いよいよ学校生活が本格的に始まった。
 授業も進み出し、部活も一年生の仮入部期間になっている。
 水曜日の昼休み、響は早々に弁当を食べ終わると、中庭のベンチまで急いだ。
「お待たせ」
「いえ」
 待っていたのは奏だ。
 
 水曜日の昼休みは図書委員になった彩歌が図書室の当番なので、奏はフリーなのだ。
 彩歌の邪魔も入らないということで、響は水曜日の昼休みは奏と中庭で話すことにしたのだ。
 音宮高校の中庭は、桜の木がある。
 少し散り始めて寂しくなっているが、桜はまだ精一杯咲き誇っていた。
 葉桜になっているが、緑とピンクが上手く調和している。

「そういえば、かなちゃん、イタリアでの暮らしはどうだったの? やっぱりピザとかパスタ美味しかった?」
 響は聞けていなかった奏のイタリアでの生活について聞いてみた。
「日本との違いにびっくりしました。でも楽しかったです。ピザとパスタも美味しかったですよ。流石はイタリアって感じでした」
 奏はイタリアで過ごした二年間を思い出し、懐かしそうに微笑んだ。そして話を続ける。
「学校ではイタリア語と英語の授業もあったので、少しは話せるようになったと思います。それに、向こうの子達は自己主張が強いので、私も色々必死に主張していましたね」
 奏は苦笑する。
「かなちゃん、現地の学校行ってたんだ」
「はい。日本に興味ある子とかがよく話しかけてくれましたよ。それと、日本人学校にも通いました」
「そっか。……いじめられたりとかはしなかった? 大丈夫だった?」
 恐る恐る聞く響。
 
 奏は小柄なので、大柄な外国人に何か嫌なことをされたりしていないか心配になった。
 男子として小柄な方の響が言えたことではないが。
 
「それは特になかったです。それに、イタリアではいじめとかがあったら被害者が即逃げて環境を変える、もしくは即加害者側を通報ですよ」
 奏はクスッと笑った。
「日本とは大違いだね」
 響は苦笑する。
「じゃあさ、休みの日とかは何してたの?」
 響は興味深々な様子だ。
「最初の頃は、両親と近所を散歩をしたりしていましたね。夏休みはせっかくEU圏内にいるからということで、近隣のフランスやドイツ、それからスペインにも足を伸ばすこともありました」
「フランス、ドイツ、スペイン……何か凄いなあ」
 響は思わず呟いていた。
「それと、オーストリアのウィーンにも。オーケストラを見に行きました」
 奏は懐かしそうに微笑む。
「オーケストラ……」
 響は奏の為に音楽の話は避けていたが、まさか奏の口から音楽関係の言葉が出るとは思っていなかった。
「音の一つ一つに深みがあって、それが綺麗に調和していたんです。まるで、音の海に潜ったような感じ。ずっとそこにいたいとすら思いました。流石は音楽の都ですよ」
 そう語る奏の表情はキラキラと輝いていた。
 
 その時ふわりと風が吹き、中庭の桜が舞う。奏のサラサラとしたロングヘアも風でなびいていた。
 
「そっか」
 響は少しホッとして笑う。
「かなちゃん、もしかして芸術科目は音楽選択してたりする?」
「ええ、そうですけど……」
 突然話が変わり、奏は訝しげにうなずく。
「じゃあ……やっぱりかなちゃんは……本当は音楽が好きなんだ。そうじゃなきゃ、ウィーンのオーケストラの話はしないし、選択科目も音楽を選ばないよね」
 響は柔らかな表情で、真っ直ぐ奏を見る。
「私は……音楽なんか大嫌いですよ。選択科目だって、教科書代が一番安かったから音楽にしただけです」
 奏は気まずそうに響から目をそらした。
「そっか……」
 響は敢えてそれ以上言及しなかった。
(かなちゃんは……きっと中一の時のフルートコンクールの失敗がトラウマになっているだけなのかも)
 響はゆっくりと空を見上げる。
 青々とした空は、まるで響にもう少し気長に待てと言っているかのようだった。
「かなちゃん、ごめんね。変な話しちゃったね」
「……こちらこそ、すみません」
 奏は俯きながら、小さな声で謝るのであった。
(かなちゃんのフルートがもう一度聞きたい。俺のクラリネットとの二重奏もして欲しいけれど……大丈夫、かなちゃんのペースを待とう)
 響はそう決意した。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 翌週の月曜日。
 仮入部期間が終わり、いよいよ本入部となった。
「えー、今年は新入部員が十七人も入ってくれました!」
 三年生の部長が明るくそう言うと、響含めた部員達が盛大な拍手で進入部員を歓迎した。
「じゃあまず新入部員のみんなは自己紹介と希望の楽器を言ってください」
 部長がそう言うと、新入部員達は誰から自己紹介するかとざわざわし始める。
「じゃあ俺から行くね」
 一人の新入部員がそう言い、前に出る。
「一年三組、浜須賀(はますか)(りつ)です。中学からファゴットをやっていたので、高校でもファゴットを続けたいと思います」
 長身で爽やかな見た目の律。彼は低音木管楽器ファゴットの経験者だった。
 律を皮切りに、次々と自己紹介する新入部員達。
 今年はフルート希望者が少なかった。その上、全員高校からフルートを始める初心者だ。
(フルートは今三年の先輩が多い。先輩達が引退したら、フルートはかなり人数少なくなるし全員高校から始めたばかりの初心者……。是非ともかなちゃんに入部してもらいたいな。天沢さんって子も、ピッコロが出来るみたいだし)
 響は新入部員の自己紹介を聞きながらぼんやりとそう考えていた。

