「麦野ちゃん、次の脚本も主役やるんだって?さすがぁ!」
そう褒められていい気にならない人間がどこにいるだろうか。きっとどこにも存在しない。両手で握った再生紙には「麦野ねね 合格」の文字が印刷されていた。私は先日脚本の主人公役を決めるための部内オーディションを受けてきた。さすが演劇強豪校なだけあって、部員たちのレベルは相当なものだ。下手すればそこらの劇団員や俳優なんかよりも上手な部員ばかりだった。そしてそんな中、私は堂々と合格をつかみ取ったのだ。
「そりゃあね、小学生のころから演技やってんだから!当然でしょ!」
えっへんとでも言いたげな顔で私は言って見せた。そうすれば目の前の彼女……井間ゆりえはふふふと笑った。
「やっぱり、麦野ちゃんはすごいね!前回の脚本の時も主役だったでしょ!」
前回だけではない。前々回もその前も、私は主役の座をつかみ取ってきたのだ。それは自分にとってのアイデンティティであったし、自信でもあり、努力は必ず実を結ぶのだという自分なりの証明でもあった。
しかし、それをよく思わない部員も数多く在籍している。
「……はぁ、また麦野さんが主役?意味わかんない、大して演技もうまくないくせに」
「きっとあれだよ、顧問のお気に入りなんだよ」
「はwwあの顏で??まじ笑えるww」
そんな風に本人がいるのに堂々と陰口を叩くような奴らもいる。本人が目の前にいるのでもはや陰口ではないが。別に私自身は何も気にしていない。最初のころはまぁ心を痛めたが、もう慣れきってしまった。私が、私の実力で勝ち取った役だ。言いたい奴には好きに言わせておけばいい。
「もう!あなたたち!そんなこと言って!」
「あー!ゆりえちゃんいいよそんな言わなくて!」
「でも……大切な友達が悪く言われてるの、ほっとけないよ!」
私の陰口を口にしていた部員たちに反論しようとするゆりえちゃんを必死に止め、なだめる。その気持ちを気概はとてもうれしいが、正直大事にはしたくない。
落ち着いたのか心機一転、ゆりえちゃんは目の色を変えて話し始めた。
「あっ!でも聞いてよ麦野ちゃん!」
「どうしたの、ゆりえちゃん」
「私ね、今回の脚本でまた役もらえたの!」
うれしい!と文字通り心底嬉しそうに彼女は笑った。その輝く瞳はまるで初めて虹を見た時の子供のように、溢れんばかりの光がともっていた。ゆりえちゃんは高校に入ってから演技を始めた初心者だ。入った理由はドラマでみた女優さんにあこがれたかららしい。しかし運悪くゆりえちゃんが入った演劇部は強豪。ぽっと出の初心者の実力で通用するほど甘くはなかった。最初のほうは役の一つももらえぬまま、照明や大道具なんかの裏方ばかりさせられていた。それなりに楽しかったしやりがいもあったが、やはり演技がしたくて入ったからには演技がやりたいと何度となく愚痴を零していた。そしてゆりえちゃんにはそれなりにセンスもあったらしく、努力の甲斐もあって最近は演技経験者も多い中役を獲得できるほどに成長した。
……ぶっちゃけ、私はゆりえちゃんを警戒している。それは彼女の人柄や性格がアレだからとかいうわけでは一切なく、単純に彼女の演劇のセンスを危惧している。だって彼女はほかの部員が積んだ数年にも及ぶ経験を、たった一年と数か月ぽっちでいとも簡単に蹴落としたのだ。そんな彼女が凡人であるはずがない。それこそ、まさに天才と呼ばれるに等しい人材だと嫌でも理解してしまう。
「私もいつか主役やってみたいな~」
そうのんきに彼女はつぶやく。本音は「そんなの無理だよ」と言ってやりたい。でも彼女の希望と夢に満ち溢れた目を見てしまったらそんなこと言えるわけがなかったし、それ以前に私を好いてくれている数少ない人間をこちらから突き放すようなことはしたくなかった。
最近、部室内がピリピリとしている。なんせ人数が多い為いくつかのグループができているのは仕方がないもの、一部例外を除き普段は基本的に部員同士の仲は良好だ。しかしこの時期になると皆どうしても気が張ってしまうのだ。理由は一つ、大会が近いからだ。まずは地区大会。私たちが住んでいるこの地区はいわば激戦区であり、強豪校であるわが校でもライバルは多い。しかし現在5年連続で県大会まで進出しており、前年度は地方大会まで進出できた。ちなみにその時の脚本の主役は私だ。私のおかげで地方大会まで進出できただなんて思っていない。しかし、私が主役を務めた演目で地方大会まで進出できたということを誇りには思っている。
ガラリ、と部室のドアが開けられる。タブレットと大量の紙の束を持った顧問が入ってきた。ざわざわと騒がしかった部室内が一気にシーンと静まり返る。
「お~いお前ら話聞け~、大会用の脚本持ってきたぞ~」
来た。今年も来てしまった。心の奥底からワッと湧き上がる感情がある。それはきっと競争心だとか闘争心だとかそういう類のものだと思う。今年も、私が主役の座を勝ち取る。誰もが羨ましがるたった一役を、私が!
