文化部の紹介公演は、放課後、本校舎四階にある大講堂で行われる。
降ろしたての制服に身を包む新入生らは、クラスごとに前から座っている。後ろの席では、二年生と三年生が自由に観覧できるようになっている。
司会台で、生徒会副会長である綺羅もくめは手元のプログラムに目を落とす。
(一番目は吹奏楽部、演劇部は……二番目ですのね)
時間になると綺羅はマイクを手に取った。
「新入生の皆様、お待たせいたしました。それではただいまより、文化部紹介を行います。司会を務めますのは二年、生徒会副会長の綺羅もくめ」
公演は、限られた時間内で全クラブの紹介を済ませる必要がある。舞台転換の時間も短く、どの部活も演目を簡素にまとめてくるのが通例だ。
吹奏楽部もフルバンドではなく、少数精鋭が舞台に立つ。紹介の口上を並べたあとで、綺羅は前の席に座った。吹奏楽部の演奏に耳を澄ませる。洗練された音色を聞き、綺羅は満足げに微笑んだ。
(やはり優れた部を残し、そうでない部は切り捨てるのが繁栄への一歩ですわね。そもそもなにが演劇でしょう――くだらない)
率直な感想だった。
綺羅が中学の時、生徒向け行事として何度か観劇に連れて行かれたことがある。確か『ヴェニスの証人』と『ハムレット』だったか? 劇の内容はよく覚えていないが、観劇後の感想文を捻り出すのに苦労したことだけは覚えている。
(もっとも、何事もそつなくこなす私は、優れた感想文を出して教師からも褒められましたけれど)
くすりと綺羅は微笑む。
(あの橘さんという子も、早く部室を明け渡してしまえばいいのに)
この学園はもっと上を目指せる。より強くより洗練された「蒼穂学園」に――。それが、綺羅もくめが副会長として掲げる使命の一つだった。
ただ一つ気になることがあるとすれば――橘の横に立っていた男子だ。綺羅の名を知らず(ありえない!)、迫られても一切委縮していなかった、あの特異な男子。演劇部に属してはいないと思うが、恐らく出演するのだろう。
(どれほどの“お芝居”を見せてくれるのかしら)
もっとも大道具の持ち込みは禁止。何ができるわけでもないだろう。彼女らの劇を見て、下らないものと一笑に付してやる。プロの劇団でさえ心を惹かれなかった。ましてや学生演劇。見られたものではないはずだ。
吹奏楽部の演奏が終わると、会場をぱちぱちと拍手が包んだ。舞台上から楽器と譜面台が素早く運び出される。
演劇部準備のため、幕が一時的に閉じられる。
綺羅は、マイクを片手に立ち上がる。
「吹奏楽部の皆様、ありがとうございました。美しいハーモニーでしたわね。さあ、皆さま――お次は演劇部の皆さまです!」
綺羅は会場の新入生へと目を向けた。
「部員人数は、なんとお一人! ですが、情熱の籠った素晴らしい演劇を見せてくれることでしょう! さあ、それではお願いしますわ!」
満面の笑みを浮かべながら、内心では冷ややかに思う。
(枯れ花を活けてあげるのも、私の仕事ですわね)
照明が落とされて、講堂全体は真っ暗になる。非常口サインの緑色だけが、闇の中にぼんやりと輝いていた。
擦るような音を立てて、舞台幕がゆっくりと開く。
(さあ、雲散霧消なさい演劇部)
舞台中央――スポットライトの灯りが、一人の少女をぼんやりと照らしている。
グレーのパーカーを羽織り、深く被ったフードの下で顔は見えない。
彼女は学生机の上で頬杖を突き、うーんと唸っている。机の上には原稿用紙が広がっており、彼女は鉛筆で何かを書いては黙考している。やがて彼女は頭を抱えて大きく叫ぶと、原稿用紙をくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。
