その後、二十分ほど練習は続いた。しかし回数は一向に伸びず、最初の午後の授業が終わった。俺はやっと苦役から解放されて、汗ばんだ自分の手の平を見つめた。硬い縄を握りっ放しだったせいで、すでに幾つか豆が出来ていた。
「久保くん」
腰に手を当てて休んでいると、どこからか呼ばれる。振り返ると、背後に西条が立っていた。練習後のせいか、頬が微かに上気している。首元には水色のタオルがふんわりと掛かっていた。
「ん、どうした」
なるべく自然に目を逸らした。体操服から伸びる四肢は刺激的だ。うっかり直視できない。
「誰が引っ掛かってるか、分かった?」
問われてから「ああ」と思い出す。さっきの休憩で話していた件だ。それについては、一応ちゃんと見ていた。
「多分、七瀬だと思う」
俺はチラリと視線を動かした。木陰に座って、一人で水筒に口をつける女子。肩先を撫でるボブに、気弱な表情を浮かべた彼女が七瀬だ。
「七瀬さんか……たしかに、運動は苦手そうだもんね」
西条が顎に手を添えた。それからしばらく逡巡して、やがてハッと顔を上げた。
「どうした?」
「ごめん。少し待ってて」
西条は駆け出し、七瀬の元に向かった。……何か嫌な胸騒ぎがする。
短い会話の後、西条が七瀬の手を引いて戻って来た。俺は七瀬とは一度も話したことがないので、どこか気まずい空気になる。だが西条はお構いなしに口を開いた。
「ごめんけど、今から縄を回してくれない?」
「はい?」
俺はポカンと口を開けた。しかし西条が急かすので、休憩中の笹原を呼んで言う通りに縄を握った。西条は「見ててね」と七瀬に言うと、一人で縄の真横に立った。
「久保くん、お願い」
「は、はあ」
俺は縄を回し始めた。それに合わせて西条がジャンプする。縄が地面を叩く音と、西条の靴音が重なって心地良いリズムを響かせる。そうしてしばらく跳び続けて、不意に西条が声を発した。
「こうやって、跳ぶのよ、どう?、七瀬さん、わかった?」
リズム良く跳ねながら、西条が横目を動かした。俺たちの様子を茫然と見つめていた七瀬は、「えっ」と困惑を浮かべる。どうやら手本を見せているつもりだったらしい。
「あいつら、何やってんだ」
「休憩時間に練習とか、ガチすぎだろ」
やがて俺たちの姿に気付いた生徒が、一人、また一人と足を止める。徐々に増えていく視線に、七瀬の顔色がみるみる悪くなる。
「久保くん、一旦止めて」
西条がジャンプをやめた。俺は縄を降ろして周囲に首を巡らせる。結構な数の生徒が俺たちを見ていた。
「じゃあ七瀬さん。次はあなたが跳んでみましょうか」
「え……」
西条の発言に、七瀬の表情が凍り付いた。まさかコイツ、こんな衆人環視の中、七瀬を跳ばせる気か?
「おい西条。それは流石に可哀想だろ」
「え?可哀想って、七瀬さんが?」
「他に誰がいるんだよ」
俺は呆れて溜息を吐く。視線を下げると、今にも泣き出しそうな七瀬と目が合った。
「七瀬さん。これはあなたが、自分の殻を破るチャンスなのよ」
西条が地面に膝を突き、勇気づけるように言った。突然迫られ、七瀬は動揺で目を揺らす。
「七瀬。無理しなくていいぞ。嫌なことは嫌ってハッキリ言え」
俺も口調が強くなる。心のどこかで西条のやり方を認めたくない気持ちがあった。
「あの……私は……その……」
七瀬の声が震え出す。俺たちの周りには大勢の人だかりが出来ていた。
「七瀬さん!勇気を出して!」
「だから、そういう綺麗事はやめろって…」
俺が西条に向かって声を張り上げた瞬間。
七瀬の瞳から、ぽたぽたと涙が落ちた。俺も西条も、「あっ」と目を丸めた。ヒートアップしていた脳が急激に冷めていく。
「七瀬さん!ごめんなさい、私……」
「体育祭なんて、もう嫌……!」
だっ、と七瀬が駆け出した。今度ばかりは西条も後を追えず、茫然とその場に立ち尽くした。葬儀の後のような沈黙が降りる。頭の中が真っ白だった。
「……西条さん、サイテー」
どこからか、棘々しい声がした。それを皮切りに、周囲から非難が漏れ出す。
「苦手な人にわざわざ無理強いすることないよね」
「さすがに泣かせるのはヤバいっしょ」
「てか、ウチらそもそも優勝とか目指してなくない?」
「一人で熱血ぶってるのキモイ」
容赦ない罵詈雑言が飛び交う。俺は思わず耳を塞ぎたくなった。
「そ、そんな!私はただ、少しでも体育祭を良い思い出にしようって……」
「ふっ。その思い出を壊してる張本人がウケる」
女子の一人が呟いた。すると辺りで笑い声が起きる。西条の顔に絶望が差した。
「西条……」
俺は膝を突いたままの彼女を見た。声を掛けようにも、何を言えば良いのか分からない。
その時、授業開始のチャイムが鳴った。西条が小さく首を振って立ち上がる。
「私、七瀬さんに謝らなきゃ……」