顧問の先生が部員一人一人に脚本を配る。普段より少し丈夫に製本してあり、色画用紙で作られた表紙には暖かみのない無機質な文字で題名が記載されていた。ぱらり、とページをめくる。皆も同じようにするので部室内にはただひたすらにページをめくる音だけが響いた。
ある程度読み終えたところで冊子を閉じた。話の概要はこうだ。アイドルになるという夢を持った少女が道半ば挫折を繰り返し、最後には夢を叶えるというまぁ良くあるサクセスストーリーだ。少々現実味はないように思えるが、夢持つフレッシュな若者ばかりの舞台においてはある意味妥当だろうか。主人公はアイドルの養成事務所に入ったばかりの新人アイドル。歌やダンスの経験はこれまで無い、文字通りの初心者だ。
いけると思った。昔同じような役をやったこともあるし、中学生まではミュージカルもやっていたから歌やダンスも得意だ。今回も、私が主役に抜擢されるはずだという自負があった。
今回のオーディションへの意気込みをした私の隣で、ゆりえちゃんは目を輝かせていた。その瞳には夢と希望と決意がみなぎっている。挫折も闇も知らない、初心な少女の目。なんだか私には無縁なもので少しうらやましかった。なんの悩みもなさそうに未来への希望が詰まっているその瞳が。私はもうこの世界の闇を知ってしまった。だれもが私みたいに結果を出せるわけじゃない。何年も演技をやったのに主役どころか役のもらえない子、うまくできたと思った演技に酷評を食らって挫折した子、私は何人も見てきた。だから、ゆりえちゃんがまぶしくて仕方なかった。
「ねぇねぇゆりえちゃん、私今回頑張る!」
「うん、一緒に頑張ろうね!」
その日から、各々練習が始まった。
「私、アイドルになりたいんです!……みんなに夢と希望を与えられる、そんなアイドルに!」
私は毎日のように部室に通い練習を続けた。最初のほうはひたすらキャラクター分析をして必死に役作りをした。この場面の主人公はどんな心境だったのか、なぜそんな行動をとったのか、もし彼女ならこういう場面の時どんな反応をするのか。ひたすらノートにまとめて、麦野ねねではなくアイドルを目指す主人公に成りきろうとした。私自身役作りは得意だ。キャラクター分析なんか楽しくて仕方ないし、個人的にこの役はやりやすい。
「……やっぱりすごいなぁ、いつもの麦野さんと全然違う人みたい」
ふとそんな声が耳に入る。部員の中の数人が話し込んでいるらしい。どれだけたくさんの演技をやってきていろんな役もやったけれど、その言葉は何度かけられてもうれしいものだった。
「でも、井間さんも今回気合入ってるよ~!見てよ!」
その瞬間、ほんの一瞬体が硬直したような気がした。気のせいだったかもしれないけれど、心にチクリと痛いものが刺さったのは確かだった。盗み聞きだったけれど、耳に入ったその言葉に従って私もゆりえちゃんの演技を横目で見てみようと思った。
「私、アイドルになりたいんです!……みんなに夢と希望を与えられる、そんなアイドルに!」
そう笑顔を浮かべる彼女が、まるで天使みたいに輝いて見えた。……つい、息をのんだ。彼女が、ゆりえちゃんじゃないように思えたからだ。いや違う、ゆりえちゃんじゃないように思えたんじゃない。彼女が、あまりにも脚本の主人公に重なりすぎていた。よく見れば、その瞳の輝きもなびく髪も声も確かにゆりえちゃんだ。その事実が私をどうしようもないほどの恐怖に襲わせた。変な汗が額ににじむ。一瞬でも、自分が主人公を演じるイメージを捨ててゆりえちゃんが主人公を演じているイメージを持ってしまったからだ。いや、彼女の演技が私にそんなイメージを持たせたのだと考えるほうが正しいだろう。……ゆりえちゃんは、もう私が知っているゆりえちゃんじゃないことに今更気づいたのだ。発声もうまくできず、演技は棒読みで、身振り手振りも小さかった、演技をしはじめたばかりのゆりえちゃんではないんだ。
「どう?麦野ちゃん!私の演技!」
「……っ」
「麦野ちゃん?」
「あっ、ごめんね!ちょっとぼーっとしてて…!うん、すごくよかったと思う!」
「えっ!本当!演技の上手な麦野ちゃんにそう言ってもらえるととっても嬉しいよ!」
彼女は心底嬉しそうに笑う。私も合わせるように笑ってみたけど、うまく笑えていたか自信がない。
「次の主役、もしかしたら井間さんかもね」
部室のどこかからそんな声が聞こえた。部室内のざわざわとした空気の中でその声はいとも簡単にかき消されてしまったから、誰がそれを言ったのかはわからない。しかしこの部活内に、そんなことを思う人間がいること自体私にとっては死活問題だった。
もっと、うまくならなきゃ。ゆりえちゃんなんて誰も眼中に入らないくらい、誰もが私が主役だと信じてやまないくらい、完璧で魅力的な演技をしなくちゃ。私は力強く掌を握りしめた。
それから、私はいままでにないくらいに練習した。
「ねぇ麦野ちゃん!今日一緒に帰ろう!」
「……ごめんね!私もうちょっと練習してから帰るから!」
「うん……わかった!頑張ってね!また明日!」
「また明日!」
毎日毎日下校時間のぎりぎりまで部室に残り、最後は私と他数人のやる気のある部員たちだけだった。主役オーディションまであと一週間。クオリティ的にはほぼ完璧。個人的にも最近の中ではとてもよく役作りできている気がする。
(これなら、確実に主役は私だ)
私には確固たる自信とそれを抱くにいたる過程がしっかりあった。もう、ゆりえちゃんなんかにおびえているあの日の私はここには居ない。
ついにオーディション当日だ。役ごとにオーディションが行われ、主人公役のオーディションでは10名以上のエントリーがあった。たかが高校の部活動内のたった一役の為のオーディションでこれだけ人数が集まることは、まさにイレギュラーだ。そしてその中に私と、ゆりえちゃんがいる。横目で彼女のことを見てみれば、緊張しているようで表情は固く、結んだ掌には汗がにじんでいるようだった。ゆりえちゃんもこちらに気づいたのか、目の色を変えてこちらへ振り向く。
「……!麦野ちゃん!今日は、頑張ろうね!」
「うん、ゆりえちゃんも頑張ってね!」
どうせ頑張っても無駄だと思うけどね、そう声に出そうとしてすんでのところでやめた。さすがにそれを言ってしまったら、人間として落ちるところまで落ちてしまうような気がしたから。それと、そのタイミングで部室に顧問は入ってきたというのも理由の一つかもしれない。
「よし、みんな集まったか。じゃあオーデションを始めるぞ」
人数が多いオーディションでは、順番をくじ引きで決める。別に私は順番がどうとかで演技が左右することはないが、そういう子も過去多かったらしく公平にくじで決めることにしたらしい。ひとりひとり箱の中から手作り感満載の薄っぺらいくじを引いていく。この瞬間からもう、冷たい緊張が空気を支配する。全員が引き終わったところで順番を確認する。私は最後から二番目らしい。
「ねぇねぇ、麦野ちゃん何番目だった?」
隣に座っていたゆりえちゃんが私にそう話しかけた。
「最後から二番目だったよ、ゆりえちゃんはどう?」
「最後から二番目?ってことは、私麦野ちゃんの次だ!」
「ゆりえちゃん最後だったんだ」
「うん!とっても緊張する……」
初めての主人公役のオーディションで一番最後とは。それには私も同情した。特に最初と最後はプレッシャーが大きい。演技を始めたばかりの頃の私も、最後を引き当ててしまった時には吐きそうなくらいに緊張していたことを思い出す。不安がる彼女に声をかけようとしてやめる。確かに彼女は友達ではあるが、この場に限ってはライバル。敵に塩を送るようなことはしたくなかった。
