一学期。
幸いなことに、ぼくと仁藤さんは風紀委員の仕事であまり話すことはなかった。
各クラスの風紀は各クラスの風紀委員で守りましょうという方針の元、他のクラスの風紀委員と話す機会が少なかったのが主な理由だ。
学校全体の風紀を守るのは、どうやら三年生の領分らしい。
普段のぼくなら、自分も学校の風紀を守る仕事にかかわりたいと思っていただろうが、仁藤さんとできるだけ関わりたくない今のぼくにとってはありがたい風習だった。
「なあ、正。最近、仁藤さんはどうよ?」
「ごめん。同じ委員なんだけど、ほとんど話す機会ないんだよね」
風習は、布藤への言い訳にも使えた。
布藤は相変わらず、ぼくを通じて仁藤さんと話す機会を伺ってはいるが、ぼくはその協力からも遠ざかっていた。
布藤の恋を応援する気持ちは変わらない。
布藤が幸せになってほしいのも本音だし、仁藤さんが幸せになってほしいのも本音だ。
でも、二人が恋人同士になることを、もう応援できなくなっている自分がいた。
だから、適当な理由をつけて、ただ逃げた。
「そっかあ。なら、しょうがねえよな」
布藤は、そんなぼくの考えに気づいていたのかいないのか。
ぼくを責めることもなく、ただただ二年生になって仁藤さんと話せなくなっている今を悲しんでいた。
仁藤さんに会うためだけに仁藤さんのクラスに行くのは、もはや告白だ。
風紀委員会に行くのは、さらに意味が分からない。
布藤は、身動きが取れなくなっていた。
たまに廊下ですれ違えば話しかけ、帰り道にたまたま仁藤さんを見かけたら話しかけていた。
でも、それだけだ。
毎日のように話していた一年生の頃に比べたら、明らかに後退していた。
布藤はだんだんと落ち着きがなくなっていき、ぼくと話しているときもどこか上の空なときが増えた。
「決めた。俺、仁藤さんに告白する」
夏も近い日の帰り道。
布藤は、ぼくの前ではっきりと宣言した。
「え?」
ぼくは、ポカンと口を開けることしかできなかった。
「俺さ、たぶんずっと仁藤さんから逃げてたんだ。仁藤さんのこと好きだって言いながら、正に協力してくれってお願いしながら、やってたことは正頼りのことばっか。俺、マジで恥ずかしいやつだったわ」
「そんなこと、思ったことないけど」
「いいや、そうなんだよ。だから、もう逃げない! 玉砕覚悟で、俺の気持ちを伝えてくる!」
布藤の目は、まっすぐにぼくを見ていた。
嘘も偽りも混じっていない、本気の瞳。
ぼくに、仁藤さんへの恋を応援してくれと頼んだ時と同じ、本気の瞳。
その瞬間、ぼくの頭の中に、仁藤さんの顔がちらついた。
真面目だったり、笑ったり、泣いたり、いろんな表情がちらついた。
ぼくは下唇をぐっと噛んで震えを止め、口角を上げて無理やり笑顔を作った。
「頑張って!」
「え、何その変な顔」
「花粉症かな」
「まだ花粉飛んでんの!?」
突然ではあったが、望んでいた展開のはずだった。
にも関わらず、胸の痛みが治まらなかった。
翌日。
布藤は放課後、早々に教室を出ていった。
どこに向かったのかは、言うまでもない。
やると決めるまでは遅いが、やると決めたら秒で動くのが、布藤のいいところだ。
ぼくは、布藤を教室で待つべきか、少しだけ悩んだ。
もしも布藤の告白が成功すれば、きっと布藤と仁藤さんは二人で教室に戻ってきて、ぼくは二人に祝福の言葉を言わなければならないだろう。
無理だ。
ぼくはきっと、笑顔で二人を祝福することなんてできない。
仁藤さんの顔を見た瞬間、気まずい顔をしてしまうか、最悪涙がこぼれ落ちてしまう可能性もある。
