十七分の二拍子

ジメジメと暑い夏の日だった。七月中旬の朝、今日は朝練があるのに寝坊した。あいつは一分でも遅れたらネチネチ言うから、ちょっとチャリを飛ばしすぎたんだと思う。
右から来るトラックも見えないくらい急いでて。最後に見えたのはトラックのナンバー。パーというクラクションの腑抜けた音がやけに耳に響いた。ぶつかったときのことは覚えてない。多分、痛かったと思う。
そんなこんなで呆気なく死んでしまった。まず思ったのは家族のこと。まだ何も返せてないのになって後悔が一番に来た。それで次はコンクール…厳密に言うとあいつのこと。こんなときまであいつのこと思い出すのかよってコンクリートとチカチカする視界と、周りの悲鳴を聞きながら思った。
目が覚めたなって感覚がした。え?死んだのに?そう思って自分の手を見ると、地面が透けていた。なるほどこれが幽霊というやつかなんて妙に冷静に理解した。辺りを見渡す。やけにモノクロなのは幽霊仕様の視界ではなく実際白と黒ばかりなようだ。分かった。葬式だ。ふよふよと浮く感覚に慣れないながら会場に入るとデカデカと俺の写真が中央に置かれていた。自分の遺影ってこんな感じなのか。この写真ちょっと変な笑い方してるからあんまり使って欲しくなかったな。次に参列者を見た。家族、先生、クラスメイト…みんな浮かない表情をしていた。自分はいなくなったらみんな落ち込んでくれるほどの存在ではいれたのだと思うと、まあこの人生悪くなかったかもなとも思う。もう死んでしまったものはしょうがない。良い人生だったと思うしかないのだ。
一番反応を見たいあいつだけがいなかった。会場色んなところを見てもいない。まさかあいつ欠席か?なんて思ったその瞬間、誰もいない会場の外でしゃがみ込むあいつを見つけた。
あーあー、こんなに泣いて。ボンボンの箱入り息子で、いつも規則が効率がと生意気にインテリぶるあいつがこんなにもしおらしくなって泣いている。いつもきちんと一番上まで閉めてるボタンも今日は二つも外し、ネクタイも乱暴に緩められていた。
出会ったのは二年前の春、吹奏楽部の体験入部で出会った。仲良くなろうとしても全部スルーされて、本気でムカついたな。こんなやつと吹くなんてまっぴらごめんだと思った矢先、俺たちはトランペットとして吹奏楽部に迎え入れられた。仕方ないからもう一度歩み寄ったら「馴れ合う気はないから」なんてお前が言うから思わず胸ぐら掴んじゃって。さすがに先輩に止められたけど、俺らは三年間ずっとこうやっていくんだと思ったら本気で頭が痛くなった。でも、意外とそうでもなかったんだよな。勉強はできるくせにものを知らなかったお前を色んなとこに連れて行ったよな。ラーメン食べて、ボーリング行って。馴れ合う気はないなんて言ってたくせに楽しそうにするお前が弟みたいでもっと色んなこと教えたくなった。部活でもお前は実力があったし、日々努力を重ねていた。朝練は起きるのしんどいしって思ってたけど毎日朝練行くお前を見て負けてらんねえって俺も朝練始めた。なかなか上手くならなくて焦ってたときお前は「前行ったやつ行こうよ」なんて不器用に遊びに誘ってくれて。飯食いながら「焦らなくていいから」なんて、お前には全部見透かされてんだなって思った。でも俺だってお前のことちゃんと分かってたから。親と揉めて部活辞めさせられそうになったとき、お前は隠そうとしてたけど俺はもちろん気づいた。部活終わり学校の自販機の前でジュース一本飲みながら二時間くらい話したよな。そのときお前が言った「お前とコンクール出たい」って言葉、本当はめちゃくちゃ嬉しかった。
なあ、親説得して部活続けられるようになったのにな。コンクールまでもうすぐだったのにな。あともうちょっと詰めるだけだったのにな。俺ら、二年かけて親友になったのにな。今は泣いているお前の背中をさすることも声を掛けることもできない。緊張しいなお前を本番前に落ち着かせてやってたのは俺なのに、お前これからどうするんだよ。
「コンクール、一緒に出るんじゃなかったの」
あいつがギリ、と地面を引っ掻いた。爪に砂入るぞ、と止めようとして今の俺にはできないことに気づいた。
「次は豚骨ラーメン行く約束してたのに」
塩もいいけど結局豚骨なんだよな。
「誕生日近いからお前が欲しがってたスニーカー、もう買ってるのに」
もらったとしても同じくらいの金額のものは返せないから要らないって言ったのに買ってたのかよ。
「ボーリングが上手くなるコツみたいな動画も見たのに」
お前ほんと下手だったもんな。
「いっぱい約束してたのに、なんでなにもしないまま死んじゃうんだよ」
いつも生意気に響くその声がか弱く震えていた。そんな声、今までで一度も聞いたことがなかった。