「ああ、駄目だ~。もう全然脚本できないよ! 文化祭公演まで、もう日にちがないのに!」
机から立ち上がり叫んだのは、言うまでもなく橘音葉だ。
(ふぅん……そういう感じね)
構成としてはごく単純なものだ。演劇の脚本、その創作に行き詰まる学生の部屋、という設定らしい。
(あるいは演じているというより、橘さん自身かしら? 現状に行き詰まっているところから発想したのね。まあ、よくある感じね)
しばらく唸っていた橘だが、ようやく書き上げる脚本に当たりを付けたらしい。彼女が高々と掲げたのは、『ロミオとジュリエット』の文庫本だ。
「うん、これならいけるはず。皆もきっと知ってるし! でも、どうしよう。部員は私だけだし。ロミオなんて役、女性の私には絶対に演じられない! ああ、どこかにロミオでも歩いていない限り……」
「やあやあやあ!」
凛とした声が、講堂の静寂を割って響く。橘の弱弱しい声音とは違う堂々たる声に、客席が少しざわめく。闇の中、かつかつと足音が響く。
やがて一人の人物が、舞台中央のライトに入ってきた。紺色の詰襟風ジャケット、黒のスキニーパンツ、腰には剣を差した、堂々とした立ち姿の青年。
(あの顔……昨日部室であった男子! 久遠さん、と言ったかしら? やはり出てきましたわね)
昨日会った際には、得体のしれない男子にしか見えなかった。だが今、舞台上の久遠は、気品漂う青年貴族そのものだ。
「だ、誰?」と橘が叫ぶ。
「やあ、僕が野生のロミオです」
「野生に生息しているものだったの、ロミオって!? っていうか、ここ私の部屋! あなた、どこから現れて……」
「失礼、お嬢さん。窓が開いていたものだから」
「不法侵入だよ! 紳士的に言ってもごまかせないよ!」
二人のやり取りに、客席から小さな笑い声が起こった。
普通の少女と、豪奢な貴族の身なりをしたロミオの軽快なやり取りが続く。
(いえ――)
綺羅は目を細めた。
よく見れば、久遠が纏っている衣装は安っぽい。恐らく演劇部の部室から適当に引っ張り出してきたものだ。けれど、舞台の上では、声音、歩き方、振る舞い――全てが彼をロミオ足らしめている。
「君の願いはこの僕が叶えよう。ロミオ役は、ロミオのこの僕へ任せたまえ!」
「いや、もう帰って~!」
橘が叫んで、ロミオをスポットライトの外へと押し出した。舞台の中央に一人取り残された橘は、はあっと息を吐く。
「なんだったの、今の不審な人。取り敢えず、ロミオはまた今度。先にジュリエット役を決めよう」
橘はうーんと首をひねる。
「あの聡明で、純真な、愛を信じる少女! 私なんかが彼女を演じるのは絶対無理だし。一体、誰なら彼女を演じられるかな……」
舞台袖から、こんと短く足音が鳴る。
スポットライトの中へと、ローブを纏った小柄な少女が現れた。
「あらあらあら!」
「だ、誰!?」
「お初にお目にかかります。野生のジュリエットです」
少女は柔らかい声で言い、客席へ向けて深く一礼する。
「ジュリエットも野生に!? っていうか、今度こそ鍵かけたはずなんだけど!?」
「こう、鍵をくいくいっと、させて頂きました」
「空き巣に手慣れてそうだよ!」
「困った人を放ってはおけません。ジュリエット役は、ジュリエットの私にお任せあれ!」
再び会場から笑い声。
そんな中、綺羅は一人顔を顰めていた。いや、やり取り自体は、綺羅も正直くすっと笑ってしまいそうだ。それよりも、不審なのは――。
(演技も上手いけれど……部員は二人だけじゃなかったの? 橘さんにロミオ役の久遠さん。じゃあ、このジュリエット役は――)
綺羅は、ローブの下のジュリエット役の顔を子細に見つめて、ようやく気づく。
(……違う! あれも久遠さん!?)