そしてついに、オーディションが始まった。その場にいる全員が全員主役を演じるためにやってきた努力の結晶を全力でぶつける。でもパっとしない演技ばかりだった。役に入り切れていない、発声がきれいじゃない、そもそもセリフを間違える。私の敵なんてむしろいないのではないかと思うほどひどかった。それでも審査をしなければならないため、顧問の先生は至極真面目そうな顔をして皆の演技を眺めている。退屈で仕方ないだろうな、と少し同情する。
「次、麦野」
「はい!」
ついに私の番が来たらしい。今日のコンディションは最高。できる。私はいつも通り完璧な演技をするだけだ。
「私、アイドルになりたいんです!……みんなに夢と希望を与えられる、そんなアイドルに!あの日、私に夢と希望を与えてくれたあのアイドルみたいに!だから私がここで歌い踊ることを、許してくれませんか……!」
幼いころから出来損ないだった主人公。歌って踊ることが好きだったが、幼稚な趣味だと他人に馬鹿にされてからは長らく触れていなかった。そんななか彼女はテレビでとあるアイドルのライブ映像を目にする。液晶画面のなかで踊る彼女に、主人公はどうしようもなく心奪われた。そしてテレビの奥のアイドルとふと目が合った瞬間、主人公の心の奥にしまわれていた夢が再び日の目を浴びたのだ。アイドルになりたい。そして思い立った彼女は高ぶった感情のままアイドルの養成事務所に入所する。しかし成績が振るわなかった彼女は退所を迫られる。そんな窮地に立たされた彼女が、夢をあきらめるわけにはいかないと必死に訴えかけている場面だ。彼女が抱いている焦燥、決意、それらをすべてぶつけるような、そんなイメージ。
顧問の先生はなんら変わらない顔で私の演技をみて、点数をつけていく。シーンとした部屋内に響くボールペンの音がいつもより冷たく聞こえる。
「じゃあ次、井間」
「はいっ!よろしくお願いします!」
私の番は無事終了し、次はゆりえちゃんの番だ。その姿は緊張で震えていた先ほどの姿とは打って変わり堂々としている。彼女はめいいっぱい大きな声で返事をして顧問の前に立つ。
「私、アイドルになりたいんです!……みんなに夢と希望を与えられる、そんなアイドルに!あの日、私に夢と希望を与えてくれたあのアイドルみたいに!だから私がここで歌い踊ることを、許してくれませんか……!」
……まぁそんなもんだよな、という感じだった。別に悪くはないが、上手くもない。悪い意味で普通。キャラクターの特徴はつかめているがそれどまり。あくまでキャラクターに似た演者であり、キャラクター自身には成り切れていない。
あぁ、心配して損した!そうだそうだ、ゆりえちゃんが私に勝てるわけがない。顧問だって、心底退屈そうに評価シートにボールペンを走らせている。
「これで主役オーディションは終了だ。結果は後日。今日はみんな帰っていいぞ」
はーいと部員各々返事をしたのを聞いて、顧問は部室から去っていった。
「き、緊張した~~~!主役オーディションってこんな感じなんだ!」
「ね!私も久しぶりに少し緊張した~」
「麦野ちゃんも緊張したりするんだ!えへへ、なんか意外」
「私をなんだと思ってるのよ!」
まともにゆりえちゃんと話したのはほんとうに久しぶりな気がする。
「結果、楽しみだね!」
「うん!」
そう心底楽しみだと言わんばかりの笑顔を浮かべるが、それが無意味であることを私はわかりきっていた。なぜなら彼女は主役にはなれないから。十中八九、私が主役になるから。
「よし、みんな集まったな。今から先日行われたオーディションの結果を発表する」
数日後、結果発表を行うからと顧問は部員たちを集めた。オーディションを受けた部員もそうでない部員たちも全員が息をのんで顧問の言葉を待った。ドキドキと心臓の音が脳内に響く。
「まずは主役の発表だ」
やはり重要な役であるから最初に発表されるらしい。どうせ、私に決まっている。
「主役は……井間ゆりえ」
……は?一瞬で私の頭は真っ白になった。
「えっ!わ、私ですか?ほんとうに?……っ、うれしいです!」
感極まったようでゆりえちゃんは泣きながら喜ぶ。周りの部員たちもそれを微笑ましそうにしながら見守り、各々拍手を捧げる。そんな中、私だけが何もできず言葉の一つもかけれぬまま立ち尽くしていた。
何故だ、何故だ、何故だ!!!!私が、私が主役になれないなんてことあるはずがない!私の演技は完璧だった!あの日の私は確かに主人公そのものだった!しかも主役はゆりえちゃんだって?そのほうがもっとありえない!まだゆりえちゃん以外なら私も納得できた!でもゆりえちゃんが主役だけは、ほんとうにありえない!あんな拙くて初心者丸出しの演技で、主役だなんて!顧問も気が狂ったか!正気であれば、正気であれば私以外ありえない!
気づけば、部室を飛び出していた。
「っ、麦野ちゃん!」
そう私を呼ぶゆりえちゃんの声が聞こえた気がした。気がしたけれど、気づかないふりをした。今の私は、ゆりえちゃんの声に耳を傾ける気になれなかった。
私はその日、部室を飛び出したまま学校に帰ることはなく家に帰った。そしてひたすら泣いた。それはゆりえちゃんなんかに主役の座を奪われた悔しさと屈辱と理不尽からだった。正当な努力をした者が評価されない世界、そんな世界に急に嫌気がさした。泣いて泣いて、涙が枯れたころ、次にふつふつと沸いてきたのはどうしようもない怒りだった。
「明日、顧問に文句いってやる……私がゆりえちゃんに負けるなんてありえない、って」
そして泣き疲れたのか、私はすぐに眠りについた。
「お、おはよう麦野ちゃん」
「……おはよ」
朝学校に着くや否や、ゆりえちゃんは私に話しかけてきた。その無神経さには目を見張るものがあるなとでも言ってやりたかったが、会話すら最小限に抑えたかったので適当な挨拶だけを返してそのまま立ち去った。その日の授業の内容は全くと言っていいほど覚えていない。ただただ無意味な時間が過ぎるのを待っていた。ただただ、顧問にどう文句を言ってやろうか考えていたのだ。
「じゃあみなさん、さようなら~」
終わった。やっとのことで終礼が終わった。そして私は一目散に教室を飛び出し、職員室に向かった。
「……先生、少し質問があります」
「どうした、麦野」
顧問の座るデスクに向かえば、コーヒー片手にパソコンに向かっている先生の姿があった。なんともないような顔をして私に問いかけるその顔に、わかっているくせにとでも言ってやりたい気持ちになった。だがさすがにほかの先生もいる空間でそんな馬鹿なまねはできないので、のどから出かかったもののグッと堪えた。
「オーディションのことで、聞きたいことがあります。……どうして私じゃなくて、ゆりえちゃんだったんですか」
「……キャラクター像に彼女が一番合っていると思ったからだ」
「それは、それは私にも理解できます。でも、だからと言ってあんな未熟な演者を主役に抜擢するなんてどうかしています」
「確かに彼女は未熟だ。しかしその未熟さをカバーできるほどの魅力が彼女にはある」
「なんだって言うんですか!演技の下手ささえもカバーできる魅力は!」
「……彼女から溢れ出る、未来への希望だよ」
「……は?」
未来への、希望?そんな曖昧で概念的なものに、私の10年間は否定されたのか?そんな根拠もない理由で、ゆりえちゃんは主役の座を勝ち取ったのか?
