「……ああ……
自分の身体だ……なんて気持ちいいんだろう!」
その顔が、晴ればれと笑った。
栞は楽しげに、その場をくるくると回る。
身動きできずにいる私に気づき、栞はパッと微笑んだ。
「あなたね? 私を助けてくれたのは。
ありがとう、本当に」
さっきから発せられる言葉を聞いていれば、嫌でも気づく。
今目の前で喋っているのは、栞じゃない、と。
「あ、あなた、誰よ……
栞……栞は!?」
「私は、みよ。——と言っても、それはもうずっと昔に使ってた名前。今日からは、藤倉栞。
今までの栞ちゃんは、これよ」
彼女は、さっき吐き出された血の塊をさらりと指差す。
「…………」
言葉を失った私の頭にポンと手を置き、栞の顔をした女は優しく微笑んだ。
「大丈夫。私は、友達を虐めたりなんかしない。
彼女は、もういないの。だから安心して」
全身に寒気が走った。
栞の中に、別の魂が入ったのだ。
——栞の魂を、食い殺して。
「これからは仲良くしようね、穂花」
「な、なんで、私の名前……」
「あははっ、栞ちゃんの記憶もそっくりもらってるんだから当たり前でしょ?
これまで長い時間地中に閉じ込められて、本当に苦しかったの。
私は、藤倉栞。改めてよろしく!
あ、こんな時間だ。ママが心配するから、私帰るね」
彼女は朗らかにそう言って鞄を拾うと、スカートを翻し軽やかに庭を出て行った。
——栞だ。
声も、話し方も、仕草も、何もかも。
その時、背後から不意に肩を触られ、私の心臓は縮み上がった。
「きゃあぁっ……!」
「私だよ」
昨日の老婆が、後ろに立って微笑んでいた。
「何が起こったか……見たかい?」
「……
ど、どういう事ですか……ちゃんと説明してください……」
「言ったろう? あんたの希望を叶えてやるって。
その通りになっただけの話さ。
これはね、秘密の木の実なんだ。
この館は、古くから何代も続いた裕福な家だった。
けれど、この家の規律はひどく厳格でね。使用人の失敗や罪に対しても、異常なほどに厳しかった。
大きな粗相《そそう》をしたり、規律を守れなかった使用人は、この家の代々の主人に容赦なく斬り殺された。
必死に働いた末に殺された哀れな使用人達が、この下に大勢埋まっているのさ。
——幼い頃に私が祖母から聞いた話だから、随分昔のことだが」
じゃあ、あの「みよ」も——かつて殺された使用人の一人なんだ。
恐ろしさに、私の脇を冷たい汗がつうっと流れる。
「けれど、六十年ほど前かね……この家の者が、突然苦しみもがきながら皆ばたばたと死んだ。
原因は不明。いくら調べても、何一つわからずじまいだった。
私は貧乏な家の娘だったから、空き家になったこの家の立派な庭にこっそり入り込んで一人で遊ぶのが好きだった。絶対に入ってはだめだと、大人たちには固く言われていたけどね。
遊んでいるうちに、この木の美味しそうな実を見つけた。そうしたら、なぜか我慢ができなくてね。勝手に手が伸び、一粒食べてしまった。
その途端、この木の声が耳の奥で響き出したのさ。
『無数の怨念が、とうとう治まらなくなった。私達をここから救ってくれ。お前が消したい人間をここへ連れてきて、実を一粒食べさせろ』とね。
消したい人間はすぐに思い浮かんだよ。
私を見るたび『貧乏人! 寄るな!』と石を投げつけた金持ちの家の少年がいてね。彼に、秘密の木の実をこっそり教える、と言ったら、あっさりついてきた。
あいつが実を食べた途端、今と同じことが起こった。
最初は恐ろしいことをしてしまった気がして、怖かったけどね……そんな恐怖も、すぐに消え去った。
性根の腐った魂を、救われない哀れな魂と入れ替えるなんて、素晴らしいじゃないか?
