新歓公演の一日前、部室で綺羅さんと別れた後。久遠くんと私は演劇部の部室に残り、脚本の読み合わせを行っていた。
久遠くんは既に頭に入れているという脚本について、改めて話す。
「つまり、この脚本の構造は、ロミオもジュリエットもマーキューシオも、この主人公――橘さんの内面から生まれた人物。僕が三役を演じ分ければいい」
「ううん、正確には四役だよ。久遠くんには、私を演じてもらう」
「……橘さんを?」
彼は顔を上げて、少し驚いたように私を見る。
「そう。物語の最後で橘は気づいてるよね。彼らは誰かじゃなくて、私そのものだったんだって。だから最後のシーンでは、橘役を私から久遠くんへ切り替える」
「……入れ替えるタイミングは、僕がマーキューシオを演じた後?」
「うん。橘とマーキューシオとのやり取りを終えたら、私たちは二人で一度スポットから外れる。久遠くんスポットの外で、用意していた私のもう一着の服を羽織って、橘として戻ってくる。スポットから出た瞬間に、私と久遠くんの橘役が入れ替わる。それで、観客には入れ替わりに気づかれないようにしたいの」
「それで、顔を隠すためのパーカー服という私服設定ね。……そうか。その後に、僕がこれまでの三役を再び演じ分ける。ロミオたちが橘さんから生じた人物という回答を観客に与える……ということ」
「うん。それがこの脚本の仕掛けだから」
「でも、問題が一つある」
「……うん」
私もそれには気づいている。
「僕への負担が尋常でなく大きいこと」
「……うん、そうだね。一人四役だから」
素直に頷く。でも私は、これを思いついてしまった。この尋常ではなくハードルの高く、久遠くん頼りになってしまうこの脚本を。
「無茶言う。上演は明日なんでしょう?」
「……やっぱり、難しいかな?」
私が言うと、久遠くんはふっと立ち上がった。椅子を押しのけ、背筋をぐにゃっと曲げる。そこに立っているのは、私だった。
「が、頑張ってみる……」
――私の声だった。
私の仕草、私の台詞回し、私の癖。
目の前にいるのは間違いなく久遠くんなのに、そこに橘がいる。
「す、すごい……!」
私は確信していた。
久遠くんなら、脚本を私の頭にあるイメージのまま、いやイメージ以上のものを舞台に再現してくれると。
そして昨日のその目論見は、完全に成功した。
私たちが舞台袖に下がっても、拍手は続いていた。
(すごい……すごいすごいすごい!)
身体中を血が巡っている。顔が火照ってたまらなかった。
目の前の久遠くんに、私は迫っていた。
「すっ、すっごいよ、久遠くん! 最高だった! 私の想像なんか全部軽く超えてきた! 久遠くんは本当にすごい役者だよ! 久遠くんに演じてもらってよかった!」
抑えていた感情が溢れ出して止まらない。
「……ちょっと、近いんだけれど」
「わ! ご、ごめんなさい……!」
私が慌てて身体を離すと、久遠くんは少しだけ笑った。
「いい、別に。それに……礼を言うのは僕の方。人生最後の舞台で、素晴らしい役を演じさせてもらってありがとう」
「……人生最後?」
「言っただろう。僕の罹患している虚構症候群の完治は見込めない。もう二度と、僕は舞台に立つつもりはないよ」
「演劇部に入って、久遠くん」
反射的に私は言っていた。
考えたものじゃない。胸の内から溢れ出した言葉だった。
言った瞬間、久遠くんの表情が険しくなる。
「……しつこい」
冷たく切り捨てるような口調だった。
「演劇部の存続なら心配いらないでしょう? 今回の公演で十分に存在感は示せた。例え部希望者がいなくたって、綺羅さんは演劇部を廃部にできないと思う」
「ち、違う久遠くん。何度も言っているけれど、私は、あなたと演劇がしたいの」
久遠くんは俯き、何も喋らない。
「楽しかったでしょ、演劇が好きなんでしょ。じゃあ、やろうよ私と一緒に! 病気がどうなんて関係な――」
「関係ないわけ、ない!」
久遠くんが怒鳴るように叫んだ。
私を殺すような勢いで見つめている。
「僕の病気の何を知ってる? 虚構症候群に罹患した僕は、みんなの記憶からも消えていく。今日の舞台に立った僕だって、何年後かには完全に忘れられている。そんな中で演劇をする意味なんてない!」
吐き捨てるように言って、久遠くんは背を向けた。
「久遠くん、待って!」
「もう、話しかけないでくれ」
久遠くんが、舞台袖控室の扉を開けて、講堂の客席側へと出た瞬間だった。観客が久遠くんを見て、わっと再び拍手が起こった。
舞台の上では次の部活、映画研究会が準備を始めているというのに、生徒たちの目は久遠くんを追い続けていた。先ほどの熱はまだ冷め切っていない。
(……!)