「馬っっっ鹿らしい!!なにが未来への希望だ!!そんなもので、そんなもので、私の努力が、霞んだとでも言うのか!!」
今度は堪えることはできなかった。ひたすら、感情をぶつけるように叫んで、泣いて、私は職員室から飛びだした。そのまま廊下を走って玄関を走り抜けて、学校さえも飛び出した。悔しい!悲しい!理不尽だ!そんなどこにも行き場のない感情が胸の中をぐるぐると渦巻く。
「あっ!君!危ないっ!」
そんな声が聞こえた次の瞬間、全身をとんでもない痛みが襲った。痛みは次第に熱となり全身を包んだかと思うと、私の意識は暗転した。意識が落ちる直前見えたのは、太陽に熱されたアスファルトと車のタイヤ、そして真っ赤に染まる地面だけだった。
目が覚めた。……知らない天井だ。こんなこと本当にあるんだと変なところで感心した。全身が痛い、腕を上げることすらままならなかった。ピッピッピッと無機質に心電図モニターから鳴る音が淡々と病室内に響きわたる。しばらくすれば息の上がった状態の母が扉を開けて病室に飛び込んできた。
「ねねっ!!よかった……!!目が覚めて……!!」
母はそれだけ言って私を強く抱きしめ、泣いた。状況も掴めないまま呆然としていれば、後から入ってきた看護師さんが私に説明をしてくれた。何やら私は車に轢かれて病院に運ばれ、かれこれ一週間昏睡状態に陥っていたらしい。無我夢中で走っていたから、気づかぬうちに道路に飛び出してしまったのだろう。あの日は冷静でなかったにしても、母に心配をかけるようなことをしてとても申し訳ないと思う。
それから様々な検査や治療をし、数週間後には無事に退院することになった。幸運なことに傷の跡も残らなければ、身体機能的な後遺症もなく、事故の前となんら変わらない生活を送ることが可能らしい。
「麦野、来週から部活来れそうか……?」
「すみません、まだ……」
「……そうだよな、うん。無理はするもんじゃないからな。今はゆっくり休養するんだぞ」
突然顧問から呼び出しをされたと思ったらそういうことだったらしい。私が学校に復帰してはや一か月。未だに部活に出向いたことは一度たりともない。それは気が乗らないからという大変幼稚な理由であったけれど、今の私には部活に参加しない大いな理由になりえた。
無事顧問から解放され帰路へ着こうとした瞬間、背後から私のことを呼び止めた人物がいた。
「……麦野ちゃん!」
ゆりえちゃんだ。
「なに、ゆりえちゃん」
「……麦野ちゃん、まだ部活来ないの?」
そう言うと思った。
「行かない」
「どうして?」
「気が乗らないから」
「……それだけ?」
「それだけって、なに?」
「だって麦野ちゃんの演劇への愛は……執着はそんなもんじゃないって、私よく知ってる。だから、気が乗らないなんて理由で演劇をしないなんてありえないと思った……から」
あぁ、この子は本当に私の癪に障ることを言うのがうまいなと感心する。ふつふつと心の底から怒りに似た感情が湧き上がってきた。……もう繕うのもやめようか、もう、彼女の友達でいるのもやめてしまおうか。
「……あんたに、何がわかるの」
「わかるよ!だって私、演劇部に入ってからずっと麦野ちゃんだけを見てきた!麦野ちゃんの背中だけを追ってきたの!」
「それで、私の背中を追ってきて追い越したから……、次は私を見下してんの?」
「は……、な、なに言って」
「だってそうでしょ!!だから今、私に説教じみた事言ってんでしょ!!」
「ち、違う!そんなつもりじゃ……っ!」
「この際だから教えてあげる!私があの日事故にあったのも、部活に行きたくないのも、全部あんたのせいよ!正当な努力もしなかったくせに私より評価されて!私がどれだけ苦しんだか、あなたにはわからないでしょ!」
もう本音をグッと飲み込む必要はないと思った。だから、いっそ全てを吐き出してしまおうか。
「そ、そんな、私、そんなつもりじゃ……!」
ゆりえちゃんは床に膝をついて、泣き出してしまった。彼女の大きな瞳からは大粒の涙がぽろぽろと零れた。遠くから見守っていた生徒や先生たちも、ゆりえちゃんが泣き出してしまったことで集まってきた。徐々に徐々に、騒ぎは大きくなっていく。
「……なに、次は私を悪者にするつもり?それとも自分が悲劇のヒロインぶりたいだけ?」
「ちが、ちがうの、麦野ちゃん、そんな、そんなじゃなくって」
「おい麦野、さっきから見ていたがなんだ!お前、井間に友達じゃないのか!ダチ泣かせるなんて……」
「……友達じゃない、たった今、友達やめたの」
私はゆりえちゃんにそう言い放った。ゆりえちゃんは何も言わなかった。ただただ淡々と涙と嗚咽を漏らすだけだった。それからすぐにその場を去った。辺りには人だかりができていたがとてもすんなりと帰れた。皆が私を避けていたからだろう。そして帰ってから、夜食も食わずにベッドに入った。けれど心にあるもやもやとした感情が邪魔をして、うまく眠れなかった。
次の日、私は退部届を提出した。ついでに学校も退学した。
理由は誰にも言わなかった。もちろん先生や両親にも。だけど、ここだけでいいから吐かせて。
私は、世界の理不尽さに絶望した。たかが高校生の部活でしょ?と思った人も多いでしょう。でも、私にとっては演劇が……それが全てだった。だから私の演技の否定は、私自身、そして私の人生そのものの否定と同義だった。そして、そんな凄まじい人格否定に耐えられるほど、私の心は強くなかった。と、いうか私に耐性がなかったというほうが正しいだろう。今日まで、私は演劇に関してまともな挫折も経験せずに生きてきた。演劇をしている大半の人間は演劇をはじめたばかりの頃に挫折を経験する。私の場合、その初めての挫折が先日の主役オーディションだった。たった、それだけの話。……だと高校生の私は思っていた。しかし世界はことごとく残酷だった。
高校を退学してすぐ、私は演劇をやめた。部活と並行してやっていた地元の劇団員としての活動もきっぱりとしなくなった。あの出来事があって、私の人生から演劇という一幕が消えた。聞いたは話では私の通っていた高校の演劇部は今年例年ないほどの好成績を収め、全国大会まで進出したらしい。まぁ、高校も退学し演劇もやめた私に、いまさら関係ないことだけれど。通信制高校に転入してからというもの、私は生きる意味を見失ったような感覚に陥った。毎日をただ無意味に消費するだけの日々は、ひどく退屈で、ひどく憂鬱だった。