そう言って、西条は校舎の方に向かって走り出した。クラスメイトたちは、まるで西条の存在など忘れたように各々ではしゃいでいた。
「久保くん」
腰に手を当てて休んでいると、どこからか呼ばれる。振り返ると、背後に西条が立っていた。練習後のせいか、頬が微かに上気している。首元には水色のタオルがふんわりと掛かっていた。
「ん、どうした」
なるべく自然に目を逸らした。体操服から伸びる四肢は刺激的だ。うっかり直視できない。
「誰が引っ掛かってるか、分かった?」
問われてから「ああ」と思い出す。さっきの休憩で話していた件だ。それについては、一応ちゃんと見ていた。
「多分、七瀬だと思う」
俺はチラリと視線を動かした。木陰に座って、一人で水筒に口をつける女子。肩先を撫でるボブに、気弱な表情を浮かべた彼女が七瀬だ。
「七瀬さんか……たしかに、運動は苦手そうだもんね」
西条が顎に手を添えた。それからしばらく逡巡して、やがてハッと顔を上げた。
「どうした?」
「ごめん。少し待ってて」
西条は駆け出し、七瀬の元に向かった。……何か嫌な胸騒ぎがする。
短い会話の後、西条が七瀬の手を引いて戻って来た。俺は七瀬とは一度も話したことがないので、どこか気まずい空気になる。だが西条はお構いなしに口を開いた。
「ごめんけど、今から縄を回してくれない?」
「はい?」
俺はポカンと口を開けた。しかし西条が急かすので、休憩中の笹原を呼んで言う通りに縄を握った。西条は「見ててね」と七瀬に言うと、一人で縄の真横に立った。
「久保くん、お願い」
「は、はあ」
俺は縄を回し始めた。それに合わせて西条がジャンプする。縄が地面を叩く音と、西条の靴音が重なって心地良いリズムを響かせる。そうしてしばらく跳び続けて、不意に西条が声を発した。
「こうやって、跳ぶのよ、どう?、七瀬さん、わかった?」
リズム良く跳ねながら、西条が横目を動かした。俺たちの様子を茫然と見つめていた七瀬は、「えっ」と困惑を浮かべる。どうやら手本を見せているつもりだったらしい。
「あいつら、何やってんだ」
「休憩時間に練習とか、ガチすぎだろ」
やがて俺たちの姿に気付いた生徒が、一人、また一人と足を止める。徐々に増えていく視線に、七瀬の顔色がみるみる悪くなる。
「久保くん、一旦止めて」
西条がジャンプをやめた。俺は縄を降ろして周囲に首を巡らせる。結構な数の生徒が俺たちを見ていた。
「じゃあ七瀬さん。次はあなたが跳んでみましょうか」
「え……」
西条の発言に、七瀬の表情が凍り付いた。まさかコイツ、こんな衆人環視の中、七瀬を跳ばせる気か?
「おい西条。それは流石に可哀想だろ」
「え?可哀想って、七瀬さんが?」
「他に誰がいるんだよ」
俺は呆れて溜息を吐く。視線を下げると、今にも泣き出しそうな七瀬と目が合った。
「七瀬さん。これはあなたが、自分の殻を破るチャンスなのよ」
西条が地面に膝を突き、勇気づけるように言った。突然迫られ、七瀬は動揺で目を揺らす。
「七瀬。無理しなくていいぞ。嫌なことは嫌ってハッキリ言え」
俺も口調が強くなる。心のどこかで西条のやり方を認めたくない気持ちがあった。
「あの……私は……その……」
七瀬の声が震え出す。俺たちの周りには大勢の人だかりが出来ていた。
「七瀬さん!勇気を出して!」
「だから、そういう綺麗事はやめろって…」
俺が西条に向かって声を張り上げた瞬間。
七瀬の瞳から、ぽたぽたと涙が落ちた。俺も西条も、「あっ」と目を丸めた。ヒートアップしていた脳が急激に冷めていく。
「七瀬さん!ごめんなさい、私……」
「体育祭なんて、もう嫌……!」
だっ、と七瀬が駆け出した。今度ばかりは西条も後を追えず、茫然とその場に立ち尽くした。葬儀の後のような沈黙が降りる。頭の中が真っ白だった。
「……西条さん、サイテー」
どこからか、棘々しい声がした。それを皮切りに、周囲から非難が漏れ出す。
「苦手な人にわざわざ無理強いすることないよね」
「さすがに泣かせるのはヤバいっしょ」
「てか、ウチらそもそも優勝とか目指してなくない?」
「一人で熱血ぶってるのキモイ」
容赦ない罵詈雑言が飛び交う。俺は思わず耳を塞ぎたくなった。
「そ、そんな!私はただ、少しでも体育祭を良い思い出にしようって……」
「ふっ。その思い出を壊してる張本人がウケる」
女子の一人が呟いた。すると辺りで笑い声が起きる。西条の顔に絶望が差した。
「西条……」
俺は膝を突いたままの彼女を見た。声を掛けようにも、何を言えば良いのか分からない。
その時、授業開始のチャイムが鳴った。西条が小さく首を振って立ち上がる。
「私、七瀬さんに謝らなきゃ……」
そう言って、西条は校舎の方に向かって走り出した。クラスメイトたちは、まるで西条の存在など忘れたように各々ではしゃいでいた。