もしも仁藤の告白が失敗すれば、きっと布藤は一人で教室に戻ってきて、ぼくは布藤に慰めの言葉を言わなければならないだろう。
無理だ。
ぼくはきっと、本心から布藤を慰めて、同時に布藤と仁藤さんが付き合わなかったことに安堵するだろう。
例えその感情に布藤が気づかなかったとしても、親友の失恋を僅かでも喜ぶなんて、ぼくがぼくを許せなくなる。
もしも教室にぼくがいなければ、布藤は空っぽの教室に驚いた後、ぼくに用事があって帰ったと思うだろう。
「帰ろ」
悩んだ結果、ぼくは教室から去ることを選んだ。
今日は、布藤と会いたくない。
会うわないことが、きっと布藤のためにもなる。
そう信じて。
帰り道は、自然と早足になった。
まるで、布藤が仁藤さんに告白している場所から逃げるように。
歩いて、歩いて、歩いて。
ぼくは、いつもの河原へと来ていた。
河原にかかる橋の下には、野良猫が住んでいる。
名前は知らないので、ぼくは勝手にライアンと呼んでいる。
ライオンに似た、雄々しい表情のトラ猫だ。
ライアンはぼくの姿を見かけると、「にゃー」と鳴き声をあげながら、ぼくの方へと走ってきた。
ぼくは鞄を地べたにおいて、近づいてきたライアンを撫でてやる。
ライアンは気持ちよさそうな表情で、喉をゴロゴロと鳴らした。
気持ちが抑えきれないときは、いつもここへ来てしまう。
ライアンに慰めてもらいたくて。
ライアンも、もしかしたら恩返しのつもりなのか、ぼくの掌を文句ひとつ言わず受け入れてくれる。
「にゃー」
嫌なことも、逃げたいことも、ライアンを撫でている間だけは忘れることができた。
「にゃー」
「にゃー」
ライアンを撫でていると、周囲から他の猫たちも顔を出してきた。
ライアンの鳴き声を聞いて、ぼくが来たとわかったのだろう。
ぼくは撫でる手を止め、鞄から餌を取り出して猫たちに差し出した。
「ほら。お腹すいてるだろ? 食べな」
「にゃー」
「にゃー」
猫たちは、我先にと餌に群がり、美味しそうに食べ始めた。
所詮、ぼくのお小遣いで買うことのできる餌だ。
そんなにいい餌ではないのだけど、まるで高級な餌のように喜んでくれる。
嬉しそうな猫たちの顔を見ていると、ぼくも嬉しくなってくる。
自然と笑みがこぼれ、布藤のことも仁藤さんのことも、嫌なこと全部が体から消えていくように感じた。
自分の罪も何もかもが、最初っからなかったようにすがすがしかった。
でも、人生はそう甘くないらしい。
ポケットの中で、着信音がなった。
いつもの癖でスマホを手に取って見てみると、かけてきたのは布藤だった。
布藤はいつも、まずメッセージを送ってきて、通話が必要な場合は通話ができるか聞いてくる。
メッセージもなしに通話をかけてきたのは過去に一度。
ぼくと布藤が、大喧嘩をした日の夜だけだ。
ぼくの表情が一瞬にして強張り、学校にいた時の緊張感を思い出してしまう。
気づかなかったと言い訳して、着信を無視するのは簡単だ。
ポケットに戻そうかと、スマホをじっと見つめる。
「にゃー」
そんなぼくの足元で、ライアンがぼくを見上げて居た。
まるで、傷ついたら何度でも癒してやると言わんばかりの、自信に満ちた表情で。
「ライアン。そう、だよね。通話まで逃げるのは、駄目だよね」
いつもより長いコールであっても、通話が切れることはなかった。
ぼくは一度深呼吸をして、布藤からの電話に出た。
「もしもし?」
「…………おう」
電話越しに聞こえる布藤からの声は暗く沈んでいて、布藤の口から聞くまでもなく、仁藤さんへの告白の結果を知ることができた。
ぼくから「どうだった?」なんて聞くこともできず、ぼくは布藤からの言葉をしばらく待った。