拍手の圧を、私は肌で感じ取っていた。
時に、拍手は口よりも雄弁だ。演劇に限ったことではないけれど、拍手の大きさは、観客の満足度に直結する。優れた作品には大きな拍手が起こり、実際に結果を残す。お世辞の拍手とは違う。これは、観客を興奮させた本物の拍手だ。
久遠くんは戸惑うように立ち止まり、会場を見渡す。彼は客席にほんの少し頭を下げて、それから講堂を抜けて行った。私もその後を追う。
廊下は、さっきまでの熱気が嘘のように静まり返っていた。
「久遠くん、ごめん……」
背を向けた彼に対し、私は言う。
「ごめん……分かったみたいなことを言って。傷つけてるよね。でも、私それでもやっぱり、久遠くんを誘いたかった」
「……ふざけないでくれ」
背を向けたまま、久遠くんは言う。
「僕がこの病気に罹ってから、どれだけ悩んだのか――」
久遠くんが俯き、身体を震わせる。
「ねえ久遠くん。私、忘れられない景色があるの」
「……なんのこと?」
久遠くんは、ゆっくりと私を振り向いた。
「小学生の頃に、クラス別でやる学芸会があったんだ」
私はぽつりと語りはじめる。
当時、家族と一緒に東京へ観に行った演劇が、衝撃的に面白かった。あの劇のストーリーと役者は、今でも鮮明に覚えている。
あんな演劇を、私も作ってみたい。そう思って学芸会で、主演級の役を演じることになった。でも当時の私は……いや今もそうだけれど、人前で話すのが苦手だった。全くうまく演じることができず、結局、その役は途中で他の子に交代。
私が任されたのは「脚本アレンジ係」。ベースとなったのは既存の昔話で、それをアレンジする役目。
でも、人前では喋れないけれど不思議なことに、脚本を書くことはすらすらとできた。私の頭にしかなかった妄想が、物語という明確な形となってこの世界に現れ、それがクラスメイトを――ひいては観客を動かしていく。
全校生徒と保護者達の前での上演。
そして、体育館に響く万雷の拍手。
きっとあれが、私の人生初の成功体験だった。自分が生み出した物語が他人の心を震わせる。その喜びは志望校に合格したりだとか――そんなものが下らないと思えるくらいにずっと強い。あの時の、脳から汁が吹き出そうな快感。
あの景色を味わい続けるために、私は舞台に立っている。
きっと久遠くんにも、彼だけの舞台に立ちたい理由がある。理由は分からないけれど、それでも、確信をもって言えることがある。
「久遠くん、演劇が大好きだよね」
二日前の空き教室でのエチュード。さっきの新歓公演。久遠くんの姿は眩しく輝いていた。舞台の上で生き生きしていた久遠くんが、演劇を嫌いなわけがない。
「私は久遠くんともっと舞台を作りたいし、もっと演じる姿を見たいよ」
久遠くんが、ばっと振り向いた。
「僕だって――」
凛々しい久遠くんの顔は、今にも泣き崩れそうだ。
「僕だって、橘さんと一緒にやりたかった! でも、駄目。僕の演技は、皆の記憶から忘れられていく。忘れられるための演技なんて、僕は絶対にやりたくない……」
「……ねえ、久遠くん。綾瀬凛花《あやせりんか》って知ってる?」
彼はこくりと頷いた。
「……もちろん知ってる。僕も医者からよく聞いた。世界で初めて虚構症候群症例が医学的時事緒として認定された患者」
「私も少し調べてみたの。虚構症候群……自分の記憶が周囲から失われていく、世にも珍しい病気。例えその人が、どんなに有名人であっても」
綾瀬凛花のケースがいい例だ。有名人である彼女は、スタジオで皆に忘れられた。
でも、調べる中で、私は幾つかの例外的なエピソードを発見していた。
「虚構症候群に纏わる患者で、人の記憶から失われなかった事例もあるの。特に、綾瀬凛花の話とか。末期症状の彼女はテレビの生放送に出演した。彼女に纏わる記憶は失われちゃったけど、そのテレビ出演したシーンの記憶は皆から消えなかった。虚構症候群はテレビとか媒体を通した映像でも、記憶に作用するはずなのに。それはなぜか? 一説には、その映像があまりにも衝撃的で人々の心に強く残ったから」