ローブの下の顔立ちは、確かに久遠だ。服装はよく見れば、先ほどのロミオの服の上からローブを羽織っただけ。橘が一人で演技している最中、スポットライトの外で髪をほどいて、着替えたのだろう。
(いや、服装というよりも――)
綺羅が驚いたのは彼の声音、表情、立ち振る舞い。声は柔らかく、歩き方も幼い少女のそれ。堂々たるロミオの演技とはかけ離れている。声も高く、女子が演じているとしか思えない。
(間近で見ている私だからこそ、辛うじて同一人物だと分かる……)
綺羅は、客席を見渡す。どよめきはない。違和感を抱いた様子もない。誰もがジュリエットを「新キャストの女子」だと思って見ているようだ。誰もロミオとジュリエットが同一人物であることに気づいていない。
(なんなのこれ? 一人二役を、しかも異性をこんなに高いレベルで――)
「もう帰って帰って~!」
橘がジュリエットの背中を押して、二人一緒にスポットライトの外へとはずれる。ややすると、フードを深く被った橘が、肩で息をしながら戻ってきた。
「なんだったの今の不審な人。取り敢えず……ジュリエットもまた今度! 次の配役を考えよう。そう、ロミオの親友であるマーキューシオも外せないよね。あの自由で奔放なムードメーカーを……」
「よおよおよお!」
陽気な声と共に闇から青年が現れると、客席の女子から笑い声が上がる。
ロミオとは一転、乱暴で軽妙な口調の青年だ。ロミオの親友であるマーキューシオ――彼に扮するのは、やはり久遠だった。雑に羽織ったシャツとスカーフ程度の小道具。にもかかわらず佇まいは別人。
「だからどこから入ってくるの!? 今度は二重にロックかけたのに!」
「始めからベッドの下にいたよ、俺は」
「怖い都市伝説でよくあるやつじゃん!?」
(やはり――)
客席は、マーキューシオがロミオたちのキャストと同一人物とは気づいていない。
(……見事ですわね、久遠さん)
素直に、綺羅は久遠の実力を認めた。
しかし、だからこそ、綺羅は嘲るように笑った。
(確かに久遠さん素晴らしい。その点は認めましょう。けれど橘さん、あなたは脚本でミスをしたのではなくて?)
ロミオとジュリエット、そしてマーキューシオ。久遠による一人三役は優れている。優れすぎているから、多役をこなしていることに綺羅しか気づけていない。
(観客からすれば、橘さんを含めて、これまで四人の役者が出てきただけ。演技が上手いだけの普通の舞台ですわ)
しかも、橘役の橘、その声音は弱弱しく、演技はおどおどしている。久遠と対比されて、それがよりはっきりとしている。
(この舞台ですごいのは久遠さんのみ。橘さん、あなたの演技も、そして脚本も、彼の足を引っ張っていますわよ)
橘とマーキューシオのやり取りが続く。
そして天丼として、最後にはお決まりのパターン。
「もう、本当に帰って帰って帰って~!」
橘が叫びながら、マーキューシオの背中を押す。一度。二人がスポットライトから退場した。ややして光が照らす中央へ、同じパーカー姿の橘が、息を切らしながら戻ってくる。
橘は俯きながら、ぽつりと呟く。
「本当に何なの、あの人たち。どこからか現れて急に……。はあ、もう。気を取り直して……。次の役、次の役……」
橘は『ロミオとジュリエット』の文庫本を捲くるが、手は急にぴたりと止まる。
「でも、あの人たちの演技……上手だったな。すごい生き生きとしてた……。それに比べて、私って……」
橘はフードの上から、両手でがしっと頭を抱えた。
「駄目だよ、私にはできない。何の役もできない。だって私、引っ込み思案だし。演技下手だし。こんな私にできる役なんて……」
綺羅はそれを笑いながら見ていた。
(なるほど、結局は橘さんが自己を顧みる物語ね……。予想の範囲内ですわ)
タイマーを見やれば時間は残りわずかだ。
綺羅はマイクを手に取り、いつでも自分が喋れるよう準備を始める。
と、そこで――。
「そんなことはないよ、君」
澄んだ声が響いた。あのロミオの堂々たる声色だ。
「え?」
橘が顔を上げて、舞台を見回す。だが先ほどとは違い、ロミオの足音は響かない。橘の周囲には闇が広がるばかり。
「何だってできるだろう、君なら」
その瞬間、綺羅の目は、無意識に見開かれていた。
舞台の中央に立つ「橘」の姿が、ふっと変わる。背筋が伸び、視線が上を向く。先ほどまでの控えめな佇まいからは考えられないほど、凛とした立ち姿。
そして、橘はフードを取る。
(……え?)