私は、これまでに七人入れ換えた。汚れた魂と、無念のまま殺された魂とをね」
高ぶった何かを鎮めるようにふうっと細い息を一つつき、老婆は続けた。
「この秘密は誰にも漏らすなと、ずっとこの木に言われていた。
けれど、木はどうやら私の寿命を知ったのか、そろそろ秘密を引き継げる子供を連れてこい、と言われてね。
私の見つけたその子供が、あんただよ。
不思議なことに、この木は一年中実をつけるんだ。
地面の下の魂たちを、これからはあんたが助けてやっておくれ。
この秘密を引き継いでもいい、という気になったら、またここへおいで。
ただし——
秘密を引き継ぐ気がないなら、この事は誰にも喋るんじゃないよ。
そして、ここには二度と入るな。
守れなければ、あんたも足元の栞ちゃんと同じになるからね」
そう言うと、老婆はすうっと目を細くして私に微笑んだ。
家に帰り、ベッドに入ってからも、私は恐ろしくて眠ることができなかった。
栞を、殺した。
私が、栞を殺してしまった……!
けれど、一晩中ガチガチと震えた夜が明けると、私の心はなぜかすっと静まり、今度は不思議な満足感に満たされた。
私は、悪い事などしていない。
他人を虐めて楽しむ人間を、懲らしめただけ。
悪いのは、栞。自業自得だ。
それに、あの地面の下に閉じ込められた可哀想な魂たちは、どうやら乗り移った本人になりきって暮らせる力があるようだ。
中の魂が別人に入れ替わったなどとは、多分誰も絶対に気づかない。
栞が消えたことなど、誰一人、気づかないのだ。
私のした事は、正しい。
そして今日から、私を虐める者はいない。
虐めにおびえることのない日々が始まるんだ。
友達と笑い合える、明るい日々が。
でも——そんな夢のようなこと、本当に起こるのだろうか?
そもそも、昨日起こったことは、現実?
私の脳は混乱し、制服に着替える掌はいつしかおかしな汗をじっとりとかいていた。
「おはよう!」
恐る恐る教室へ入った私に、いきなり爽やかな挨拶が飛んできた。
栞の声だ。
私はギクリと身構えた。
「昨日はありがとね、穂花」
栞は、明るい笑顔で私へ近づいてくる。
やっぱり、栞の中には、違う女がいる。——地中から解き放たれた「みよ」が。
「——お、おはよ……」
恐怖やら不安やらが入り混じり、私は小さくそう返す。
「咲。
今までひどいことして、ほんとごめん!」
私の前で突然ガバッと頭を下げた栞に、いつもの取り巻きの女子達が驚いた目で私達を見た。
「これからは、私達、仲良くしよ。ね?
みんなも、私と同じ気持ちだよね?」
「……え……それは、もちろん……」
女子たちが、どこか戸惑うように顔を見合わせながら頷く。
「じゃあほら、みんなも謝っちゃいなよ、穂花に」
「……穂花、ごめん。今までいろいろ」
「私も……ごめんね」
栞の一声で、クラスの空気が見る間に変わっていく。
私は、温かな笑顔の輪の中に包まれた。
その日は、それまでの私の中学校生活の中で、一番穏やかで幸せな日になった。
「じゃあね、穂花」
帰り道、栞は爽やかな笑顔で私に手を振る。
「うん、また明日」
私は、元気に手を振り返した。
こんな平和な時間が、私にやってくるなんて。
栞の中のみよは、強くて優しい。
そして——栞は、本当にもういないんだ。
殺してやりたいほど憎かったあのクラスメイトは、本当に死んだのだ。
あの実のおかげで。
私の決意は、固まった。
明日、あの庭に行こう。
秘密を私が引き継ぐと、老婆に伝えよう。
そうすれば——これからは、私を不幸にする人間を、この世から消すことができる。
消したい人間を、思うままに消し去れるのだ。
誰にも知られずに。
私の心は、気づけばすっかり明るい色に塗り替えられていた。
昨夜の恐怖が、まるで錯覚だったかのように。
翌日の夕方。
館の庭で決意を告げた私に、老婆は静かに頷いた。
そして、あの木の実を一粒枝から摘むと、私に差し出した。
「さあ、これをお食べ。
そうすれば、この秘密はあんただけのものになる。
この木の言葉が、聴こえるようになるよ——」
勇気を奮い起こしてその実を口に入れた私を見ながら、老婆がにいっと口元を引き上げた。
その日から。
ずっと、私の耳の奥で声がする。
日没と共に、次第に大きく騒ぎ出す。
あの木の声が——男や女の、無数の呟きが。
早く、早くと。
暗がりの鏡の中の私の顔が、あの老婆の皺深い顔に見えて、ぞっとする時があるけれど——それは、きっと気のせいだ。
さあ。
次は、誰を庭に招こう?