久遠くんがはっと目を見開く。
「橘さん、君は――」
脳と記憶は人間のブラックボックス。だから虚構症候群は未だに謎多き病気だ。心に深く刻まれる鮮烈な記憶は、虚構症候群の影響を受けないと主張する研究者もいるらしい。
「久遠くん、私はあなたとの演劇を、皆の記憶に強くしたい」
誰もが絶対に忘れないような演劇を上演し、それを心に刻みつける。そうすればきっと綾瀬凛花の時と同じで、誰もが久遠くんを忘れない。
「……無理だよ」
「無理じゃない。だって私は演劇の力を信じてる。私は、小学生の時に初めて観た演劇を昨日のことみたいに覚えてる。心に強く刻まれた演劇は絶対忘れない!」
久遠くんの瞳に、かすかな光が灯った気がした。
「久遠くんと私で一緒に作り上げようよ」
「……簡単なことじゃない」
「でも不可能じゃない! 私たちなら!」
私は思い描く。
全国の舞台――舞台の中央に久遠くんが立ち、私の脚本を演じ、全ての聴衆がそれに目を惹かれる未来。その時に味わうのは、今日の比ではないくらいの快感だ。
久遠くんはしばらく黙っていたけれど、やがて背を向けて歩き出した。
「もう帰る。病院に行く必要があるから」
「……く、久遠くん」
階段に足をかけかけて、彼は立ち止まり、こちらを振り返った。
「あ、橘さん。一つ教えてほしいんだけれど――僕は毎週、何曜日に部室に行けばいいの?」
「……!」
その瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
こみ上げてくる喜びをこらえ、大きく息を吸って言う。
「毎日!」
久遠くんは既に頭に入れているという脚本について、改めて話す。
「つまり、この脚本の構造は、ロミオもジュリエットもマーキューシオも、この主人公――橘さんの内面から生まれた人物。僕が三役を演じ分ければいい」
「ううん、正確には四役だよ。久遠くんには、私を演じてもらう」
「……橘さんを?」
彼は顔を上げて、少し驚いたように私を見る。
「そう。物語の最後で橘は気づいてるよね。彼らは誰かじゃなくて、私そのものだったんだって。だから最後のシーンでは、橘役を私から久遠くんへ切り替える」
「……入れ替えるタイミングは、僕がマーキューシオを演じた後?」
「うん。橘とマーキューシオとのやり取りを終えたら、私たちは二人で一度スポットから外れる。久遠くんスポットの外で、用意していた私のもう一着の服を羽織って、橘として戻ってくる。スポットから出た瞬間に、私と久遠くんの橘役が入れ替わる。それで、観客には入れ替わりに気づかれないようにしたいの」
「それで、顔を隠すためのパーカー服という私服設定ね。……そうか。その後に、僕がこれまでの三役を再び演じ分ける。ロミオたちが橘さんから生じた人物という回答を観客に与える……ということ」
「うん。それがこの脚本の仕掛けだから」
「でも、問題が一つある」
「……うん」
私もそれには気づいている。
「僕への負担が尋常でなく大きいこと」
「……うん、そうだね。一人四役だから」
素直に頷く。でも私は、これを思いついてしまった。この尋常ではなくハードルの高く、久遠くん頼りになってしまうこの脚本を。
「無茶言う。上演は明日なんでしょう?」
「……やっぱり、難しいかな?」
私が言うと、久遠くんはふっと立ち上がった。椅子を押しのけ、背筋をぐにゃっと曲げる。そこに立っているのは、私だった。
「が、頑張ってみる……」
――私の声だった。
私の仕草、私の台詞回し、私の癖。
目の前にいるのは間違いなく久遠くんなのに、そこに橘がいる。
「す、すごい……!」
私は確信していた。
久遠くんなら、脚本を私の頭にあるイメージのまま、いやイメージ以上のものを舞台に再現してくれると。
そして昨日のその目論見は、完全に成功した。
私たちが舞台袖に下がっても、拍手は続いていた。
(すごい……すごいすごいすごい!)