フードの下から現れた顔は、ロミオのものだった。服装も違いうけれど、その表情と姿勢と振る舞いすべてが、そこに立つのはロミオであるとはっきりと告げている。
「そうです。無限の可能性を持つ私たちは、何にだってなれるのよ」
ロミオの声色と表情が変わる。ジュリエットの、あの気高く優美なものへ。
「恐れることなんてない。やりたいことをやる、でいいんじゃねえのか?」
数秒と経たず、ジュリエットの姿は、陽気に奔放に、ロミオの親友マーキューシオの姿を帯びる。
服装は何も変わらないのに、ころころと姿が移り変わる。
波濤のようなざわめきが、客席に広がっていく。
そして、彼が再びフードをかぶり直す仕草のなかで、その姿は橘へと戻る。
「なんだ、そうだったんだ……」
あの慎ましく、内気な橘音葉へと。
(いや、違います。あれは――!)
綺羅は理解してしまった。
橘音葉ではない。舞台に立っているのは、橘音葉を演じる久遠透だ。ロミオを、ジュリエットを、マーキューシオを、そして橘――四役を同時に、演じている。
「始めから躊躇する必要なんてなかったんだね。どうりで不法侵入できるわけだよ。ロミオ、ジュリエット、マーキューシオ――皆、私の中にいたんだね」
そう語る橘は、さらに表情を変えていく。ティボルトのような敵意、ときにロレンス神父のような静寂――説明も名乗りもないのに、彼が別人へと変わっていく。
(……う、嘘でしょう?)
演劇に心を動かされた経験なんて、綺羅にはなかった。過去に観た舞台は退屈で、眠気が勝った。それなのに、今見ているものは、この心のざわつきは――。
つい昨日の、久遠とのやり取りが想起される。
――ごっこ遊びにしか見えませんもの。
――そのごっこで、僕たちは人の心を動かすんだ。
橘もとい、久遠は舞台の上で続ける。
「そう――舞台の上ならば私たちは、何にでもなれるのです」
中央に立つ久遠が言うと、ライトの外である闇から一人の人物が歩いてきた。フードを被った、本物の橘だ。彼女は久遠の横に立ち、喋り始める。
「演劇部では、共に演劇をできる部員を募集しています。未経験でももちろん歓迎します。衣装係や道具係など、少しでも演劇に関わりたいという人でも大丈夫です」
堂々とした声音だった。
綺羅は悟る。おどおどしていた橘の口調も、ちゃんと演じていたものなのだと。
「少しでもあなたの中に衝動があるならば、ぜひ入部をお願いします!」
橘と久遠が頭を下げた。
そして、すべてを包み込むように、スポットライトが消える。
ぱち、と。躊躇するかのように、客席から拍手の音が聞こえた。その拍手が次第に広がり、やがて全体を包み込み、轟音となる。
だが綺羅の手だけは、動かなかった。
(私……何を見せられたの……?)