 新入部員は無事に希望の楽器を担当出来ることになり、この日の部活はパートごとに新入部員の実力を見るのがメインになった。
「小日向先輩」
 響はクラリネットを組み立てていると、不意にある女子生徒から声をかけられた。
 テナーサックスを持つ、ショートカットで響よりも少し背が低い少女。童顔でハキハキした印象だ。
「おお、内海(うつみ)か。中学振りだな」
 懐かしい存在に、響は表情を綻ばせた。
 響に声をかけたのは内海詩織(しおり)である。
「はい。小日向先輩が卒業してからめちゃくちゃ寂しかったです」
「大袈裟だな」
 やや上目遣いで見つめて来る詩織に、響は少し苦笑した。
「大袈裟じゃないですよ。私、音宮高校に入る為に猛勉強したんですから」
 詩織は拗ねたように頬を膨らませた。
「高校でまた小日向先輩と一緒に演奏出来るの、私凄く楽しみです」
 頬を膨らませるのをやめ、詩織は明るく嬉しそうな表情になった。
「またよろしく。内海のテナー、期待してる」
 響はニッと笑った。
「はい!」
 詩織は頬を赤く染め、嬉しそうに、やる気に満ちあふれたように頷いた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 水曜日の昼休み。
 響は奏と過ごす時間を確保する為、急いで弁当を食べる。
「響、先週もそうだったけど、水曜だけやたらと食べるの早いな」
 部活もクラスも同じである風雅がパンを食べながら苦笑する。
「まあ……ちょっとな」
 響は曖昧に誤魔化すような返事をし、弁当に入っていたブロッコリーを食べる。
「もしかして、女の子との約束とか?」
 ニヤリと意味ありげに笑う風雅。
 響はブロッコリーを喉に詰まらせて咽せた。
「おいおい、響、大丈夫か? もしかして図星?」
 心配しつつも、ニヤニヤとした表情のままの風雅。
 奏のことは、小夜とセレナ以外には言っていなかったのだ。
「まあ……そうだけど……幼馴染だよ」
 響は水筒のお茶を飲み、風雅から目をそらす。
「幼馴染……ね。先週からのソワソワした様子を見る限り、お前、その子のこと好きだろ?」
 見透かすかのような表情の風雅。
 響は黙り込む。
 こういう時、風雅に何を言っても敵わないのが昨年からの経験上分かっている。
「まあ……俺の片思いだけどさ」
 響は少し頬を赤く染めながら白状した。
「そっか。まあ、頑張れよ。ほら、早く食べないとその子との時間減るぞ」
 ニヤリと笑い、響の肩を叩く風雅。
「それに、俺も水曜の昼は図書室行きたいし」
 風雅の言葉に、響は目を丸くする。普段風雅が読書をしているところをあまり見たことないのだ。
「風雅、あんまり本読まないだろ」
「まあな。でも、水曜の昼休みの図書室の当番の女の子、めちゃくちゃ美人でさ。多分一年の子だと思うんだけど。何かツンツンした態度も可愛く見えて」
 チャラそうにニヤける風雅だ。
(水曜の昼休みの図書室当番で美人の一年……)
 響の脳内に彩歌のしかめっ面が浮かんだ。
(まさかな)
 響は考えるのをやめ、残りの弁当をかき込んだ。

 ダッシュで中庭のベンチに向かったが、まだ奏は来ていない。
 響がベンチに座り少し経過した時、奏の姿が見えた。
「すみません、お待たせしました。彩歌が図書室の当番行きたくないってごねていまして」
 申し訳なさそうに苦笑している奏。
「何か先週チャラそうな先輩に絡まれてウザかったらしいです」
「チャラそうな先輩……」
 響の脳内に先程の風雅の様子が思い浮かぶ。
(……もしかして)
 響は十中八九自身の想像が正しいような気がした。
 
「かなちゃん、放課後は真っ直ぐ家に帰ってるの?」
 気を取り直し、響は奏の方に身を乗り出している。
「そうですね。時々彩歌と駅前のショッピングモールを探索しますけれど、基本的にあまり寄り道せずに帰ってます」
 奏は大人びているが、柔らかな表情である。
「そっか。まあうちの高校の最寄り駅、若干ショボいよね」
「はい。まだ私の家の最寄り駅の方が栄えてます。だから彩歌とそこで遊んだりしています」
 奏は苦笑した。
「そういえば、かなちゃん、イタリアから戻った後はお祖父(じい)さん、お祖母(ばあ)さん達と一緒に住んでるんだよね? 家どの辺なの?」
 響は聞けていなかったことを聞いてみた。
「えっと、前住んでいたマンションからはかなり離れていて……」
 奏は響に最寄り駅を教えた。
「ああ、そこに住んでるんだ。俺、まだあのマンションに住んでるからそこそこ離れてるね。まあ同じ市内だからすぐ行けるけど」
 響は奏の住む地域を知り、スマートフォンの地図アプリで確認した。
「私の両親も、響先輩のご両親と会いたがっていましたし、もしたら予定が合う日に招待するかもしれません」
 ふふっと笑う奏。
「多分それうちの親楽しみにしそう」
 響はクスッと笑った。
 音楽の話をしなければ、奏とは穏やかな時間が過ごせる響だった。