学校帰りのあの道で、後ろから声をかけられないよう——あなたも、どうぞ気をつけて。
自分の身体だ……なんて気持ちいいんだろう!」
その顔が、晴ればれと笑った。
栞は楽しげに、その場をくるくると回る。
身動きできずにいる私に気づき、栞はパッと微笑んだ。
「あなたね? 私を助けてくれたのは。
ありがとう、本当に」
さっきから発せられる言葉を聞いていれば、嫌でも気づく。
今目の前で喋っているのは、栞じゃない、と。
「あ、あなた、誰よ……
栞……栞は!?」
「私は、みよ。——と言っても、それはもうずっと昔に使ってた名前。今日からは、藤倉栞。
今までの栞ちゃんは、これよ」
彼女は、さっき吐き出された血の塊をさらりと指差す。
「…………」
言葉を失った私の頭にポンと手を置き、栞の顔をした女は優しく微笑んだ。
「大丈夫。私は、友達を虐めたりなんかしない。
彼女は、もういないの。だから安心して」
全身に寒気が走った。
栞の中に、別の魂が入ったのだ。
——栞の魂を、食い殺して。
「これからは仲良くしようね、穂花」
「な、なんで、私の名前……」
「あははっ、栞ちゃんの記憶もそっくりもらってるんだから当たり前でしょ?
これまで長い時間地中に閉じ込められて、本当に苦しかったの。
私は、藤倉栞。改めてよろしく!
あ、こんな時間だ。ママが心配するから、私帰るね」
彼女は朗らかにそう言って鞄を拾うと、スカートを翻し軽やかに庭を出て行った。
——栞だ。
声も、話し方も、仕草も、何もかも。
その時、背後から不意に肩を触られ、私の心臓は縮み上がった。
「きゃあぁっ……!」
「私だよ」
昨日の老婆が、後ろに立って微笑んでいた。
「何が起こったか……見たかい?」
「……
ど、どういう事ですか……ちゃんと説明してください……」
「言ったろう? あんたの希望を叶えてやるって。
その通りになっただけの話さ。
これはね、秘密の木の実なんだ。
この館は、古くから何代も続いた裕福な家だった。
けれど、この家の規律はひどく厳格でね。使用人の失敗や罪に対しても、異常なほどに厳しかった。
大きな粗相《そそう》をしたり、規律を守れなかった使用人は、この家の代々の主人に容赦なく斬り殺された。
必死に働いた末に殺された哀れな使用人達が、この下に大勢埋まっているのさ。
——幼い頃に私が祖母から聞いた話だから、随分昔のことだが」
じゃあ、あの「みよ」も——かつて殺された使用人の一人なんだ。
恐ろしさに、私の脇を冷たい汗がつうっと流れる。
「けれど、六十年ほど前かね……この家の者が、突然苦しみもがきながら皆ばたばたと死んだ。
原因は不明。いくら調べても、何一つわからずじまいだった。
私は貧乏な家の娘だったから、空き家になったこの家の立派な庭にこっそり入り込んで一人で遊ぶのが好きだった。絶対に入ってはだめだと、大人たちには固く言われていたけどね。
遊んでいるうちに、この木の美味しそうな実を見つけた。そうしたら、なぜか我慢ができなくてね。勝手に手が伸び、一粒食べてしまった。
その途端、この木の声が耳の奥で響き出したのさ。
『無数の怨念が、とうとう治まらなくなった。私達をここから救ってくれ。お前が消したい人間をここへ連れてきて、実を一粒食べさせろ』とね。
消したい人間はすぐに思い浮かんだよ。
私を見るたび『貧乏人! 寄るな!』と石を投げつけた金持ちの家の少年がいてね。彼に、秘密の木の実をこっそり教える、と言ったら、あっさりついてきた。
あいつが実を食べた途端、今と同じことが起こった。
最初は恐ろしいことをしてしまった気がして、怖かったけどね……そんな恐怖も、すぐに消え去った。
性根の腐った魂を、救われない哀れな魂と入れ替えるなんて、素晴らしいじゃないか?