演劇なんてくだらない。そう思っていたのに。今、心の底から否応なく湧き上がるこの感情に、彼女は震えていた。
隣の席から生徒会役員が「綺羅さん、司会進行……」と囁く。だがその声は、彼女の耳に全く届いていなかった。
降ろしたての制服に身を包む新入生らは、クラスごとに前から座っている。後ろの席では、二年生と三年生が自由に観覧できるようになっている。
司会台で、生徒会副会長である綺羅もくめは手元のプログラムに目を落とす。
(一番目は吹奏楽部、演劇部は……二番目ですのね)
時間になると綺羅はマイクを手に取った。
「新入生の皆様、お待たせいたしました。それではただいまより、文化部紹介を行います。司会を務めますのは二年、生徒会副会長の綺羅もくめ」
公演は、限られた時間内で全クラブの紹介を済ませる必要がある。舞台転換の時間も短く、どの部活も演目を簡素にまとめてくるのが通例だ。
吹奏楽部もフルバンドではなく、少数精鋭が舞台に立つ。紹介の口上を並べたあとで、綺羅は前の席に座った。吹奏楽部の演奏に耳を澄ませる。洗練された音色を聞き、綺羅は満足げに微笑んだ。
(やはり優れた部を残し、そうでない部は切り捨てるのが繁栄への一歩ですわね。そもそもなにが演劇でしょう――くだらない)
率直な感想だった。
綺羅が中学の時、生徒向け行事として何度か観劇に連れて行かれたことがある。確か『ヴェニスの証人』と『ハムレット』だったか? 劇の内容はよく覚えていないが、観劇後の感想文を捻り出すのに苦労したことだけは覚えている。
(もっとも、何事もそつなくこなす私は、優れた感想文を出して教師からも褒められましたけれど)
くすりと綺羅は微笑む。
(あの橘さんという子も、早く部室を明け渡してしまえばいいのに)
この学園はもっと上を目指せる。より強くより洗練された「蒼穂学園」に――。それが、綺羅もくめが副会長として掲げる使命の一つだった。
ただ一つ気になることがあるとすれば――橘の横に立っていた男子だ。綺羅の名を知らず(ありえない!)、迫られても一切委縮していなかった、あの特異な男子。演劇部に属してはいないと思うが、恐らく出演するのだろう。
(どれほどの“お芝居”を見せてくれるのかしら)
もっとも大道具の持ち込みは禁止。何ができるわけでもないだろう。彼女らの劇を見て、下らないものと一笑に付してやる。プロの劇団でさえ心を惹かれなかった。ましてや学生演劇。見られたものではないはずだ。
吹奏楽部の演奏が終わると、会場をぱちぱちと拍手が包んだ。舞台上から楽器と譜面台が素早く運び出される。
演劇部準備のため、幕が一時的に閉じられる。
綺羅は、マイクを片手に立ち上がる。
「吹奏楽部の皆様、ありがとうございました。美しいハーモニーでしたわね。さあ、皆さま――お次は演劇部の皆さまです!」
綺羅は会場の新入生へと目を向けた。
「部員人数は、なんとお一人! ですが、情熱の籠った素晴らしい演劇を見せてくれることでしょう! さあ、それではお願いしますわ!」
満面の笑みを浮かべながら、内心では冷ややかに思う。
(枯れ花を活けてあげるのも、私の仕事ですわね)
照明が落とされて、講堂全体は真っ暗になる。非常口サインの緑色だけが、闇の中にぼんやりと輝いていた。
擦るような音を立てて、舞台幕がゆっくりと開く。
(さあ、雲散霧消なさい演劇部)
舞台中央――スポットライトの灯りが、一人の少女をぼんやりと照らしている。
グレーのパーカーを羽織り、深く被ったフードの下で顔は見えない。
彼女は学生机の上で頬杖を突き、うーんと唸っている。机の上には原稿用紙が広がっており、彼女は鉛筆で何かを書いては黙考している。やがて彼女は頭を抱えて大きく叫ぶと、原稿用紙をくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。