そんなふうにダラダラと夢も希望もない生活を送り続けているうちに、気づけば私は大人になっていた。今は地元の町役場で働いている。特に面白みもないが、給料は安定しているし仕事自体も割と楽だ。しかし心にぽっかりと何かが空いたまま、漠然とした不安が胸に渦巻いていた。
ある日、テレビでゆりえちゃんの姿を見た。ゆりえちゃんは名監督の新作映画の主役に抜擢された新人女優として華々しく紹介されていた。高校生の頃から愛嬌もあり見た目もよかった彼女は、大人になって覇者がかかったのか、とてもきれいな女性になっていた。少女のような純粋のまま、大人な女性の力強さも手に入れた、まさに完璧な女優に……。その時、私の心に空いた穴の正体がわかった気がした。私は、私が自分の人生の主人公でなく、誰かの人生の舞台装置になることを恐れていたのだ。
「昔、憧れていた人がいたんです。今は……いろいろあって疎遠になっちゃったんですけど、私は今でもその人に憧れを抱き続けたままです」
薄い液晶画面の向こうで、それはもう雄弁に彼女は語る。その目は世界の理不尽さも闇もしらない、あの頃のゆりえちゃんのままだった。夢と希望に満ち溢れた、輝かしい目。
その目を見た瞬間、私は悟ってしまった。
私は、私の人生は、ゆりえちゃんの……あの子の舞台装置でしかなかったのだと。
そう褒められていい気にならない人間がどこにいるだろうか。きっとどこにも存在しない。両手で握った再生紙には「麦野ねね 合格」の文字が印刷されていた。私は先日脚本の主人公役を決めるための部内オーディションを受けてきた。さすが演劇強豪校なだけあって、部員たちのレベルは相当なものだ。下手すればそこらの劇団員や俳優なんかよりも上手な部員ばかりだった。そしてそんな中、私は堂々と合格をつかみ取ったのだ。
「そりゃあね、小学生のころから演技やってんだから!当然でしょ!」
えっへんとでも言いたげな顔で私は言って見せた。そうすれば目の前の彼女……井間ゆりえはふふふと笑った。
「やっぱり、麦野ちゃんはすごいね!前回の脚本の時も主役だったでしょ!」
前回だけではない。前々回もその前も、私は主役の座をつかみ取ってきたのだ。それは自分にとってのアイデンティティであったし、自信でもあり、努力は必ず実を結ぶのだという自分なりの証明でもあった。
しかし、それをよく思わない部員も数多く在籍している。
「……はぁ、また麦野さんが主役?意味わかんない、大して演技もうまくないくせに」
「きっとあれだよ、顧問のお気に入りなんだよ」
「はwwあの顏で??まじ笑えるww」
そんな風に本人がいるのに堂々と陰口を叩くような奴らもいる。本人が目の前にいるのでもはや陰口ではないが。別に私自身は何も気にしていない。最初のころはまぁ心を痛めたが、もう慣れきってしまった。私が、私の実力で勝ち取った役だ。言いたい奴には好きに言わせておけばいい。
「もう!あなたたち!そんなこと言って!」
「あー!ゆりえちゃんいいよそんな言わなくて!」
「でも……大切な友達が悪く言われてるの、ほっとけないよ!」
私の陰口を口にしていた部員たちに反論しようとするゆりえちゃんを必死に止め、なだめる。その気持ちを気概はとてもうれしいが、正直大事にはしたくない。
落ち着いたのか心機一転、ゆりえちゃんは目の色を変えて話し始めた。
「あっ!でも聞いてよ麦野ちゃん!」
「どうしたの、ゆりえちゃん」
「私ね、今回の脚本でまた役もらえたの!」
うれしい!と文字通り心底嬉しそうに彼女は笑った。その輝く瞳はまるで初めて虹を見た時の子供のように、溢れんばかりの光がともっていた。ゆりえちゃんは高校に入ってから演技を始めた初心者だ。入った理由はドラマでみた女優さんにあこがれたかららしい。しかし運悪くゆりえちゃんが入った演劇部は強豪。ぽっと出の初心者の実力で通用するほど甘くはなかった。最初のほうは役の一つももらえぬまま、照明や大道具なんかの裏方ばかりさせられていた。それなりに楽しかったしやりがいもあったが、やはり演技がしたくて入ったからには演技がやりたいと何度となく愚痴を零していた。そしてゆりえちゃんにはそれなりにセンスもあったらしく、努力の甲斐もあって最近は演技経験者も多い中役を獲得できるほどに成長した。
……ぶっちゃけ、私はゆりえちゃんを警戒している。それは彼女の人柄や性格がアレだからとかいうわけでは一切なく、単純に彼女の演劇のセンスを危惧している。だって彼女はほかの部員が積んだ数年にも及ぶ経験を、たった一年と数か月ぽっちでいとも簡単に蹴落としたのだ。そんな彼女が凡人であるはずがない。それこそ、まさに天才と呼ばれるに等しい人材だと嫌でも理解してしまう。
「私もいつか主役やってみたいな~」
そうのんきに彼女はつぶやく。本音は「そんなの無理だよ」と言ってやりたい。でも彼女の希望と夢に満ち溢れた目を見てしまったらそんなこと言えるわけがなかったし、それ以前に私を好いてくれている数少ない人間をこちらから突き放すようなことはしたくなかった。
最近、部室内がピリピリとしている。なんせ人数が多い為いくつかのグループができているのは仕方がないもの、一部例外を除き普段は基本的に部員同士の仲は良好だ。しかしこの時期になると皆どうしても気が張ってしまうのだ。理由は一つ、大会が近いからだ。まずは地区大会。私たちが住んでいるこの地区はいわば激戦区であり、強豪校であるわが校でもライバルは多い。しかし現在5年連続で県大会まで進出しており、前年度は地方大会まで進出できた。ちなみにその時の脚本の主役は私だ。私のおかげで地方大会まで進出できただなんて思っていない。しかし、私が主役を務めた演目で地方大会まで進出できたということを誇りには思っている。
ガラリ、と部室のドアが開けられる。タブレットと大量の紙の束を持った顧問が入ってきた。ざわざわと騒がしかった部室内が一気にシーンと静まり返る。
「お~いお前ら話聞け~、大会用の脚本持ってきたぞ~」
来た。今年も来てしまった。心の奥底からワッと湧き上がる感情がある。それはきっと競争心だとか闘争心だとかそういう類のものだと思う。今年も、私が主役の座を勝ち取る。誰もが羨ましがるたった一役を、私が!