やり切れなくて思わず抱きしめた。抱きしめたといっても腕で輪っかをつくっているだけだ。それでもよかった。抱きしめてもお前の匂いも感触も、なにもない。思い出せない。そういえば俺たちは抱き合ったことなんてなかった。一度くらい抱きしめておけばよかった。なんて、気持ち悪い後悔をした。
良い人生なわけあるか。十七歳で死んで、二年、たった二年じゃない。十七分の二。その時間を使ってゆっくり親友になったこいつとの約束を一つも守れず、こいつが唯一言った「一緒にコンクールに出たい」という願いさえ叶えられなかったんだ。こいつともう一回ラーメン食べたかった。美味そうに食べるこいつの顔が見たかった。こいつが買ってくれたスニーカーが履きたかった。ボーリングが上達したこいつのプレーが見たかった。ステージの上の熱いライトに照らされながら、こいつの横顔を見たかった。大人になったこいつと酒を飲んで、最初は喧嘩ばっかりだったよななんて思い出話がしたかった。
でももう俺に未来はない。全部叶わないものになってしまったんだ。更にぎゅっと腕に力を込めても、やっぱり何もなかった。
しばらくすると顧問があいつに話しかけた。そろそろ式が始まるらしい。肩を支えられながら会場に入るあいつを地につかない足でゆっくり追いかけた。
葬式なんて数年ぶりだ。一番最近行ったのは顔もわからない親戚のおじさんのお葬式。あれから次の葬式が自分だなんて思いもしなかった。きっと有難いのであろうお経は紛れもなく俺に向けられているのにどこか他人事みたいだった。それよりもずっと俯いたままのあいつのことが心配でずっと背中をさすった。もちろん空を撫でているだけだ。あいつの体温は感じられない。それでも、ずっと傍にいた。
いよいよクライマックスとでも言うのだろうか。そろそろ俺は焼かれるらしい。みなが花やら思い出の品やらを棺に入れてくれる。家族は俺の写真をいっぱい入れてくれたみたいだ。クラスメイトの佐藤は俺が大好きなお菓子を、顧問はスコアを入れていた。
あいつは何を入れるんだろう。そう思ってあいつを探すと、数枚の紙を持っていた。楽譜だ。今年の自由曲の、トランペットのファースト。俺がした書き込みがびっしり詰まっている。冒頭はトランペットソロ。何度も何度も吹いたフレーズ。
あいつは遺体の俺を見て、嗚咽を漏らした。待て、お前、それ俺と一緒に燃やす気か。じゃあコンクールで誰がソロ吹くんだよ。誰がファーストやるんだよ。
あいつは目に涙を溜めて、俺の棺に楽譜を置いた。それを見て俺は走った。走れてないけど、走った。
「それはお前が吹くんだよ!!」
力の限り叫んでも誰にも聞こえない。分かってるけど、言わなきゃ気が済まなかった。
そのとき。
どこからも風なんて吹いてないのに、急に楽譜がふわりと舞ってあいつの足元に落ちた。楽譜の三枚目の裏、殴り書きした「あいつとコンクールに出る!!」の文字。…そういやそんなの書いたな。いつ書いたかなんて覚えてないけど確かに俺の字で書いてあった。
あいつはそれを拾い上げて、ふは、と笑った。どこに書いてんだよ、って小さく呟いた。三枚目の裏なんて見ることないからそこを選んだんだろうと思う。これをあいつに見られるのはさすがに恥ずかしいから。あいつは六枚の楽譜を見てから、俺の棺に花だけを置いた。そして楽譜を大事そうに持って歩き出す。顧問は帰ってきたあいつの肩を叩いた。「やれよ」。いつもの顧問の励まし方だ。あいつは力強く頷いた。
はっと目覚めた感覚がした。しんと静まった場所。なんだここ?あれ?さっきまで葬式だったのに…
その時、視界に見慣れた背中が思い切り指揮棒を振り上げたのが見えた。そして耳に入ったのは俺が何度も何度も吹いたトランペットソロの一音目だった。楽器を構えているのはあいつだけ。コンクールだ。自由曲。大丈夫か、という心配が何よりも先行した。緊張して失敗なんてしたら…
そう思ったがあいつは案外余裕そうな顔をしていた。驚いている俺を置いて、俺が苦戦したフレーズも難なくクリア。最後の高音もばっちり出してソロはノーミスで終了した。隣の後輩は安心したようだったがあいつは表情を変えなかった。
自由曲は更に磨き抜かれ、俺の知らないレベルまで到達していた。何度も聞いてきた俺でさえため息が出るほど美しい演奏で、最後に顧問が指揮棒を下ろすまでずっと夢中になっていた。
演奏終了後立ち上がった部員たち。その表情は晴れ晴れとしていた。俺も思わず拍手をしているとあいつがこっちを見ているような気がした。え?そう思う暇もなくあいつはニヤ、と生意気ないつもの顔をした。
「お前がいなくたって大丈夫」
そう伝えたいらしい。
なんだ、俺の親友は俺が思うよりずっと強かったんだ。ああでもそうだな。やっぱり、お前の隣でその顔が見たかった。
ステージを出るあいつの足元であいつが悪趣味だと顔をしかめた蛍光色のスニーカーがステージの光をキラキラと反射していた。その光を追いかけるように俺は空へとのぼっていった。