「ああ、駄目だ~。もう全然脚本できないよ! 文化祭公演まで、もう日にちがないのに!」
机から立ち上がり叫んだのは、言うまでもなく橘音葉だ。
(ふぅん……そういう感じね)
構成としてはごく単純なものだ。演劇の脚本、その創作に行き詰まる学生の部屋、という設定らしい。
(あるいは演じているというより、橘さん自身かしら? 現状に行き詰まっているところから発想したのね。まあ、よくある感じね)
しばらく唸っていた橘だが、ようやく書き上げる脚本に当たりを付けたらしい。彼女が高々と掲げたのは、『ロミオとジュリエット』の文庫本だ。
「うん、これならいけるはず。皆もきっと知ってるし! でも、どうしよう。部員は私だけだし。ロミオなんて役、女性の私には絶対に演じられない! ああ、どこかにロミオでも歩いていない限り……」
「やあやあやあ!」
凛とした声が、講堂の静寂を割って響く。橘の弱弱しい声音とは違う堂々たる声に、客席が少しざわめく。闇の中、かつかつと足音が響く。
やがて一人の人物が、舞台中央のライトに入ってきた。紺色の詰襟風ジャケット、黒のスキニーパンツ、腰には剣を差した、堂々とした立ち姿の青年。
(あの顔……昨日部室であった男子! 久遠さん、と言ったかしら? やはり出てきましたわね)
昨日会った際には、得体のしれない男子にしか見えなかった。だが今、舞台上の久遠は、気品漂う青年貴族そのものだ。
「だ、誰?」と橘が叫ぶ。
「やあ、僕が野生のロミオです」
「野生に生息しているものだったの、ロミオって!? っていうか、ここ私の部屋! あなた、どこから現れて……」
「失礼、お嬢さん。窓が開いていたものだから」
「不法侵入だよ! 紳士的に言ってもごまかせないよ!」
二人のやり取りに、客席から小さな笑い声が起こった。
普通の少女と、豪奢な貴族の身なりをしたロミオの軽快なやり取りが続く。
(いえ――)
綺羅は目を細めた。
よく見れば、久遠が纏っている衣装は安っぽい。恐らく演劇部の部室から適当に引っ張り出してきたものだ。けれど、舞台の上では、声音、歩き方、振る舞い――全てが彼をロミオ足らしめている。
「君の願いはこの僕が叶えよう。ロミオ役は、ロミオのこの僕へ任せたまえ!」
「いや、もう帰って~!」
橘が叫んで、ロミオをスポットライトの外へと押し出した。舞台の中央に一人取り残された橘は、はあっと息を吐く。
「なんだったの、今の不審な人。取り敢えず、ロミオはまた今度。先にジュリエット役を決めよう」
橘はうーんと首をひねる。
「あの聡明で、純真な、愛を信じる少女! 私なんかが彼女を演じるのは絶対無理だし。一体、誰なら彼女を演じられるかな……」
舞台袖から、こんと短く足音が鳴る。
スポットライトの中へと、ローブを纏った小柄な少女が現れた。
「あらあらあら!」
「だ、誰!?」
「お初にお目にかかります。野生のジュリエットです」
少女は柔らかい声で言い、客席へ向けて深く一礼する。
「ジュリエットも野生に!? っていうか、今度こそ鍵かけたはずなんだけど!?」
「こう、鍵をくいくいっと、させて頂きました」
「空き巣に手慣れてそうだよ!」
「困った人を放ってはおけません。ジュリエット役は、ジュリエットの私にお任せあれ!」
再び会場から笑い声。
そんな中、綺羅は一人顔を顰めていた。いや、やり取り自体は、綺羅も正直くすっと笑ってしまいそうだ。それよりも、不審なのは――。
(演技も上手いけれど……部員は二人だけじゃなかったの? 橘さんにロミオ役の久遠さん。じゃあ、このジュリエット役は――)
綺羅は、ローブの下のジュリエット役の顔を子細に見つめて、ようやく気づく。
(……違う! あれも久遠さん!?)