身体中を血が巡っている。顔が火照ってたまらなかった。
目の前の久遠くんに、私は迫っていた。
「すっ、すっごいよ、久遠くん! 最高だった! 私の想像なんか全部軽く超えてきた! 久遠くんは本当にすごい役者だよ! 久遠くんに演じてもらってよかった!」
抑えていた感情が溢れ出して止まらない。
「……ちょっと、近いんだけれど」
「わ! ご、ごめんなさい……!」
私が慌てて身体を離すと、久遠くんは少しだけ笑った。
「いい、別に。それに……礼を言うのは僕の方。人生最後の舞台で、素晴らしい役を演じさせてもらってありがとう」
「……人生最後?」
「言っただろう。僕の罹患している虚構症候群の完治は見込めない。もう二度と、僕は舞台に立つつもりはないよ」
「演劇部に入って、久遠くん」
反射的に私は言っていた。
考えたものじゃない。胸の内から溢れ出した言葉だった。
言った瞬間、久遠くんの表情が険しくなる。
「……しつこい」
冷たく切り捨てるような口調だった。
「演劇部の存続なら心配いらないでしょう? 今回の公演で十分に存在感は示せた。例え部希望者がいなくたって、綺羅さんは演劇部を廃部にできないと思う」
「ち、違う久遠くん。何度も言っているけれど、私は、あなたと演劇がしたいの」
久遠くんは俯き、何も喋らない。
「楽しかったでしょ、演劇が好きなんでしょ。じゃあ、やろうよ私と一緒に! 病気がどうなんて関係な――」
「関係ないわけ、ない!」
久遠くんが怒鳴るように叫んだ。
私を殺すような勢いで見つめている。
「僕の病気の何を知ってる? 虚構症候群に罹患した僕は、みんなの記憶からも消えていく。今日の舞台に立った僕だって、何年後かには完全に忘れられている。そんな中で演劇をする意味なんてない!」
吐き捨てるように言って、久遠くんは背を向けた。
「久遠くん、待って!」
「もう、話しかけないでくれ」
久遠くんが、舞台袖控室の扉を開けて、講堂の客席側へと出た瞬間だった。観客が久遠くんを見て、わっと再び拍手が起こった。
舞台の上では次の部活、映画研究会が準備を始めているというのに、生徒たちの目は久遠くんを追い続けていた。先ほどの熱はまだ冷め切っていない。
(……!)
拍手の圧を、私は肌で感じ取っていた。
時に、拍手は口よりも雄弁だ。演劇に限ったことではないけれど、拍手の大きさは、観客の満足度に直結する。優れた作品には大きな拍手が起こり、実際に結果を残す。お世辞の拍手とは違う。これは、観客を興奮させた本物の拍手だ。
久遠くんは戸惑うように立ち止まり、会場を見渡す。彼は客席にほんの少し頭を下げて、それから講堂を抜けて行った。私もその後を追う。
廊下は、さっきまでの熱気が嘘のように静まり返っていた。
「久遠くん、ごめん……」
背を向けた彼に対し、私は言う。
「ごめん……分かったみたいなことを言って。傷つけてるよね。でも、私それでもやっぱり、久遠くんを誘いたかった」
「……ふざけないでくれ」
背を向けたまま、久遠くんは言う。
「僕がこの病気に罹ってから、どれだけ悩んだのか――」
久遠くんが俯き、身体を震わせる。
「ねえ久遠くん。私、忘れられない景色があるの」
「……なんのこと?」
久遠くんは、ゆっくりと私を振り向いた。
「小学生の頃に、クラス別でやる学芸会があったんだ」
私はぽつりと語りはじめる。
当時、家族と一緒に東京へ観に行った演劇が、衝撃的に面白かった。あの劇のストーリーと役者は、今でも鮮明に覚えている。
あんな演劇を、私も作ってみたい。そう思って学芸会で、主演級の役を演じることになった。でも当時の私は……いや今もそうだけれど、人前で話すのが苦手だった。全くうまく演じることができず、結局、その役は途中で他の子に交代。
私が任されたのは「脚本アレンジ係」。ベースとなったのは既存の昔話で、それをアレンジする役目。