顧問の先生が部員一人一人に脚本を配る。普段より少し丈夫に製本してあり、色画用紙で作られた表紙には暖かみのない無機質な文字で題名が記載されていた。ぱらり、とページをめくる。皆も同じようにするので部室内にはただひたすらにページをめくる音だけが響いた。
ある程度読み終えたところで冊子を閉じた。話の概要はこうだ。アイドルになるという夢を持った少女が道半ば挫折を繰り返し、最後には夢を叶えるというまぁ良くあるサクセスストーリーだ。少々現実味はないように思えるが、夢持つフレッシュな若者ばかりの舞台においてはある意味妥当だろうか。主人公はアイドルの養成事務所に入ったばかりの新人アイドル。歌やダンスの経験はこれまで無い、文字通りの初心者だ。
いけると思った。昔同じような役をやったこともあるし、中学生まではミュージカルもやっていたから歌やダンスも得意だ。今回も、私が主役に抜擢されるはずだという自負があった。
今回のオーディションへの意気込みをした私の隣で、ゆりえちゃんは目を輝かせていた。その瞳には夢と希望と決意がみなぎっている。挫折も闇も知らない、初心な少女の目。なんだか私には無縁なもので少しうらやましかった。なんの悩みもなさそうに未来への希望が詰まっているその瞳が。私はもうこの世界の闇を知ってしまった。だれもが私みたいに結果を出せるわけじゃない。何年も演技をやったのに主役どころか役のもらえない子、うまくできたと思った演技に酷評を食らって挫折した子、私は何人も見てきた。だから、ゆりえちゃんがまぶしくて仕方なかった。
「ねぇねぇゆりえちゃん、私今回頑張る!」
「うん、一緒に頑張ろうね!」
その日から、各々練習が始まった。
「私、アイドルになりたいんです!……みんなに夢と希望を与えられる、そんなアイドルに!」
私は毎日のように部室に通い練習を続けた。最初のほうはひたすらキャラクター分析をして必死に役作りをした。この場面の主人公はどんな心境だったのか、なぜそんな行動をとったのか、もし彼女ならこういう場面の時どんな反応をするのか。ひたすらノートにまとめて、麦野ねねではなくアイドルを目指す主人公に成りきろうとした。私自身役作りは得意だ。キャラクター分析なんか楽しくて仕方ないし、個人的にこの役はやりやすい。
「……やっぱりすごいなぁ、いつもの麦野さんと全然違う人みたい」
ふとそんな声が耳に入る。部員の中の数人が話し込んでいるらしい。どれだけたくさんの演技をやってきていろんな役もやったけれど、その言葉は何度かけられてもうれしいものだった。
「でも、井間さんも今回気合入ってるよ~!見てよ!」
その瞬間、ほんの一瞬体が硬直したような気がした。気のせいだったかもしれないけれど、心にチクリと痛いものが刺さったのは確かだった。盗み聞きだったけれど、耳に入ったその言葉に従って私もゆりえちゃんの演技を横目で見てみようと思った。
「私、アイドルになりたいんです!……みんなに夢と希望を与えられる、そんなアイドルに!」
そう笑顔を浮かべる彼女が、まるで天使みたいに輝いて見えた。……つい、息をのんだ。彼女が、ゆりえちゃんじゃないように思えたからだ。いや違う、ゆりえちゃんじゃないように思えたんじゃない。彼女が、あまりにも脚本の主人公に重なりすぎていた。よく見れば、その瞳の輝きもなびく髪も声も確かにゆりえちゃんだ。その事実が私をどうしようもないほどの恐怖に襲わせた。変な汗が額ににじむ。一瞬でも、自分が主人公を演じるイメージを捨ててゆりえちゃんが主人公を演じているイメージを持ってしまったからだ。いや、彼女の演技が私にそんなイメージを持たせたのだと考えるほうが正しいだろう。……ゆりえちゃんは、もう私が知っているゆりえちゃんじゃないことに今更気づいたのだ。発声もうまくできず、演技は棒読みで、身振り手振りも小さかった、演技をしはじめたばかりのゆりえちゃんではないんだ。
「どう?麦野ちゃん!私の演技!」
「……っ」
「麦野ちゃん?」
「あっ、ごめんね!ちょっとぼーっとしてて…!うん、すごくよかったと思う!」
「えっ!本当!演技の上手な麦野ちゃんにそう言ってもらえるととっても嬉しいよ!」
彼女は心底嬉しそうに笑う。私も合わせるように笑ってみたけど、うまく笑えていたか自信がない。
「次の主役、もしかしたら井間さんかもね」
部室のどこかからそんな声が聞こえた。部室内のざわざわとした空気の中でその声はいとも簡単にかき消されてしまったから、誰がそれを言ったのかはわからない。しかしこの部活内に、そんなことを思う人間がいること自体私にとっては死活問題だった。
もっと、うまくならなきゃ。ゆりえちゃんなんて誰も眼中に入らないくらい、誰もが私が主役だと信じてやまないくらい、完璧で魅力的な演技をしなくちゃ。私は力強く掌を握りしめた。
それから、私はいままでにないくらいに練習した。
「ねぇ麦野ちゃん!今日一緒に帰ろう!」
「……ごめんね!私もうちょっと練習してから帰るから!」
「うん……わかった!頑張ってね!また明日!」
「また明日!」
毎日毎日下校時間のぎりぎりまで部室に残り、最後は私と他数人のやる気のある部員たちだけだった。主役オーディションまであと一週間。クオリティ的にはほぼ完璧。個人的にも最近の中ではとてもよく役作りできている気がする。
(これなら、確実に主役は私だ)
私には確固たる自信とそれを抱くにいたる過程がしっかりあった。もう、ゆりえちゃんなんかにおびえているあの日の私はここには居ない。
ついにオーディション当日だ。役ごとにオーディションが行われ、主人公役のオーディションでは10名以上のエントリーがあった。たかが高校の部活動内のたった一役の為のオーディションでこれだけ人数が集まることは、まさにイレギュラーだ。そしてその中に私と、ゆりえちゃんがいる。横目で彼女のことを見てみれば、緊張しているようで表情は固く、結んだ掌には汗がにじんでいるようだった。ゆりえちゃんもこちらに気づいたのか、目の色を変えてこちらへ振り向く。
「……!麦野ちゃん!今日は、頑張ろうね!」
「うん、ゆりえちゃんも頑張ってね!」
どうせ頑張っても無駄だと思うけどね、そう声に出そうとしてすんでのところでやめた。さすがにそれを言ってしまったら、人間として落ちるところまで落ちてしまうような気がしたから。それと、そのタイミングで部室に顧問は入ってきたというのも理由の一つかもしれない。
「よし、みんな集まったか。じゃあオーデションを始めるぞ」
人数が多いオーディションでは、順番をくじ引きで決める。別に私は順番がどうとかで演技が左右することはないが、そういう子も過去多かったらしく公平にくじで決めることにしたらしい。ひとりひとり箱の中から手作り感満載の薄っぺらいくじを引いていく。この瞬間からもう、冷たい緊張が空気を支配する。全員が引き終わったところで順番を確認する。私は最後から二番目らしい。
「ねぇねぇ、麦野ちゃん何番目だった?」
隣に座っていたゆりえちゃんが私にそう話しかけた。
「最後から二番目だったよ、ゆりえちゃんはどう?」
「最後から二番目?ってことは、私麦野ちゃんの次だ!」
「ゆりえちゃん最後だったんだ」
「うん!とっても緊張する……」
初めての主人公役のオーディションで一番最後とは。それには私も同情した。特に最初と最後はプレッシャーが大きい。演技を始めたばかりの頃の私も、最後を引き当ててしまった時には吐きそうなくらいに緊張していたことを思い出す。不安がる彼女に声をかけようとしてやめる。確かに彼女は友達ではあるが、この場に限ってはライバル。敵に塩を送るようなことはしたくなかった。