ローブの下の顔立ちは、確かに久遠だ。服装はよく見れば、先ほどのロミオの服の上からローブを羽織っただけ。橘が一人で演技している最中、スポットライトの外で髪をほどいて、着替えたのだろう。
(いや、服装というよりも――)
綺羅が驚いたのは彼の声音、表情、立ち振る舞い。声は柔らかく、歩き方も幼い少女のそれ。堂々たるロミオの演技とはかけ離れている。声も高く、女子が演じているとしか思えない。
(間近で見ている私だからこそ、辛うじて同一人物だと分かる……)
綺羅は、客席を見渡す。どよめきはない。違和感を抱いた様子もない。誰もがジュリエットを「新キャストの女子」だと思って見ているようだ。誰もロミオとジュリエットが同一人物であることに気づいていない。
(なんなのこれ? 一人二役を、しかも異性をこんなに高いレベルで――)
「もう帰って帰って~!」
橘がジュリエットの背中を押して、二人一緒にスポットライトの外へとはずれる。ややすると、フードを深く被った橘が、肩で息をしながら戻ってきた。
「なんだったの今の不審な人。取り敢えず……ジュリエットもまた今度! 次の配役を考えよう。そう、ロミオの親友であるマーキューシオも外せないよね。あの自由で奔放なムードメーカーを……」
「よおよおよお!」
陽気な声と共に闇から青年が現れると、客席の女子から笑い声が上がる。
ロミオとは一転、乱暴で軽妙な口調の青年だ。ロミオの親友であるマーキューシオ――彼に扮するのは、やはり久遠だった。雑に羽織ったシャツとスカーフ程度の小道具。にもかかわらず佇まいは別人。
「だからどこから入ってくるの!? 今度は二重にロックかけたのに!」
「始めからベッドの下にいたよ、俺は」
「怖い都市伝説でよくあるやつじゃん!?」
(やはり――)
客席は、マーキューシオがロミオたちのキャストと同一人物とは気づいていない。
(……見事ですわね、久遠さん)
素直に、綺羅は久遠の実力を認めた。
しかし、だからこそ、綺羅は嘲るように笑った。
(確かに久遠さん素晴らしい。その点は認めましょう。けれど橘さん、あなたは脚本でミスをしたのではなくて?)
ロミオとジュリエット、そしてマーキューシオ。久遠による一人三役は優れている。優れすぎているから、多役をこなしていることに綺羅しか気づけていない。
(観客からすれば、橘さんを含めて、これまで四人の役者が出てきただけ。演技が上手いだけの普通の舞台ですわ)
しかも、橘役の橘、その声音は弱弱しく、演技はおどおどしている。久遠と対比されて、それがよりはっきりとしている。
(この舞台ですごいのは久遠さんのみ。橘さん、あなたの演技も、そして脚本も、彼の足を引っ張っていますわよ)
橘とマーキューシオのやり取りが続く。
そして天丼として、最後にはお決まりのパターン。
「もう、本当に帰って帰って帰って~!」
橘が叫びながら、マーキューシオの背中を押す。一度。二人がスポットライトから退場した。ややして光が照らす中央へ、同じパーカー姿の橘が、息を切らしながら戻ってくる。
橘は俯きながら、ぽつりと呟く。
「本当に何なの、あの人たち。どこからか現れて急に……。はあ、もう。気を取り直して……。次の役、次の役……」
橘は『ロミオとジュリエット』の文庫本を捲くるが、手は急にぴたりと止まる。
「でも、あの人たちの演技……上手だったな。すごい生き生きとしてた……。それに比べて、私って……」
橘はフードの上から、両手でがしっと頭を抱えた。
「駄目だよ、私にはできない。何の役もできない。だって私、引っ込み思案だし。演技下手だし。こんな私にできる役なんて……」
綺羅はそれを笑いながら見ていた。
(なるほど、結局は橘さんが自己を顧みる物語ね……。予想の範囲内ですわ)
タイマーを見やれば時間は残りわずかだ。
綺羅はマイクを手に取り、いつでも自分が喋れるよう準備を始める。
と、そこで――。
「そんなことはないよ、君」
澄んだ声が響いた。あのロミオの堂々たる声色だ。
「え?」
橘が顔を上げて、舞台を見回す。だが先ほどとは違い、ロミオの足音は響かない。橘の周囲には闇が広がるばかり。
「何だってできるだろう、君なら」
その瞬間、綺羅の目は、無意識に見開かれていた。
舞台の中央に立つ「橘」の姿が、ふっと変わる。背筋が伸び、視線が上を向く。先ほどまでの控えめな佇まいからは考えられないほど、凛とした立ち姿。
そして、橘はフードを取る。
(……え?)