布藤も、何から言葉にすればいいのか迷っているようで、しばらく一言も発さなかった。
猫たちも重い空気を悟ったのか、鳴くのをやめてじっとぼくを見つめていた。
川の流れる音だけが、世界を支配する。
ぼくは、布藤が明るい声で「駄目だった」と言えば明るく、暗い声で「駄目だった」と言えば重く、返事をしようと決めていた。
考えついた返事の言葉を、布藤が口を開くまで何度も何度も作り直した。
「正。仁藤さんのことを振ったのって、俺のせいか?」
「え?」
が、布藤の口から出てきたのは、想像していなかった一言だった。
ぼくは、用意していた返事全てを零してしまい、一言声をあげるだけで精いっぱいだった。
ぼくの沈黙を肯定と受け取ったのだろう、布藤は大きなため息をついた。
「やっぱりか」
「いや、違」
「何年親友やってると思ってんだ。声の抑揚でわかんだよ」
「…………」
布藤の言葉に、またもやぼくは沈黙をした。
仁藤さんに告白されたことを、ぼくは布藤に知られたくなかった。
ぼくと布藤の関係に、大きな亀裂が入る気がしたから。
誰が布藤に言ったのだろうかと考えるまでもなく、犯人の顔は浮かんでいた。
どうして布藤にそんなことを言ったんだと仁藤さんへの怒りがこみあげてきた。
「言っとくけど、仁藤さんが自分から言ったわけじゃねえぞ。俺が、無理やり聞きだしただけだ」
「…………」
が、そんなぼくの理不尽な考えさえ、布藤はあっさりと見抜いてきた。
わかっている、さっきのは理不尽な逆恨みだ。
元々、いつかはバレると分かっていたことだった。
それでも、布藤に仁藤さんから告白されたことをすぐに言わず、先延ばしにしたのはぼくだ。
布藤の言葉で、仁藤さんに責任を押し付けようとした自分に気づき、恥ずかしさで通話を切りたくなった。
弱い弱い自分から、目をそむけたくなった。
指が通話終了ボタンの前にまで移動したが、僅かばかりのプライドで、ボタンを押すのは留まった。
ぼくの姿が見えない布藤は、追加でフォローをするように話を続けた。
「仁藤さんに告白して断られた後、俺は聞いちまったんだよな。正のことが好きなのかって」
「え」
「だてに、ずっと仁藤さんに片思いしてた訳じゃないからな。仁藤さんの反応で、すぐわかった。だから、言ったんだよ。正と幸せになってくれって。最後くらい格好つけたくてな」
「…………」
「そしたら仁藤さんは、悲しそうな顔をしたんだ。最初は、振った俺に気を使わせてしまったことを悲しんだのかとも思ったけど、違うよな。仁藤さんは誰かを振る時、最後まで真剣な表情で応えるもんな。だから、わかったんだよ。仁藤さんは、正と幸せになることができないって分かってるから、悲しい顔をしたんだって」
布藤が言葉を発するたびに、ぼくの心臓が締め付けられていく。
布藤が言葉を発するたびに、ぼくの口の中が渇いていく。
突然地獄に放り出されたような感覚が、ぼくを襲っていた。
「なあ」
その一言が、何より恐かった。
次の一言が、何より恐かった。
『どうして仁藤さんに告白されたことを言わなかったのか』
『叶わないことがわかっている俺の恋を見ていて、楽しかったのかよ』
『お前なんて、親友でも何でもない。絶交だ』
次から次へと、布藤の口から出てくるだろう言葉が頭の中に浮かび、脳を素通りして消えていった。
一瞬で汗が流れ、ぼくの髪をひたすらに湿らせた。
渇き切った口の中に突如現れた液体の塊を、ぼくは無言で飲み込んだ。
「お前が断ったのって、俺のせいか?」
飲み込んだ音と、布藤の声が重なった。
「違う!」
ぼくは力を込めて叫んだ。
仁藤さんの告白を断ったのは、ぼくの意思だ。
