボタンを押した。
「私は、通信制に行くかも。ちょっと不安だけど。……とにかく、元気でね」
返事がなくてもいい。
まるでファンレターみたいに、気持ちだけでも届けばいいと思った。
……でも、すぐに「既読」がついた。
どきん、と胸が跳ねる。
そして。
画面に現れた短い言葉に、目を見張った。
──「俺もだよ。通信制行く」
心の中で、
何かが、ふたたび動き出す音がした。
バラバラだった未来の地図に、
ふたりの名前が、また交差していた。
「え、どうして真夜も通信制……?」
思うより早く、指が動いていた。
送信してから、数秒もしないうちに、返事が返ってくる。
──「親は俺をとにかく勉強漬けにしたいらしい。
通信制は『無駄な時間』がないから、停学の遅れも取り戻せるって」
真夜らしくない、冷めた口調。
まるで、誰か他人の人生の話みたいに。
「無駄な時間」
その言葉が、胸の奥にずしんと沈んだ。
きっと、それは――
私がずっと憧れていた「ふつうの学園生活」のことだ。
学園祭、クラブ活動、放課後の寄り道。
教室の窓から射す、午後の日差し。
全部、「無駄」って、そう言われた気がした。
私たちは、選べない。
私は、お金がないから。
真夜は、親がすべてを決めてしまうから。
何もかも違うのに、
「選ぶことができない」という点だけは、同じだった。
子どもって、やっぱり弱い。
自分の手で、自分の人生を動かす力なんて、どこにもない。
……それでも。
真夜がそこにいるだけで、
少しだけ強くなれそうな気がした。
「真夜は、どこの通信制にするの?」
話題を変えたくて、深く考えずに聞いてみた。
返ってきた答えは、たったひとこと。
──「渋谷未来」
渋谷。
私たちが出会った、
あの歩道橋のある街。
ふたりの物語が始まった場所。
理由なんてないのに、
気づいたら「私もそこにしたい」と思っていた。
机の上のパンフレットの山を手に取る。
一冊、めくる。違う。
次も違う。
三冊目、四冊目……落胆と期待をくり返す。
そして、六冊目。
あった。
渋谷未来高校。
新しくできた通信制。
オンライン授業が中心で、有名講師の名が並んでいる。
学費は、少し高め。
きっと難しいかもしれない。
でも――
母が帰ったら、聞いてみようと思った。
そこに、真夜がいる。
それだけで、その場所は「行きたい場所」になっていた。
心はもう、そっちを向いていた。
「渋谷未来高校って、どう思う?」
思い切って聞いてみたら、母は拍子抜けするほどあっさりと答えた。
「いいんじゃない? 学費は少し高いけど……普通の高校よりはずっと安いし」
そのひとことに、こっそり胸をなで下ろす。
──真夜と、同じ高校に行ける。
そう思っただけで、胸の奥がふわりと浮いた。
その夜はなかなか眠れなかった。
遠足の前みたいだな、なんて自分で思って、ひとりでくすりと笑った。
願書を出して、面接をして、
六月、少し季節外れの入学。
それすらも「ふつうじゃないから、きっと忘れられない」
そう思えていた。
学校は、あの歩道橋のすぐそばのビルの一室だった。
「高校」というより、白くて無機質なオフィスのような内装。
床はぴかぴかで、空気には新しい匂いが漂っていた。
「はじめまして。教室長の宮野です」
スーツをきちっと着こなした中年の男性が、やわらかく微笑む。
母と並んで「よろしくお願いします」と頭を下げた、そのとき――
入り口の向こうに、もうひと組の親子が立っていた。
自由な空気をまとった長髪の父親、
華やかな巻き髪の母親。
そのあいだに立っている、少しだけ遠い目をした少年。
真夜。
気づいた瞬間、呼吸がふっと止まった。
背筋をぴんと伸ばして立つ彼の様子は、
どこか不自然で、まるで身体に見えない針金が通っているみたいだった。
両親に挟まれたその姿は、
かつてうらやましいと思っていたものそのままだったはずなのに――
