「私ね、昔から映画やドラマを観るのが大好きなの」
 ブレザーに着替え、髪をおろした西条が、俺の隣を歩いている。
 どういうわけか、俺たちは今、一緒に下校していた。どちらから誘ったというわけでもなく、風が木の葉を持ち去っていくような、自然な流れでこうなった。
 多分俺は、昇降口でのあの涙を目にして、放っておくことが出来なかった。そして彼女は彼女で、自らの心の内を誰かに打ち明けたかったんだと思う。
 「へぇ……西条って、意外にサブカル系なんだな」
 「まあ、オタク気質ではあるわね」
 西条がはにかんだ。シーブリーズのほのかな香りが鼻腔を撫でる。
 「久保くんは好きな映画とかあったりは……って、話がずれちゃった」
 西条は本題に戻ろうと顔を引き締めた。
 「フィクションって、すごく勇気を貰えるの。それは主人公の成長だったり、周りとの関係の変化だったり、はたまた音楽とか映像の美しさだったり……理由は人それぞれだけど、物語を観終わった後に背中を押してもらった気持ちになるのは、誰もが経験したことがあると思うの」
 「それは確かにあるな」
 俺はあまり本を読んだり映画を観る方ではないが、その感覚は理解できた。
 「だけどね、多分ほとんどの人って、そこで得た勇気をただの余韻で終わらせちゃうの。でも、それって勿体ないと思わない?せっかく背中を押してもらったのに、自分自身の人生はこれまで通りでいいって。私は嫌かな、そういうの」
 西条の声が沈む。なんか、俺のことを言われてるみたいだな……
 「だから、お前はそんなに頑張ってるのか」
 「自分で言うのは恥ずかしいけど……。でも、映画みたいにドラマチックに生きたいとは、常々思っているわ」
 西条が胸を張る。長い睫毛に縁どられた瞳は、どこか遠くの世界を見ていた。
 「…………」
 彼女の中にある強い芯のようなものを感じて、俺は思わず言葉を失った。
 だけどその時、昔の記憶が蘇った。中学の陸上大会。リレー本番を前にして固まる俺に、部長が見せた横顔。あの時の眩しさが、今目の前で西条が放つ眩しさと重なって見えた。
 「ねえ久保くん。私のこの考えって、やっぱり綺麗事かしら」
 西条が見つめてきた。思いの強さを表すように、長い黒髪が揺れる。
 「どうだろうな」
 「はぐらかさないで。素直に思ったことを言って」
 西条は必死に答えを求めた。俺はポリポリと頭を掻く。
 彼女が口にしたことは、間違いなく綺麗事だ。現実とフィクションをごちゃ混ぜにして、都合の良い理想を掲げているに過ぎない。
 だけど、彼女の目を見れば分かるものもある。それは、あの時の部長と西条は全く違うということだ。部長の言葉は、ただ自分を良く見せるためだけのレトリックだ。対して西条の言葉は、嘘偽りのない本心。彼女は本気で、体育祭で優勝して最高の思い出を作りたいと思っているのだ。
 「たしかに、お前の考えは綺麗事だ。独りよがりなご都合主義だ」
 立ち止まって声を発した。正面から西条を見据える。
 「……そう。やっぱり、あなたもそう思うのね」
 「ああ。だけど勘違いするな。綺麗事そのものは悪じゃない」
 俺の言葉に、西条が大きく目を見開いた。
 「お前は自分の理想を他者に押し付けてるんだ。それが嫌われる一番の理由だ」
 「……っ!」
 西条の瞳が激しく揺れる。俺は軽く息を吐いた。
 本来、価値観や生き方なんてのは、自分一人で貫くものだ。それを他人に強要した瞬間、争いの火種が生まれる。宗教戦争なんかまさにそれだ。だが逆に言えば、誰にもそれを押し付けず、個人の美学として貫いている限りは、何の問題も起こらない。たとえそれが綺麗事だとしても、信念のある生き方として尊重されるべきだ。
 「自分の人生をドラマチックにしたいってのは、それは素敵な考えだと思う。だけど、みんながみんな、お前みたいに熱意に溢れてるわけじゃない」
 「……ぐうの音も出ないわ」
 西条が乾いた笑いを漏らした。どうやら腑に落ちたらしい。
 「ありがとう久保くん。私、頑張り方を変えてみる」
 「そっか。個人的には頑張ってもらわない方が有り難いけどな」
 「何言ってるの。私はどうしても優勝したいのよ」
 西条がジト目を向けてくる。はぁ……やっぱリレーも大繩もやんないとダメか。
 「じゃ、私こっちだから!」
 三叉路に差し掛かり、西条が右側に折れた。別れ際、俺はあることを口にする。
 「さっき七瀬が泣いた時、みんな、お前一人を責めたけど……本当は俺にも責任があった。なのに、あの時それを言い出せなくて、その……」
 俺は頭を掻きながら言った。クソ、なに恥ずかしがってんだ。
 「と、とにかくすまん!以上!早く帰れ!」
 強引に切り上げ、西条の顔を見もせずに左に曲がった。あーくそ。もう二度と謝らん。
 「……ありがとう。久保くんって、優しいのね」
 西条の穏やかな声が、鼓膜を撫でた。熱くなった顔を見られないよう、俺は早足で帰路に就いた。