布藤のことが頭をよぎったことは確かだけど、決めたのはぼくだ。
布藤のせいなんかじゃない。
またしても沈黙がやってきて、スマホの向こうから布藤の耐えるような声が聞こえた。
「正、お前は優しいなあ」
布藤の言葉に、ぼくは強い拒否反応を示した。
「優しくないよ」
「優しいよ。俺が仁藤さんを好きだって聞いてたから、お前は仁藤さんを好きだって思うのを我慢してたんだろ」
「違うよ」
「正、ありがとう。でも、俺はそんなの嬉しくない。親友の恋を邪魔するなんて、したくねえ!」
「違うよ!」
布藤が叫んだので、ぼくも叫んだ。
ぼく自身にも、今のぼくの本心はわからなくなっていた。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、意地だけで叫んでいた。
ぼくは、正しいと思うことをした。
でも、その正しさを、布藤は望んでいなかった。
じゃあ、ぼくのやったことは間違っていたのだろうか。
いや、間違ってなかったはずだ。
布藤を悲しませることはなかったのだから、間違ってなかったはずだ。
でも今、布藤は叫んでいる。
ぼくと同じくらい辛そうに叫んでいる。
ぼくも辛そうに叫んでいる。
わからない、何も。
両手で頭を押さえて、渦巻く思考を止めようとするが、まったく止まる気配を見せない。
「違うかどうかは、本人の目の前で言ってくれ。それでもなお、お前が違うというんなら、違うって信じるよ」
「え?」
混乱する頭の中に、布藤の言葉が響き、通話が着られた。
本人の目の前で。
本人とは誰だろう。
いや、この場合は一人だけだろう。
答え合わせをするように、走って来る足音が一つ聞こえた。
猫たちが散り散りに逃げて、ライアンも遠くの方に移動し、この場は二人だけの空間になった。
幸いなことに、ぼくと仁藤さんは風紀委員の仕事であまり話すことはなかった。
各クラスの風紀は各クラスの風紀委員で守りましょうという方針の元、他のクラスの風紀委員と話す機会が少なかったのが主な理由だ。
学校全体の風紀を守るのは、どうやら三年生の領分らしい。
普段のぼくなら、自分も学校の風紀を守る仕事にかかわりたいと思っていただろうが、仁藤さんとできるだけ関わりたくない今のぼくにとってはありがたい風習だった。
「なあ、正。最近、仁藤さんはどうよ?」
「ごめん。同じ委員なんだけど、ほとんど話す機会ないんだよね」
風習は、布藤への言い訳にも使えた。
布藤は相変わらず、ぼくを通じて仁藤さんと話す機会を伺ってはいるが、ぼくはその協力からも遠ざかっていた。
布藤の恋を応援する気持ちは変わらない。
布藤が幸せになってほしいのも本音だし、仁藤さんが幸せになってほしいのも本音だ。
でも、二人が恋人同士になることを、もう応援できなくなっている自分がいた。
だから、適当な理由をつけて、ただ逃げた。
「そっかあ。なら、しょうがねえよな」
布藤は、そんなぼくの考えに気づいていたのかいないのか。
ぼくを責めることもなく、ただただ二年生になって仁藤さんと話せなくなっている今を悲しんでいた。
仁藤さんに会うためだけに仁藤さんのクラスに行くのは、もはや告白だ。
風紀委員会に行くのは、さらに意味が分からない。
布藤は、身動きが取れなくなっていた。
たまに廊下ですれ違えば話しかけ、帰り道にたまたま仁藤さんを見かけたら話しかけていた。
でも、それだけだ。
毎日のように話していた一年生の頃に比べたら、明らかに後退していた。
布藤はだんだんと落ち着きがなくなっていき、ぼくと話しているときもどこか上の空なときが増えた。