ちっとも、うらやましくなかった。
思わず視線を外すと、母がちらりとこちらを見る。
小さく眉をひそめたその表情に、咄嗟に言い訳が口から出た。
「……ちょっとお手洗い」
トイレの個室に逃げ込むと、深く息を吐いた。
心臓の音が、まだ速い。
あんな風に、両親に囲まれてる姿が苦しそうに見えるなんて、
昔の私には、想像もつかなかった。
「両親がそろっていること」が、
必ずしも幸せだとは限らないこと。
ほんの数分で、そんな当たり前のことに気づいてしまって、
少し足元が揺らぐ。
母のもとへ戻る足取りは、どこかぎこちなくて、
膝がわずかに震えていた。
それでも、いつも通りの顔を作って隣に並ぶ。
母はなにも言わず、目だけで私を確認した。
声をかけてこないその沈黙が、逆に怖かった。
(ばれてないよね)
心の中で、何度も自分にそう言い聞かせる。
けれど、胸の奥ではまだ、どくどくと鼓動が鳴りつづけていた。
ただ、何もなかったふりをして。
私は静かに椅子に腰を下ろした。
──まるで、呼吸の仕方すら、忘れてしまいそうだった。
母と私は、ブースに通された。
ただのパーテーションで仕切られただけの、簡易的な空間。
その中で、担当の先生が、レポートやテストの仕組みについて説明してくれる。
スクーリングは年に二度。
提出物を出して、試験を受けて、単位をとる。
通信制のルールは、淡々と進んでいった。
でも、私の頭の中はずっと、
隣にいる「誰か」のことでいっぱいだった。
声がした。
「……うちの子をよろしくお願いします。ちょっと『不良』なんですけどね」
ぴくり、と反応してしまう。
聞き覚えのある、やや鼻にかかった男の声。
真夜の父だ。
(だめ、聞いちゃだめ)
手元の資料に目を落として、話の内容から意識をそらそうとする。
でも、だめだった。
「手っ取り早く単位を取らせて、残りは受験勉強に集中させたいんです」
まるで、真夜が「プラン通りに動く駒」みたいな言い方だった。
説明の合間に、教室長が低く相槌を打つ。
その横で、真夜の声だけが、まるで存在していなかった。
「ねえ、奈央ちゃん。聞いてる?」
母に呼ばれて、顔を上げる。
「……ごめん。緊張してた」
つい、嘘をつく。
本当のことなんて、言えない。
「レポート、がんばる」
ぽつりと口をついた言葉は、どこか虚ろだった。
その声にかぶるように、隣からまた、あの声が聞こえてきた。
「新入生歓迎会も、欠席でお願いします。……真夜に『無駄な時間』は要りません」
その瞬間、自分のなかで、何かが音を立てて崩れた。
無駄な時間。
歩道橋で話したこと。
カラオケで叫んだこと。
ネカフェのソファで肩が触れたこと。
──全部、否定されたような気がした。
次の瞬間、自分でも気づかないうちに立ち上がっていた。
「奈央ちゃん!?」
母の声が追いかける。
けれどもう、止まれなかった。
「……すみません」
震える声で、隣のブースに顔を出す。
一斉に視線が集まる。
真夜の父、母、教室長。
そして、真夜。
彼は、私の顔を見て、口を小さく動かした。
「どうして」──そんな風に見えた。
怖かった。言葉が出ないかもしれないと思った。
でも、足だけはちゃんと前に出ていた。
「……無駄な時間なんて、ありません。
ぜんぶ、必要です」
声が震えていた。
目の奥が、熱い。
真夜の父が、眉をしかめる。
「君は……真夜の知り合いか?」
返事に迷っていたとき、
真夜が、そっぽを向いたまま言った。
「全然。知らない人」
胸の奥で、なにかが砕ける音がした。
息が詰まる。けれど、泣くわけにはいかなかった。
真夜の母が困ったように笑って、息子の肩を抱く。
その目は、私を冷たく撫でて通り過ぎていった。
私は、何をしているんだろう。
真夜が望んでいないって、分かっていたのに。
でも、それでも、黙っていられなかった。
ひと粒、涙が落ちた。
「奈央! 何してるの!」
背後から、母の声が飛ぶ。
