結局、西条も七瀬も戻って来ないまま放課後になった。俺はクラスメイトと一緒に教室に引き返したが、そこにも彼女たちの姿はなかった。
 「政貴、着替えないの?」
 「ちょっとトイレ。付いてくるなよ」
 俺は笹原に釘を刺してから教室を出た。西条たちを捜すためだ。
 「……別に、西条を気に掛けてるわけじゃないからな」
 誰もいない廊下に独り言が響く。さっき七瀬が泣いたのは、西条一人のせいじゃない。俺自身も七瀬に対して強く迫ったからだ。おそらく彼女は、俺と西条に板挟みにされたことで、感情を爆発させてしまったのだろう。
 だからさっきの、西条一人を悪者にする空気は不快だった。もし西条があれを真に受けてしまっていたなら、それは違うと否定したい。
 やがて一階に降り、保健室の前を通り過ぎた。その時だった。
 「今日の練習、どうして参加しなかったの?」
 聞き覚えのある声が、昇降口の方から聞こえた。どこか険悪なムードを察知する。俺は忍び足で靴箱に近づいた。
 「しつけーな。怪我してるって言ってんだろ?」
 「怪我って拳の?なら、どれくらい酷いか見せてもらえる?」
 靴箱から顔を出して窺うと、西条と上垣が睨み合っていた。西条は体操服のままで、上垣は制服姿で鞄も持っている。多分帰ろうとしたところを西条に捕まったのだろう。
 「素人のお前に見せたところで、何が分かんだよ」
 「分かるわよ。その怪我、本当はもう治ってるんでしょ?」
 西条の言葉に、上垣の顔色が変わる。いつもは澄ました表情に、明らかな狼狽が映った。
 「はぁ?何抜かしてんだ、てめぇ」
 「だって、あなたが拳を負傷したのって、もう一年も前でしょ?骨が折れたわけでも、健が切れたわけでもないのに、流石に回復が遅すぎるわよ」
 「てめっ……、一体誰にそれを」
 「ボクシング部の顧問からよ。あなた、部活にも顔を出してないんだってね。怪我がきっかけで腐ったのでしょうけど、先生たち、心配してたわよ」
 西条が淡々と追い詰めていく。俺は二人の話を盗み聞いて、軽く衝撃を受けていた。まさか上垣に、そんな事情があったとは。
 「……っせーよ」
 「え?何て言ったか聞こえないわ」
 「うっせーよ!テメエに俺の何が分かんだよ!」
 上垣が大声で叫んだ。俺は心臓が胸から飛び出しそうになった。
 「ちょっと上垣くん、声……」
 「こっちはなぁ、テメエみてえに自己満だけでやってねぇんだよ!周りからの重圧とか責任とか、色々考えてんだよ!それをテメエの理想ばっか押し付けて、上から目線で抜かしてんじゃねーよ!」
 ゴン、と鈍い音が響く。上垣が靴箱を蹴った音だった。
 「ま、待って上垣くん。私はそんなつもりじゃ…」
 「帰る。それと明日から、二度と俺に関わるな」
 怒りに肩を震わせて、上垣は昇降口から出ていった。打ちひしがれた西条は、ただ正面から射し込む日差しを浴びていた。
中々壮絶な場面に遭遇したものだ。流石にこれは処理できない。やっぱり引き返そう……
 そう思った時。ガン、とつま先が靴箱に当たった。俺は無言の叫びを上げる。
 「今の音……誰かいるの?」
 西条の声が投げかけられる。俺は諦めて姿を現した。
 「……すまん。盗み聞くつもりはなかった」
 「……久保くん」
 俺は両手を挙げて目を瞑った。きっと文句を言われるに違いない。
 「……かんない」
 「え?」
 西条が何か呟いた。俺は瞼を上げる。
 「久保くん。私、どうすればいいか分かんないよ……」
 西条は笑顔だった。ただ、背中から差す陽が目に浮かぶ涙を光らせていた。