でも、人前では喋れないけれど不思議なことに、脚本を書くことはすらすらとできた。私の頭にしかなかった妄想が、物語という明確な形となってこの世界に現れ、それがクラスメイトを――ひいては観客を動かしていく。
全校生徒と保護者達の前での上演。
そして、体育館に響く万雷の拍手。
きっとあれが、私の人生初の成功体験だった。自分が生み出した物語が他人の心を震わせる。その喜びは志望校に合格したりだとか――そんなものが下らないと思えるくらいにずっと強い。あの時の、脳から汁が吹き出そうな快感。
あの景色を味わい続けるために、私は舞台に立っている。
きっと久遠くんにも、彼だけの舞台に立ちたい理由がある。理由は分からないけれど、それでも、確信をもって言えることがある。
「久遠くん、演劇が大好きだよね」
二日前の空き教室でのエチュード。さっきの新歓公演。久遠くんの姿は眩しく輝いていた。舞台の上で生き生きしていた久遠くんが、演劇を嫌いなわけがない。
「私は久遠くんともっと舞台を作りたいし、もっと演じる姿を見たいよ」
久遠くんが、ばっと振り向いた。
「僕だって――」
凛々しい久遠くんの顔は、今にも泣き崩れそうだ。
「僕だって、橘さんと一緒にやりたかった! でも、駄目。僕の演技は、皆の記憶から忘れられていく。忘れられるための演技なんて、僕は絶対にやりたくない……」
「……ねえ、久遠くん。綾瀬凛花《あやせりんか》って知ってる?」
彼はこくりと頷いた。
「……もちろん知ってる。僕も医者からよく聞いた。世界で初めて虚構症候群症例が医学的時事緒として認定された患者」
「私も少し調べてみたの。虚構症候群……自分の記憶が周囲から失われていく、世にも珍しい病気。例えその人が、どんなに有名人であっても」
綾瀬凛花のケースがいい例だ。有名人である彼女は、スタジオで皆に忘れられた。
でも、調べる中で、私は幾つかの例外的なエピソードを発見していた。
「虚構症候群に纏わる患者で、人の記憶から失われなかった事例もあるの。特に、綾瀬凛花の話とか。末期症状の彼女はテレビの生放送に出演した。彼女に纏わる記憶は失われちゃったけど、そのテレビ出演したシーンの記憶は皆から消えなかった。虚構症候群はテレビとか媒体を通した映像でも、記憶に作用するはずなのに。それはなぜか? 一説には、その映像があまりにも衝撃的で人々の心に強く残ったから」
久遠くんがはっと目を見開く。
「橘さん、君は――」
脳と記憶は人間のブラックボックス。だから虚構症候群は未だに謎多き病気だ。心に深く刻まれる鮮烈な記憶は、虚構症候群の影響を受けないと主張する研究者もいるらしい。
「久遠くん、私はあなたとの演劇を、皆の記憶に強くしたい」
誰もが絶対に忘れないような演劇を上演し、それを心に刻みつける。そうすればきっと綾瀬凛花の時と同じで、誰もが久遠くんを忘れない。
「……無理だよ」
「無理じゃない。だって私は演劇の力を信じてる。私は、小学生の時に初めて観た演劇を昨日のことみたいに覚えてる。心に強く刻まれた演劇は絶対忘れない!」
久遠くんの瞳に、かすかな光が灯った気がした。
「久遠くんと私で一緒に作り上げようよ」
「……簡単なことじゃない」
「でも不可能じゃない! 私たちなら!」
私は思い描く。
全国の舞台――舞台の中央に久遠くんが立ち、私の脚本を演じ、全ての聴衆がそれに目を惹かれる未来。その時に味わうのは、今日の比ではないくらいの快感だ。
久遠くんはしばらく黙っていたけれど、やがて背を向けて歩き出した。
「もう帰る。病院に行く必要があるから」
「……く、久遠くん」
階段に足をかけかけて、彼は立ち止まり、こちらを振り返った。
「あ、橘さん。一つ教えてほしいんだけれど――僕は毎週、何曜日に部室に行けばいいの?」
「……!」
その瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
こみ上げてくる喜びをこらえ、大きく息を吸って言う。
「毎日!」