振り返ると、彼女が立っていた。
何か言おうとして、けれど言えなかった。
「……」
黙ったまま、叱られる。
でも、「ごめんなさい」だけは、どうしても言いたくなかった。
──私は、間違ってないと思ったから。
帰り道、母と私は、一言も口をきかなかった。
電車の揺れが、無言の空気を埋めていく。
だけど、なにも和らげてはくれなかった。
窓の外に流れる街が、どこか遠く感じた。
夕焼けが静かに傾いて、視界がにじんだ。
それでも私は、涙を拭かずに見ていた。
「余計なことすんなよ」
「……ああいうの、やめてほしい」
──そんな言葉が、真夜から届くかもしれない。
ずっと、そう思っていた。
怖くて、でも覚悟もしていた。
でも、スマホの画面は何も変わらなかった。
通知も振動も、音もない。
それが、いちばんこたえた。
──私の存在ごと、「要らない」って言われたみたいで。
何か送ろうかと、何度か画面を開いては閉じる。
どんな言葉を選べばいいのか、わからない。
「……真夜、いま、何を考えているの?」
声に出してみたところで、返事が来るわけじゃない。
だけど、言わずにはいられなかった。
*
母が仕事に出かけたあと、ふと思い立って渋谷に向かった。
目的があったわけじゃない。
ただ、あの場所に行きたくなった。
交差点には、相変わらずの人混み。
観光客、制服の学生、サラリーマン。
色とりどりの人生が、目の前をすれ違っていく。
前は、それを見るだけでつらかった。
取り残されたようで、ひとりぼっちに思えた。
でも今日は、不思議と平気だった。
私は今、ちゃんと動いている。
止まっていない。
そのことだけが、胸の奥に小さな灯をともしていた。
歩道橋の上から、流れる車をぼんやりと見つめる。
ビルの隙間から吹き抜ける風が、どこか湿っている。
(……これから、どうしたいんだろう)
自分に問いかけてみても、答えはまだ出ない。
どこかに就職する?
奨学金を借りて、大学に行く?
どちらも、まだしっくり来なかった。
ただひとつ思ったのは、
真夜なら――きっと当たり前のように、難関大学に進学するのだろう、ということ。
そして、彼はそれでいいと思っているのだろうか。
……そのことを、聞いてみたかった。
もう届かないと分かっていても、知りたかった。
けれど、壊れたものは簡単には戻らない。
そう頭では分かっているのに、
どこかで、風の音にまぎれて、あの声が聞こえるような気がしてしまう。
湿った風が、髪を揺らす。
あのカラオケの夜よりも、生ぬるくて、重たい。
気づけば、季節はもうすぐ七月だった。
すべてが、少しずつ、前に進んでいた。
私も、たぶん――そのなかにいる。
*
駅へ向かう途中、CDショップの入ったビルが目に入った。
夕焼けを背に、観光客たちが次々と吸い込まれていく。
CDなんて、最近は聴かない。
でも、まっすぐ帰るだけの夜には、まだ早い気がした。
理由もなく、ふらりと足がそちらに向く。
自動ドアが開くと、空調のひんやりした風と一緒に、CDのジャケットがずらりと並ぶ光景が広がった。
棚には、手書きのPOPがにぎやかに踊っている。
カラフルなマーカーで描かれた「流行」の名前。
そのほとんどが、私には馴染みのないものだった。
「……やっぱり帰ろうかな」
そう思いかけたとき、
ひとつの文字列が目に飛び込んできた。
──『バカやろう』
思わず、駆け寄る。
棚には『back ya loser』のジャケットがずらりと並んでいた。
カラオケで、真夜とふたりで叫んだ夜のことが、
波のように押し寄せてくる。
笑いながら、マイクを握って、
息が切れるまで、「バカやろう」を繰り返したあの夜。
その記憶が、鮮明すぎて、
思わず口の端がゆるんだ。
「……欲しい、かも」
上の段には、新曲のPOPが貼られていた。
そこには、太い文字でこう書かれている。
──『アホンダラ』発売中!