フードの下から現れた顔は、ロミオのものだった。服装も違いうけれど、その表情と姿勢と振る舞いすべてが、そこに立つのはロミオであるとはっきりと告げている。
「そうです。無限の可能性を持つ私たちは、何にだってなれるのよ」
ロミオの声色と表情が変わる。ジュリエットの、あの気高く優美なものへ。
「恐れることなんてない。やりたいことをやる、でいいんじゃねえのか?」
数秒と経たず、ジュリエットの姿は、陽気に奔放に、ロミオの親友マーキューシオの姿を帯びる。
服装は何も変わらないのに、ころころと姿が移り変わる。
波濤のようなざわめきが、客席に広がっていく。
そして、彼が再びフードをかぶり直す仕草のなかで、その姿は橘へと戻る。
「なんだ、そうだったんだ……」
あの慎ましく、内気な橘音葉へと。
(いや、違います。あれは――!)
綺羅は理解してしまった。
橘音葉ではない。舞台に立っているのは、橘音葉を演じる久遠透だ。ロミオを、ジュリエットを、マーキューシオを、そして橘――四役を同時に、演じている。
「始めから躊躇する必要なんてなかったんだね。どうりで不法侵入できるわけだよ。ロミオ、ジュリエット、マーキューシオ――皆、私の中にいたんだね」
そう語る橘は、さらに表情を変えていく。ティボルトのような敵意、ときにロレンス神父のような静寂――説明も名乗りもないのに、彼が別人へと変わっていく。
(……う、嘘でしょう?)
演劇に心を動かされた経験なんて、綺羅にはなかった。過去に観た舞台は退屈で、眠気が勝った。それなのに、今見ているものは、この心のざわつきは――。
つい昨日の、久遠とのやり取りが想起される。
――ごっこ遊びにしか見えませんもの。
――そのごっこで、僕たちは人の心を動かすんだ。
橘もとい、久遠は舞台の上で続ける。
「そう――舞台の上ならば私たちは、何にでもなれるのです」
中央に立つ久遠が言うと、ライトの外である闇から一人の人物が歩いてきた。フードを被った、本物の橘だ。彼女は久遠の横に立ち、喋り始める。
「演劇部では、共に演劇をできる部員を募集しています。未経験でももちろん歓迎します。衣装係や道具係など、少しでも演劇に関わりたいという人でも大丈夫です」
堂々とした声音だった。
綺羅は悟る。おどおどしていた橘の口調も、ちゃんと演じていたものなのだと。
「少しでもあなたの中に衝動があるならば、ぜひ入部をお願いします!」
橘と久遠が頭を下げた。
そして、すべてを包み込むように、スポットライトが消える。
ぱち、と。躊躇するかのように、客席から拍手の音が聞こえた。その拍手が次第に広がり、やがて全体を包み込み、轟音となる。
だが綺羅の手だけは、動かなかった。
(私……何を見せられたの……?)
演劇なんてくだらない。そう思っていたのに。今、心の底から否応なく湧き上がるこの感情に、彼女は震えていた。
隣の席から生徒会役員が「綺羅さん、司会進行……」と囁く。だがその声は、彼女の耳に全く届いていなかった。