そしてついに、オーディションが始まった。その場にいる全員が全員主役を演じるためにやってきた努力の結晶を全力でぶつける。でもパっとしない演技ばかりだった。役に入り切れていない、発声がきれいじゃない、そもそもセリフを間違える。私の敵なんてむしろいないのではないかと思うほどひどかった。それでも審査をしなければならないため、顧問の先生は至極真面目そうな顔をして皆の演技を眺めている。退屈で仕方ないだろうな、と少し同情する。
「次、麦野」
「はい!」
ついに私の番が来たらしい。今日のコンディションは最高。できる。私はいつも通り完璧な演技をするだけだ。
「私、アイドルになりたいんです!……みんなに夢と希望を与えられる、そんなアイドルに!あの日、私に夢と希望を与えてくれたあのアイドルみたいに!だから私がここで歌い踊ることを、許してくれませんか……!」
幼いころから出来損ないだった主人公。歌って踊ることが好きだったが、幼稚な趣味だと他人に馬鹿にされてからは長らく触れていなかった。そんななか彼女はテレビでとあるアイドルのライブ映像を目にする。液晶画面のなかで踊る彼女に、主人公はどうしようもなく心奪われた。そしてテレビの奥のアイドルとふと目が合った瞬間、主人公の心の奥にしまわれていた夢が再び日の目を浴びたのだ。アイドルになりたい。そして思い立った彼女は高ぶった感情のままアイドルの養成事務所に入所する。しかし成績が振るわなかった彼女は退所を迫られる。そんな窮地に立たされた彼女が、夢をあきらめるわけにはいかないと必死に訴えかけている場面だ。彼女が抱いている焦燥、決意、それらをすべてぶつけるような、そんなイメージ。
顧問の先生はなんら変わらない顔で私の演技をみて、点数をつけていく。シーンとした部屋内に響くボールペンの音がいつもより冷たく聞こえる。
「じゃあ次、井間」
「はいっ!よろしくお願いします!」
私の番は無事終了し、次はゆりえちゃんの番だ。その姿は緊張で震えていた先ほどの姿とは打って変わり堂々としている。彼女はめいいっぱい大きな声で返事をして顧問の前に立つ。
「私、アイドルになりたいんです!……みんなに夢と希望を与えられる、そんなアイドルに!あの日、私に夢と希望を与えてくれたあのアイドルみたいに!だから私がここで歌い踊ることを、許してくれませんか……!」
……まぁそんなもんだよな、という感じだった。別に悪くはないが、上手くもない。悪い意味で普通。キャラクターの特徴はつかめているがそれどまり。あくまでキャラクターに似た演者であり、キャラクター自身には成り切れていない。
あぁ、心配して損した!そうだそうだ、ゆりえちゃんが私に勝てるわけがない。顧問だって、心底退屈そうに評価シートにボールペンを走らせている。
「これで主役オーディションは終了だ。結果は後日。今日はみんな帰っていいぞ」
はーいと部員各々返事をしたのを聞いて、顧問は部室から去っていった。
「き、緊張した~~~!主役オーディションってこんな感じなんだ!」
「ね!私も久しぶりに少し緊張した~」
「麦野ちゃんも緊張したりするんだ!えへへ、なんか意外」
「私をなんだと思ってるのよ!」
まともにゆりえちゃんと話したのはほんとうに久しぶりな気がする。
「結果、楽しみだね!」
「うん!」
そう心底楽しみだと言わんばかりの笑顔を浮かべるが、それが無意味であることを私はわかりきっていた。なぜなら彼女は主役にはなれないから。十中八九、私が主役になるから。
「よし、みんな集まったな。今から先日行われたオーディションの結果を発表する」
数日後、結果発表を行うからと顧問は部員たちを集めた。オーディションを受けた部員もそうでない部員たちも全員が息をのんで顧問の言葉を待った。ドキドキと心臓の音が脳内に響く。
「まずは主役の発表だ」
やはり重要な役であるから最初に発表されるらしい。どうせ、私に決まっている。
「主役は……井間ゆりえ」
……は?一瞬で私の頭は真っ白になった。
「えっ!わ、私ですか?ほんとうに?……っ、うれしいです!」
感極まったようでゆりえちゃんは泣きながら喜ぶ。周りの部員たちもそれを微笑ましそうにしながら見守り、各々拍手を捧げる。そんな中、私だけが何もできず言葉の一つもかけれぬまま立ち尽くしていた。
何故だ、何故だ、何故だ!!!!私が、私が主役になれないなんてことあるはずがない!私の演技は完璧だった!あの日の私は確かに主人公そのものだった!しかも主役はゆりえちゃんだって?そのほうがもっとありえない!まだゆりえちゃん以外なら私も納得できた!でもゆりえちゃんが主役だけは、ほんとうにありえない!あんな拙くて初心者丸出しの演技で、主役だなんて!顧問も気が狂ったか!正気であれば、正気であれば私以外ありえない!
気づけば、部室を飛び出していた。
「っ、麦野ちゃん!」
そう私を呼ぶゆりえちゃんの声が聞こえた気がした。気がしたけれど、気づかないふりをした。今の私は、ゆりえちゃんの声に耳を傾ける気になれなかった。
私はその日、部室を飛び出したまま学校に帰ることはなく家に帰った。そしてひたすら泣いた。それはゆりえちゃんなんかに主役の座を奪われた悔しさと屈辱と理不尽からだった。正当な努力をした者が評価されない世界、そんな世界に急に嫌気がさした。泣いて泣いて、涙が枯れたころ、次にふつふつと沸いてきたのはどうしようもない怒りだった。
「明日、顧問に文句いってやる……私がゆりえちゃんに負けるなんてありえない、って」
そして泣き疲れたのか、私はすぐに眠りについた。
「お、おはよう麦野ちゃん」
「……おはよ」
朝学校に着くや否や、ゆりえちゃんは私に話しかけてきた。その無神経さには目を見張るものがあるなとでも言ってやりたかったが、会話すら最小限に抑えたかったので適当な挨拶だけを返してそのまま立ち去った。その日の授業の内容は全くと言っていいほど覚えていない。ただただ無意味な時間が過ぎるのを待っていた。ただただ、顧問にどう文句を言ってやろうか考えていたのだ。
「じゃあみなさん、さようなら~」
終わった。やっとのことで終礼が終わった。そして私は一目散に教室を飛び出し、職員室に向かった。
「……先生、少し質問があります」
「どうした、麦野」
顧問の座るデスクに向かえば、コーヒー片手にパソコンに向かっている先生の姿があった。なんともないような顔をして私に問いかけるその顔に、わかっているくせにとでも言ってやりたい気持ちになった。だがさすがにほかの先生もいる空間でそんな馬鹿なまねはできないので、のどから出かかったもののグッと堪えた。
「オーディションのことで、聞きたいことがあります。……どうして私じゃなくて、ゆりえちゃんだったんですか」
「……キャラクター像に彼女が一番合っていると思ったからだ」
「それは、それは私にも理解できます。でも、だからと言ってあんな未熟な演者を主役に抜擢するなんてどうかしています」
「確かに彼女は未熟だ。しかしその未熟さをカバーできるほどの魅力が彼女にはある」
「なんだって言うんですか!演技の下手ささえもカバーできる魅力は!」
「……彼女から溢れ出る、未来への希望だよ」
「……は?」
未来への、希望?そんな曖昧で概念的なものに、私の10年間は否定されたのか?そんな根拠もない理由で、ゆりえちゃんは主役の座を勝ち取ったのか?