「……なにそれ」
小さく笑って、指を伸ばす。
そのとき――
指先が、誰かの手と触れた。
「あっ、ごめんなさい」
慌てて手を引っ込め、顔を上げる。
目が合った。
驚いたように、大きく見開かれた瞳。
その奥にある、よく知っている光。
「……奈央ちゃん」
その声が胸に触れた瞬間、
心臓が、どくん、と強く打った。
何も言えなかった。
でも、言葉なんて、いらなかった。
あのとき壊れたと思っていた何かが、
ここでまた、ふっと動き出した気がした。
夕焼けに包まれた店内で、
私たちはふたたび、出会っていた。
──きっと、まだ終わりじゃなかった。
「……真夜」
名前を呼んだきり、声が続かなかった。
胸の奥がいっぱいで、喉がうまく動かなかった。
言いたいことは、山ほどあるのに。
どれも、音にならなかった。
(あのとき、嫌だったよね)
(勝手なことして、ごめん)
(でも……私たちの時間を、「無駄」だとは思えなかったんだ)
頭の中に言葉が渦を巻く。
でもそれらは、どれも形になってくれなかった。
沈黙が、ふたりのあいだに流れる。
けれど、それは苦しいものではなかった。
真夜の目が、わずかに揺れていた。
なにかを探すように、
ゆっくりと、彼の口が動いた。
「……ごめん」
たったひとこと。
でも、柔らかくて、深くて、
心にじんわりと沁みる音だった。
私は、驚いて彼を見つめる。
その声には、怒りも、冷たさもなかった。
ただ、まっすぐな後悔と、あたたかい気持ちがこもっていた。
「……奈央ちゃんのこと、『知らない人』なんて言いたくなかった。
でも、あのときは、ああするしかなかった。
あれ以上、踏みこまれたら、自分を守れなかった。
……ごめん」
ぽつぽつとこぼれる言葉が、
胸の奥に、ひとつひとつ届いていく。
メッセージを送らなかった理由。
なにも言えなかった理由。
──それはきっと、文字にすれば自分が嫌いになってしまいそうなほど、痛みを伴うものだったから。
でも今、
真夜は逃げずに、目をそらさずに、言葉をくれた。
「また……会えてよかった」
「……会いたかった」
私は、彼の目をまっすぐ見て言った。
そこには、確かに私が映っていた。
ざわめく店内、流れるBGM──
そのすべてが、遠ざかる。
「……俺も」
静かに、でもはっきりと。
そう言った真夜の横顔が、少しだけ照れて見えた。
ようやく、ふたりの時間が動きはじめた気がした。
壊れたように思えた何かは、
あの日のまま、ちゃんとそこにあった。
それから、私たちは駅前のカフェに入った。
お互い、いちばん安いアイスコーヒーのSサイズを選んでいて、
思わず目が合って、ふっと笑い合った。
「考えること、一緒だね」
そう言ったら、真夜も口元を緩めた。
席に着いたと思ったら、彼はすぐに口を開いた。
「俺さ。……親に、ちゃんと反抗することにした」
ストローを口に運びかけていた手が止まる。
「反抗……って。……タバコのこととは、違うの?」
真夜は一瞬、言葉を選ぶように考えてから、ぽつりと答えた。
「タバコは、逃げ道だった。
吸ってると、頭がぼんやりして、つらいのがちょっとだけマシになる。
でも、それって……結局、何も変えてなかった」
「……うん」
彼の目は、もうあのときの遠い目ではなかった。
まっすぐに、今の自分を話してくれていた。
「だからこれからは、ちゃんと伝えようと思う。
進路も、自分の気持ちも。……父親にも、ちゃんと」
その言葉に、胸がじんわりとあたたかくなった。
親の期待のなかで育った真夜が、
「自分の言葉」を選び取ることは、きっと想像以上に苦しいことだ。
それでも、彼はまっすぐに前を見ていた。
「奈央ちゃんのおかげだよ」
「……え?」
「父親に言ってくれたでしょ。
『無駄な時間なんてない』って。
あのとき、ほんとは俺もそう思ってた。……でも、言えなかった。
我慢してた言葉を、代わりに言ってくれた気がして、ちょっと救われた」
思わぬ言葉に、頬が熱くなる。
「私なんて……」
照れて言葉に詰まると、真夜はにやっと笑った。
「……なあ、奈央ちゃん。行きたいとこある?」
「いつ?」
「週末でも、いつでも。ヒマなときで」
「前みたいにヒマじゃないんだけどなあ。どうしよっかな」
そう冗談っぽく返すと、真夜が声を上げて笑った。
私も、つられて笑った。
行きたい場所。
考えたとたん、ふと頭に浮かんだのは──
真っ青な海だった。
「……由比ケ浜、とか?」
言ってから「冗談、冗談」と慌てて取り消そうとしたそのとき、
「いいじゃん、由比ケ浜」
真夜はあっさりと言った。
「……本気で?」
「本気。本気。渋谷から電車で一時間ちょいだろ。行こうよ」
思いのほか乗り気な返事に、少し驚く。
けれど、それ以上に嬉しくて、胸が跳ねた。
「じゃあ……由比ケ浜、行こう」
「うん」
私の声は、ほんの少し弾んでいたと思う。
テーブルの上、ふたりのアイスコーヒーの氷はすっかり溶けていた。
「やっぱりSサイズは小さすぎたね」
そう笑い合いながら、
心はもう、海のほうへと歩き出していた。