「二十八……二十九……三十っ‼」
 ダアン!と鞭のような縄が地面を叩いた。砂埃が舞い、立ち止まった生徒たちが一斉に顔を見合わせる。
 「……すごいわみんな、最多記録よ!」
 俺の真ん前に立つ西条が叫んだ。次の瞬間、達成感に満ちた歓声がクラスを包んだ。俺は安堵の息を吐き、縄を持っていない方の手で汗を拭った。今日一日で、大繩の回数もクラスの雰囲気も飛躍的に改善した。
 「大成長だな」
 目の前で髪を結び直す西条に声を掛けた。彼女は跳びやすい縄の中央を、七瀬などの運動が苦手な生徒に譲った。代わりに今は、ちょうど俺の真ん前である端の方に移っていた。
 「ええ!やっぱり力を合わせればこれくらい楽勝よ!」
 西条は満面の笑みで飛び跳ねた。まだ体力は有り余っているらしい。
 「何浮かれてんだテメエら!ラストいくぞ!」
 と、喜ぶ生徒たちの後ろで怒号が響き渡った。すると今まではしゃいでいたみんなの顔から笑みが消える。
 「まあまあ上垣。今日はもう切り上げていいんじゃないか」
 「何言ってんすか先生。この程度で満足してちゃダメっすよ」
 矢野先生の言葉を跳ね除け、上垣がグッと縄を握り締めた。生徒たちが一様に肩を落とす。
 「上垣くん、先生の言う通りだわ。みんな疲れてるし、記録を更新した今の感覚を残しておいた方が、明日の練習も気持ち良く迎えられるわ」
 西条からも言われ、上垣はガシガシと頭を掻く。
 「……わかったよ。今日はもう終わりだ」
 上垣が縄を投げ捨てる。生徒たちは笑顔を取り戻した。
 「ふぅ。助かったよ西条」
 「まあ私一人なら、まだ全然跳べるけどね」
 心の底から感謝する俺に、西条は少し物足りなさそうな顔を見せた。マジでお前らスタミナどうなってんの……
 「おい久保」
 乱暴に名前を呼ばれた。見ると、上垣がのしのしと近づいてきていた。
 「な、なんだよ」
 「どうだ?俺、回すの速すぎやしねぇか?」
 軽く驚いた。実は今日、ついに笹原が回し手をギブアップしたので、代わりに腕力のある上垣とチェンジした。結果的にそれが上手くハマって、今日の記録更新に一役買うことになった。
 「大丈夫だ。むしろ、笹原の時より回しやすかった」
 「私も、ちょうど良いペースだったと思うわ」
 俺に続いて、西条が笑顔で言った。すると上垣は鼻を鳴らして、
 「この俺が回してんだから当然だろ。バカか」
 「バッ……ちょっと!今の流れで悪口言う⁉普通⁉」
 西条が困惑と怒りを露わにした。
 「どんな流れだろうと、俺は悪口を言うぞ。なんせお前が嫌いだからな」
 「か、勝手に言ってなさい!悪口は泥棒の始まりなんだから!」
 「やめろ上垣。西条も西条で、勝手にことわざをアレンジすんな……」
 俺が仲裁に入ると、二人ともフン!と顔を逸らした。一時的な協力はしても、やはり二人は犬猿の仲らしい。
 「まったく……どうしてあなたが手を貸す気になったのか、永遠の謎ね」
 西条が腕を組んで言った。すると上垣が眉をひそめた。
 「あ?お前知らねえのか?昨日、俺は久保から…」
 「!上垣、ちょっと来い!」
 俺は上垣のデカい体を押して、西条から距離を取った。
 「何だよいきなり?」
 「いやその……俺がお前を説得したことは、西条には言わないでくれ」
 俺は後ろを確認しながら囁いた。西条が不思議そうな目でこちらを見ている。
 「なんでだよ?まさかお前、照れてんのか?」
 「照れっ……ちげーよ!そうじゃない!」
 俺は必死に否定した。別に照れてるわけじゃない。俺はただ、西条が自分の力でクラスを立て直したという体にしたいだけだ。その方が西条に余計な気を遣われないで済むし、俺もそっちの方が楽だ。
 「ふーん……ま、久保がそう言うなら黙っててやるよ」
 「恩に着る」
 俺は両手を合わせた。上垣は腑に落ちない様子だったが、やがてデカい欠伸をしてその場を去った。多くの生徒がそうするように、教室に引き上げるのだろう。
 「何の話をしてたの?」
 「わっ!」
 振り向くと、目の前に西条の綺麗な顔があった。俺は驚いて叫んでしまう。
 「何よ。そんなにビックリしなくても」
 「いや、するだろ」
 そりゃあ、これだけの美人を間近で見たら驚く。
 「……久保くん」
 ふっ、と西条が横目を向いた。滑らかな頬に朱が差す。
 「なんだよ?」
 「その……あなたに、今一度お礼が言いたくて」
 睫毛を伏せながら言う西条に、思わずドキリとした。
 「な、なんの礼だよ」
 「一昨日、あなたが私のダメな部分を指摘してくれたことよ。あれから私、自分を見つめ直したの。それで私なりに体育祭に対する姿勢を変えてみて……昨日は全然ダメで、ああ、やっぱりドラマみたいに上手くはいかないんだなって思った。だけど今日、上垣くんが参加してくれて、みんなで練習できて、それで……」
 西条の顔がバッと上がる。
 「これも全部、久保くんが指摘してくれたおかげよ。本当に、ありがとう」
 揺れる瞳が見つめてくる。必死に感謝を伝えようとする西条は、なぜか少女のように幼く見えた。多分、それほど純粋な眼差しだったのだろう。
 「べ、別に感謝されたくて言ったんじゃねーよ」
 頭がボーッとする。胸の辺りが妙に熱かった。
 「久保くん」
 「……まだ何か?」
 俺はゆっくりと視線を上げる。するとそこにいたのは、さっきまでの甘やかな西条ではなく――
 「今度こそ目指すわよ、優勝」
 不敵に笑う、いつもの西条だった。
 「……お手柔らかにな」
 俺は溜息を吐き、黄昏に染まる空を見やった。体育祭まで、残すところ三日だった。