「決めた。俺、仁藤さんに告白する」
夏も近い日の帰り道。
布藤は、ぼくの前ではっきりと宣言した。
「え?」
ぼくは、ポカンと口を開けることしかできなかった。
「俺さ、たぶんずっと仁藤さんから逃げてたんだ。仁藤さんのこと好きだって言いながら、正に協力してくれってお願いしながら、やってたことは正頼りのことばっか。俺、マジで恥ずかしいやつだったわ」
「そんなこと、思ったことないけど」
「いいや、そうなんだよ。だから、もう逃げない! 玉砕覚悟で、俺の気持ちを伝えてくる!」
布藤の目は、まっすぐにぼくを見ていた。
嘘も偽りも混じっていない、本気の瞳。
ぼくに、仁藤さんへの恋を応援してくれと頼んだ時と同じ、本気の瞳。
その瞬間、ぼくの頭の中に、仁藤さんの顔がちらついた。
真面目だったり、笑ったり、泣いたり、いろんな表情がちらついた。
ぼくは下唇をぐっと噛んで震えを止め、口角を上げて無理やり笑顔を作った。
「頑張って!」
「え、何その変な顔」
「花粉症かな」
「まだ花粉飛んでんの!?」
突然ではあったが、望んでいた展開のはずだった。
にも関わらず、胸の痛みが治まらなかった。
翌日。
布藤は放課後、早々に教室を出ていった。
どこに向かったのかは、言うまでもない。
やると決めるまでは遅いが、やると決めたら秒で動くのが、布藤のいいところだ。
ぼくは、布藤を教室で待つべきか、少しだけ悩んだ。
もしも布藤の告白が成功すれば、きっと布藤と仁藤さんは二人で教室に戻ってきて、ぼくは二人に祝福の言葉を言わなければならないだろう。
無理だ。
ぼくはきっと、笑顔で二人を祝福することなんてできない。
仁藤さんの顔を見た瞬間、気まずい顔をしてしまうか、最悪涙がこぼれ落ちてしまう可能性もある。
もしも仁藤の告白が失敗すれば、きっと布藤は一人で教室に戻ってきて、ぼくは布藤に慰めの言葉を言わなければならないだろう。
無理だ。
ぼくはきっと、本心から布藤を慰めて、同時に布藤と仁藤さんが付き合わなかったことに安堵するだろう。
例えその感情に布藤が気づかなかったとしても、親友の失恋を僅かでも喜ぶなんて、ぼくがぼくを許せなくなる。
もしも教室にぼくがいなければ、布藤は空っぽの教室に驚いた後、ぼくに用事があって帰ったと思うだろう。
「帰ろ」
悩んだ結果、ぼくは教室から去ることを選んだ。
今日は、布藤と会いたくない。
会うわないことが、きっと布藤のためにもなる。
そう信じて。
帰り道は、自然と早足になった。
まるで、布藤が仁藤さんに告白している場所から逃げるように。
歩いて、歩いて、歩いて。
ぼくは、いつもの河原へと来ていた。
河原にかかる橋の下には、野良猫が住んでいる。
名前は知らないので、ぼくは勝手にライアンと呼んでいる。
ライオンに似た、雄々しい表情のトラ猫だ。
ライアンはぼくの姿を見かけると、「にゃー」と鳴き声をあげながら、ぼくの方へと走ってきた。
ぼくは鞄を地べたにおいて、近づいてきたライアンを撫でてやる。
ライアンは気持ちよさそうな表情で、喉をゴロゴロと鳴らした。
気持ちが抑えきれないときは、いつもここへ来てしまう。
ライアンに慰めてもらいたくて。
ライアンも、もしかしたら恩返しのつもりなのか、ぼくの掌を文句ひとつ言わず受け入れてくれる。
「にゃー」
嫌なことも、逃げたいことも、ライアンを撫でている間だけは忘れることができた。
「にゃー」
「にゃー」
ライアンを撫でていると、周囲から他の猫たちも顔を出してきた。
ライアンの鳴き声を聞いて、ぼくが来たとわかったのだろう。
ぼくは撫でる手を止め、鞄から餌を取り出して猫たちに差し出した。
