「上垣」
 放課後。制服に着替えた俺は、西日の差す廊下でそいつを呼び止めた。
 「あ?なんだよ久保」
 同じく制服姿の上垣が、面倒そうに振り向いた。威圧的な視線に思わず足が竦む。
 「単刀直入に言う。体育祭の練習に参加してくれないか」
 「……は?何言ってんだテメエ」
 上垣は不審げに眉をひそめた。俺は恐怖に抗うように必死で拳を握っていた。
 ったく。俺は一体何をしてる。七瀬の言葉に感化されたか?それとも西条に同情を引かれたか?とにかく、自分でも分からないうちに上垣に話しかけていた。
 「西条に頼まれたかなんか知らねぇが、説得しようったって無駄だぞ」
 「アイツに頼まれたわけじゃない。今の状態のクラスをまとめるには、上垣の存在が不可欠だ。そう俺が判断した」
 俺の言葉に、上垣はチッと舌を鳴らす。
 「お前、体育祭なんかにマジになるガラかよ?」
 「……っ」
 その質問は核心を突いていた。上垣の言う通り、俺はそんな熱血じゃない。体育祭に限らず、およそ学校行事というものに興味も関心もない。その気持ちは今でも同じだ。
 ただ、このまま傍観を続けては後味の悪い結末を迎える気がする。何の確証もないが、脳がしきりにそう叫んでいた。
 「まさかお前、西条を気に掛けてんのか?」
 「……えっ?」
 間の抜けた声が出た。すると上垣がフンと鼻を鳴らした。
 「図星かよ。まあ見てくれは良いもんな、アイツ」
 「な、何勝手に決めつけてんだよ」
 俺は熱くなった顔で上垣を睨んだ。違う。本当にそういうのじゃない。
 「だったら何だよ。言っとくけどな、俺は今怪我してて…」
 「上垣。お前が最後に部活に行ったのはいつだ?」
 俺が放った言葉に、上垣の表情が固まる。薄暗い廊下に静寂が訪れた。
 「……んなもん、もう忘れたよ」
 「忘れた?つまりそれだけ前ってことか。そんなに大怪我なのか、拳」
 俺の視線から逃れるように、上垣は自分の右手をポケットに隠した。それから追い詰められた狼のような目で俺を睨み付けた。
 「それとこれと、何の関係があんだよ。ああ?」
 「関係ならある。お前はいつだって前向きな西条が羨ましいんだ」
 上垣がハッと呼吸を止める。やっぱりだ。俺の推測は当たってた。
 「アイツが……羨ましい?」
 「そうだ。お前は一度ボクシングで挫折して、そこから立ち直れずにいる。だけどお前の視界には、どれだけ周りに相手にされずとも、折れることなく前向きに生きてるヤツが映る。そいつが西条だ」
 西条はバカだ。どこまでだって自分の望む物語を追い求める大バカだ。そんな彼女の姿が、物語を途中で閉じてしまった上垣には、どうしようもなく眩しく映るのだろう。
 「ガタガタうるせーよ!分かった気になって語りやがって!」
 胸倉を思い切り掴まれた。ぐわんと脳が揺れたと思ったら、上垣の顔が目の前にあった。激しく引かれた制服の襟が、プチプチと音を立てる。上垣が鬼気迫る顔で言った。
 「優勝が掛かった、大事な試合だった。親もコーチも応援してくれた。なのに、試合中拳を痛めて、パンチが打てなくなって……それで負けたんだ!てめぇなんかに、その時の俺の気持ちが分かんのかよ⁉」
 「分かるわけ……ねーだろ……分からないから、対話が必要なんだろ……拒絶じゃなくて」
 喉の奥から絞り出した言葉に、上垣の目の色が変わった。直後、上垣の手がやっと襟元を離した。俺はその場にくずおれ、ゴホゴホと咳き込む。あと一秒遅かったら窒息死してた。
 「……マジであの女、目障りで仕方なかったぜ」
 上垣が呟いた。俺はやっと息を整えて立ち上がる。
 「しょうもねえ綺麗事ばっか謳って、それを他人に押し付けて……」
 「そこに関しては、本人も反省したみたいだぞ」
 俺がフォローを入れると、上垣は憎々しげに舌打ちした。
 「知ってらぁ。さっき窓から覗いたら、大繩やってんのお前らだけだったからな。他の連中は遊び呆けてて、こりゃなんか変化があったんかなって」
 なんだコイツ。堂々と練習はサボるくせに、俺たちのこと気にしてたのか。
 「ざまあみろだぜ。結局アイツはまともに支持されてなかった。あの調子じゃクラスは崩壊も同然だ」
 上垣が吐き捨てた。俺はその言い草にイラッと来る。
 「まだそうとは限らねえだろ。そうならないために、俺はお前を…」
 その時。上垣が何かに呆れるような笑みを見せた。
 「だけどアイツ、挫けてはなかったな。たしかに浮かないツラはしてたけどよ」
 「……そうだな」
 上垣の表情は、いつになく柔らかかった。俺の胸を締め付けていた緊張がするりと解けていく。窓から差す陽光が暖かかった。
 「やってやるよ、体育祭」
 上垣が顔を上げた。斜めに差し込んだ西日で、その表情は輝いて見えた。
 「……いいのか?本当に」
 「てめぇから頼んできて、何驚いてんだ。それに、俺の第一目標はボクシングに復帰することだ。あくまで体育祭は、そのためのリハビリだ」
 強面を張り付けたまま話す上垣に、俺は頬を自然に緩ませた。
 「おい、何笑ってんだ」
 「いや。あれだけ強く胸倉を掴めるんだから、リハビリなんていらないだろって」
 適当に誤魔化すと、上垣は舌打ちして右拳を振り上げた。ほら、やっぱリハビリなんていらな……って流石に殴るのは勘弁しろ!