「馬っっっ鹿らしい!!なにが未来への希望だ!!そんなもので、そんなもので、私の努力が、霞んだとでも言うのか!!」
今度は堪えることはできなかった。ひたすら、感情をぶつけるように叫んで、泣いて、私は職員室から飛びだした。そのまま廊下を走って玄関を走り抜けて、学校さえも飛び出した。悔しい!悲しい!理不尽だ!そんなどこにも行き場のない感情が胸の中をぐるぐると渦巻く。
「あっ!君!危ないっ!」
そんな声が聞こえた次の瞬間、全身をとんでもない痛みが襲った。痛みは次第に熱となり全身を包んだかと思うと、私の意識は暗転した。意識が落ちる直前見えたのは、太陽に熱されたアスファルトと車のタイヤ、そして真っ赤に染まる地面だけだった。
目が覚めた。……知らない天井だ。こんなこと本当にあるんだと変なところで感心した。全身が痛い、腕を上げることすらままならなかった。ピッピッピッと無機質に心電図モニターから鳴る音が淡々と病室内に響きわたる。しばらくすれば息の上がった状態の母が扉を開けて病室に飛び込んできた。
「ねねっ!!よかった……!!目が覚めて……!!」
母はそれだけ言って私を強く抱きしめ、泣いた。状況も掴めないまま呆然としていれば、後から入ってきた看護師さんが私に説明をしてくれた。何やら私は車に轢かれて病院に運ばれ、かれこれ一週間昏睡状態に陥っていたらしい。無我夢中で走っていたから、気づかぬうちに道路に飛び出してしまったのだろう。あの日は冷静でなかったにしても、母に心配をかけるようなことをしてとても申し訳ないと思う。
それから様々な検査や治療をし、数週間後には無事に退院することになった。幸運なことに傷の跡も残らなければ、身体機能的な後遺症もなく、事故の前となんら変わらない生活を送ることが可能らしい。
「麦野、来週から部活来れそうか……?」
「すみません、まだ……」
「……そうだよな、うん。無理はするもんじゃないからな。今はゆっくり休養するんだぞ」
突然顧問から呼び出しをされたと思ったらそういうことだったらしい。私が学校に復帰してはや一か月。未だに部活に出向いたことは一度たりともない。それは気が乗らないからという大変幼稚な理由であったけれど、今の私には部活に参加しない大いな理由になりえた。
無事顧問から解放され帰路へ着こうとした瞬間、背後から私のことを呼び止めた人物がいた。
「……麦野ちゃん!」
ゆりえちゃんだ。
「なに、ゆりえちゃん」
「……麦野ちゃん、まだ部活来ないの?」
そう言うと思った。
「行かない」
「どうして?」
「気が乗らないから」
「……それだけ?」
「それだけって、なに?」
「だって麦野ちゃんの演劇への愛は……執着はそんなもんじゃないって、私よく知ってる。だから、気が乗らないなんて理由で演劇をしないなんてありえないと思った……から」
あぁ、この子は本当に私の癪に障ることを言うのがうまいなと感心する。ふつふつと心の底から怒りに似た感情が湧き上がってきた。……もう繕うのもやめようか、もう、彼女の友達でいるのもやめてしまおうか。
「……あんたに、何がわかるの」
「わかるよ!だって私、演劇部に入ってからずっと麦野ちゃんだけを見てきた!麦野ちゃんの背中だけを追ってきたの!」
「それで、私の背中を追ってきて追い越したから……、次は私を見下してんの?」
「は……、な、なに言って」
「だってそうでしょ!!だから今、私に説教じみた事言ってんでしょ!!」
「ち、違う!そんなつもりじゃ……っ!」
「この際だから教えてあげる!私があの日事故にあったのも、部活に行きたくないのも、全部あんたのせいよ!正当な努力もしなかったくせに私より評価されて!私がどれだけ苦しんだか、あなたにはわからないでしょ!」
もう本音をグッと飲み込む必要はないと思った。だから、いっそ全てを吐き出してしまおうか。
「そ、そんな、私、そんなつもりじゃ……!」
ゆりえちゃんは床に膝をついて、泣き出してしまった。彼女の大きな瞳からは大粒の涙がぽろぽろと零れた。遠くから見守っていた生徒や先生たちも、ゆりえちゃんが泣き出してしまったことで集まってきた。徐々に徐々に、騒ぎは大きくなっていく。
「……なに、次は私を悪者にするつもり?それとも自分が悲劇のヒロインぶりたいだけ?」
「ちが、ちがうの、麦野ちゃん、そんな、そんなじゃなくって」
「おい麦野、さっきから見ていたがなんだ!お前、井間に友達じゃないのか!ダチ泣かせるなんて……」
「……友達じゃない、たった今、友達やめたの」
私はゆりえちゃんにそう言い放った。ゆりえちゃんは何も言わなかった。ただただ淡々と涙と嗚咽を漏らすだけだった。それからすぐにその場を去った。辺りには人だかりができていたがとてもすんなりと帰れた。皆が私を避けていたからだろう。そして帰ってから、夜食も食わずにベッドに入った。けれど心にあるもやもやとした感情が邪魔をして、うまく眠れなかった。
次の日、私は退部届を提出した。ついでに学校も退学した。
理由は誰にも言わなかった。もちろん先生や両親にも。だけど、ここだけでいいから吐かせて。
私は、世界の理不尽さに絶望した。たかが高校生の部活でしょ?と思った人も多いでしょう。でも、私にとっては演劇が……それが全てだった。だから私の演技の否定は、私自身、そして私の人生そのものの否定と同義だった。そして、そんな凄まじい人格否定に耐えられるほど、私の心は強くなかった。と、いうか私に耐性がなかったというほうが正しいだろう。今日まで、私は演劇に関してまともな挫折も経験せずに生きてきた。演劇をしている大半の人間は演劇をはじめたばかりの頃に挫折を経験する。私の場合、その初めての挫折が先日の主役オーディションだった。たった、それだけの話。……だと高校生の私は思っていた。しかし世界はことごとく残酷だった。
高校を退学してすぐ、私は演劇をやめた。部活と並行してやっていた地元の劇団員としての活動もきっぱりとしなくなった。あの出来事があって、私の人生から演劇という一幕が消えた。聞いたは話では私の通っていた高校の演劇部は今年例年ないほどの好成績を収め、全国大会まで進出したらしい。まぁ、高校も退学し演劇もやめた私に、いまさら関係ないことだけれど。通信制高校に転入してからというもの、私は生きる意味を見失ったような感覚に陥った。毎日をただ無意味に消費するだけの日々は、ひどく退屈で、ひどく憂鬱だった。
そんなふうにダラダラと夢も希望もない生活を送り続けているうちに、気づけば私は大人になっていた。今は地元の町役場で働いている。特に面白みもないが、給料は安定しているし仕事自体も割と楽だ。しかし心にぽっかりと何かが空いたまま、漠然とした不安が胸に渦巻いていた。
ある日、テレビでゆりえちゃんの姿を見た。ゆりえちゃんは名監督の新作映画の主役に抜擢された新人女優として華々しく紹介されていた。高校生の頃から愛嬌もあり見た目もよかった彼女は、大人になって覇者がかかったのか、とてもきれいな女性になっていた。少女のような純粋のまま、大人な女性の力強さも手に入れた、まさに完璧な女優に……。その時、私の心に空いた穴の正体がわかった気がした。私は、私が自分の人生の主人公でなく、誰かの人生の舞台装置になることを恐れていたのだ。
「昔、憧れていた人がいたんです。今は……いろいろあって疎遠になっちゃったんですけど、私は今でもその人に憧れを抱き続けたままです」
薄い液晶画面の向こうで、それはもう雄弁に彼女は語る。その目は世界の理不尽さも闇もしらない、あの頃のゆりえちゃんのままだった。夢と希望に満ち溢れた、輝かしい目。
その目を見た瞬間、私は悟ってしまった。
私は、私の人生は、ゆりえちゃんの……あの子の舞台装置でしかなかったのだと。