「ほら。お腹すいてるだろ? 食べな」
「にゃー」
「にゃー」
猫たちは、我先にと餌に群がり、美味しそうに食べ始めた。
所詮、ぼくのお小遣いで買うことのできる餌だ。
そんなにいい餌ではないのだけど、まるで高級な餌のように喜んでくれる。
嬉しそうな猫たちの顔を見ていると、ぼくも嬉しくなってくる。
自然と笑みがこぼれ、布藤のことも仁藤さんのことも、嫌なこと全部が体から消えていくように感じた。
自分の罪も何もかもが、最初っからなかったようにすがすがしかった。
でも、人生はそう甘くないらしい。
ポケットの中で、着信音がなった。
いつもの癖でスマホを手に取って見てみると、かけてきたのは布藤だった。
布藤はいつも、まずメッセージを送ってきて、通話が必要な場合は通話ができるか聞いてくる。
メッセージもなしに通話をかけてきたのは過去に一度。
ぼくと布藤が、大喧嘩をした日の夜だけだ。
ぼくの表情が一瞬にして強張り、学校にいた時の緊張感を思い出してしまう。
気づかなかったと言い訳して、着信を無視するのは簡単だ。
ポケットに戻そうかと、スマホをじっと見つめる。
「にゃー」
そんなぼくの足元で、ライアンがぼくを見上げて居た。
まるで、傷ついたら何度でも癒してやると言わんばかりの、自信に満ちた表情で。
「ライアン。そう、だよね。通話まで逃げるのは、駄目だよね」
いつもより長いコールであっても、通話が切れることはなかった。
ぼくは一度深呼吸をして、布藤からの電話に出た。
「もしもし?」
「…………おう」
電話越しに聞こえる布藤からの声は暗く沈んでいて、布藤の口から聞くまでもなく、仁藤さんへの告白の結果を知ることができた。
ぼくから「どうだった?」なんて聞くこともできず、ぼくは布藤からの言葉をしばらく待った。
布藤も、何から言葉にすればいいのか迷っているようで、しばらく一言も発さなかった。
猫たちも重い空気を悟ったのか、鳴くのをやめてじっとぼくを見つめていた。
川の流れる音だけが、世界を支配する。
ぼくは、布藤が明るい声で「駄目だった」と言えば明るく、暗い声で「駄目だった」と言えば重く、返事をしようと決めていた。
考えついた返事の言葉を、布藤が口を開くまで何度も何度も作り直した。
「正。仁藤さんのことを振ったのって、俺のせいか?」
「え?」
が、布藤の口から出てきたのは、想像していなかった一言だった。
ぼくは、用意していた返事全てを零してしまい、一言声をあげるだけで精いっぱいだった。
ぼくの沈黙を肯定と受け取ったのだろう、布藤は大きなため息をついた。
「やっぱりか」
「いや、違」
「何年親友やってると思ってんだ。声の抑揚でわかんだよ」
「…………」
布藤の言葉に、またもやぼくは沈黙をした。
仁藤さんに告白されたことを、ぼくは布藤に知られたくなかった。
ぼくと布藤の関係に、大きな亀裂が入る気がしたから。
誰が布藤に言ったのだろうかと考えるまでもなく、犯人の顔は浮かんでいた。
どうして布藤にそんなことを言ったんだと仁藤さんへの怒りがこみあげてきた。
「言っとくけど、仁藤さんが自分から言ったわけじゃねえぞ。俺が、無理やり聞きだしただけだ」
「…………」
が、そんなぼくの理不尽な考えさえ、布藤はあっさりと見抜いてきた。
わかっている、さっきのは理不尽な逆恨みだ。
元々、いつかはバレると分かっていたことだった。
それでも、布藤に仁藤さんから告白されたことをすぐに言わず、先延ばしにしたのはぼくだ。
布藤の言葉で、仁藤さんに責任を押し付けようとした自分に気づき、恥ずかしさで通話を切りたくなった。