私は、これまでに七人入れ換えた。汚れた魂と、無念のまま殺された魂とをね」
高ぶった何かを鎮めるようにふうっと細い息を一つつき、老婆は続けた。
「この秘密は誰にも漏らすなと、ずっとこの木に言われていた。
けれど、木はどうやら私の寿命を知ったのか、そろそろ秘密を引き継げる子供を連れてこい、と言われてね。
私の見つけたその子供が、あんただよ。
不思議なことに、この木は一年中実をつけるんだ。
地面の下の魂たちを、これからはあんたが助けてやっておくれ。
この秘密を引き継いでもいい、という気になったら、またここへおいで。
ただし——
秘密を引き継ぐ気がないなら、この事は誰にも喋るんじゃないよ。
そして、ここには二度と入るな。
守れなければ、あんたも足元の栞ちゃんと同じになるからね」
そう言うと、老婆はすうっと目を細くして私に微笑んだ。
家に帰り、ベッドに入ってからも、私は恐ろしくて眠ることができなかった。
栞を、殺した。
私が、栞を殺してしまった……!
けれど、一晩中ガチガチと震えた夜が明けると、私の心はなぜかすっと静まり、今度は不思議な満足感に満たされた。
私は、悪い事などしていない。
他人を虐めて楽しむ人間を、懲らしめただけ。
悪いのは、栞。自業自得だ。
それに、あの地面の下に閉じ込められた可哀想な魂たちは、どうやら乗り移った本人になりきって暮らせる力があるようだ。
中の魂が別人に入れ替わったなどとは、多分誰も絶対に気づかない。
栞が消えたことなど、誰一人、気づかないのだ。
私のした事は、正しい。
そして今日から、私を虐める者はいない。
虐めにおびえることのない日々が始まるんだ。
友達と笑い合える、明るい日々が。
でも——そんな夢のようなこと、本当に起こるのだろうか?
そもそも、昨日起こったことは、現実?
私の脳は混乱し、制服に着替える掌はいつしかおかしな汗をじっとりとかいていた。
「おはよう!」
恐る恐る教室へ入った私に、いきなり爽やかな挨拶が飛んできた。
栞の声だ。
私はギクリと身構えた。
「昨日はありがとね、穂花」
栞は、明るい笑顔で私へ近づいてくる。
やっぱり、栞の中には、違う女がいる。——地中から解き放たれた「みよ」が。
「——お、おはよ……」
恐怖やら不安やらが入り混じり、私は小さくそう返す。
「咲。
今までひどいことして、ほんとごめん!」
私の前で突然ガバッと頭を下げた栞に、いつもの取り巻きの女子達が驚いた目で私達を見た。
「これからは、私達、仲良くしよ。ね?
みんなも、私と同じ気持ちだよね?」
「……え……それは、もちろん……」
女子たちが、どこか戸惑うように顔を見合わせながら頷く。
「じゃあほら、みんなも謝っちゃいなよ、穂花に」
「……穂花、ごめん。今までいろいろ」
「私も……ごめんね」
栞の一声で、クラスの空気が見る間に変わっていく。
私は、温かな笑顔の輪の中に包まれた。
その日は、それまでの私の中学校生活の中で、一番穏やかで幸せな日になった。
「じゃあね、穂花」
帰り道、栞は爽やかな笑顔で私に手を振る。
「うん、また明日」
私は、元気に手を振り返した。
こんな平和な時間が、私にやってくるなんて。
栞の中のみよは、強くて優しい。
そして——栞は、本当にもういないんだ。
殺してやりたいほど憎かったあのクラスメイトは、本当に死んだのだ。
あの実のおかげで。
私の決意は、固まった。
明日、あの庭に行こう。
秘密を私が引き継ぐと、老婆に伝えよう。
そうすれば——これからは、私を不幸にする人間を、この世から消すことができる。
消したい人間を、思うままに消し去れるのだ。
誰にも知られずに。
私の心は、気づけばすっかり明るい色に塗り替えられていた。
昨夜の恐怖が、まるで錯覚だったかのように。
翌日の夕方。
館の庭で決意を告げた私に、老婆は静かに頷いた。
そして、あの木の実を一粒枝から摘むと、私に差し出した。
「さあ、これをお食べ。
そうすれば、この秘密はあんただけのものになる。
この木の言葉が、聴こえるようになるよ——」
勇気を奮い起こしてその実を口に入れた私を見ながら、老婆がにいっと口元を引き上げた。
その日から。
ずっと、私の耳の奥で声がする。
日没と共に、次第に大きく騒ぎ出す。
あの木の声が——男や女の、無数の呟きが。
早く、早くと。
暗がりの鏡の中の私の顔が、あの老婆の皺深い顔に見えて、ぞっとする時があるけれど——それは、きっと気のせいだ。
さあ。
次は、誰を庭に招こう?
学校帰りのあの道で、後ろから声をかけられないよう——あなたも、どうぞ気をつけて。