弱い弱い自分から、目をそむけたくなった。
指が通話終了ボタンの前にまで移動したが、僅かばかりのプライドで、ボタンを押すのは留まった。
ぼくの姿が見えない布藤は、追加でフォローをするように話を続けた。
「仁藤さんに告白して断られた後、俺は聞いちまったんだよな。正のことが好きなのかって」
「え」
「だてに、ずっと仁藤さんに片思いしてた訳じゃないからな。仁藤さんの反応で、すぐわかった。だから、言ったんだよ。正と幸せになってくれって。最後くらい格好つけたくてな」
「…………」
「そしたら仁藤さんは、悲しそうな顔をしたんだ。最初は、振った俺に気を使わせてしまったことを悲しんだのかとも思ったけど、違うよな。仁藤さんは誰かを振る時、最後まで真剣な表情で応えるもんな。だから、わかったんだよ。仁藤さんは、正と幸せになることができないって分かってるから、悲しい顔をしたんだって」
布藤が言葉を発するたびに、ぼくの心臓が締め付けられていく。
布藤が言葉を発するたびに、ぼくの口の中が渇いていく。
突然地獄に放り出されたような感覚が、ぼくを襲っていた。
「なあ」
その一言が、何より恐かった。
次の一言が、何より恐かった。
『どうして仁藤さんに告白されたことを言わなかったのか』
『叶わないことがわかっている俺の恋を見ていて、楽しかったのかよ』
『お前なんて、親友でも何でもない。絶交だ』
次から次へと、布藤の口から出てくるだろう言葉が頭の中に浮かび、脳を素通りして消えていった。
一瞬で汗が流れ、ぼくの髪をひたすらに湿らせた。
渇き切った口の中に突如現れた液体の塊を、ぼくは無言で飲み込んだ。
「お前が断ったのって、俺のせいか?」
飲み込んだ音と、布藤の声が重なった。
「違う!」
ぼくは力を込めて叫んだ。
仁藤さんの告白を断ったのは、ぼくの意思だ。
布藤のことが頭をよぎったことは確かだけど、決めたのはぼくだ。
布藤のせいなんかじゃない。
またしても沈黙がやってきて、スマホの向こうから布藤の耐えるような声が聞こえた。
「正、お前は優しいなあ」
布藤の言葉に、ぼくは強い拒否反応を示した。
「優しくないよ」
「優しいよ。俺が仁藤さんを好きだって聞いてたから、お前は仁藤さんを好きだって思うのを我慢してたんだろ」
「違うよ」
「正、ありがとう。でも、俺はそんなの嬉しくない。親友の恋を邪魔するなんて、したくねえ!」
「違うよ!」
布藤が叫んだので、ぼくも叫んだ。
ぼく自身にも、今のぼくの本心はわからなくなっていた。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、意地だけで叫んでいた。
ぼくは、正しいと思うことをした。
でも、その正しさを、布藤は望んでいなかった。
じゃあ、ぼくのやったことは間違っていたのだろうか。
いや、間違ってなかったはずだ。
布藤を悲しませることはなかったのだから、間違ってなかったはずだ。
でも今、布藤は叫んでいる。
ぼくと同じくらい辛そうに叫んでいる。
ぼくも辛そうに叫んでいる。
わからない、何も。
両手で頭を押さえて、渦巻く思考を止めようとするが、まったく止まる気配を見せない。
「違うかどうかは、本人の目の前で言ってくれ。それでもなお、お前が違うというんなら、違うって信じるよ」
「え?」
混乱する頭の中に、布藤の言葉が響き、通話が着られた。
本人の目の前で。
本人とは誰だろう。
いや、この場合は一人だけだろう。
答え合わせをするように、走って来る足音が一つ聞こえた。
猫たちが散り散りに逃げて、ライアンも遠くの方に移動し、この場は二人だけの空間になった。


