陽菜がいなくなってからの教室は不思議な静けさに包まれていた。張り詰めていた空気が緩んだのか、それとも、支えを失った喪失感のせいか。紗季はその真ん中で、ぽつんと座っていた。以前のように机に落書きをされたり、教科書を隠されたりすることはなくなった。しかし、紗季はそれを「誰もが何も言えなくなった」結果だと思っていた。

 そんなある日、放課後の教室で紗季はプリントを配る係の女子に声をかけられた。
「……これ、保険のプリント。あ、別に、提出しないといけないとかじゃないから……。」
差し出された紙を受け取りながら、紗季は僅かに目を見開いた。それは本当に些細なことで、声も視線も一瞬だけ。でも、今まで「いないもの」として扱われてきた自分にとって、それは確かな「存在の確認」だった。
 それから数日後、授業中にノートを忘れてしまった紗季が、困って周囲を見渡すと、前の席の男子がノートを後ろに回して見せてくれた。返す言葉は見つからなかったけれど、その手の温度が、不思議と記憶に残った。

 そして、週に一度は保健室に通っていた紗季に、白井が声をかけた。
「朝比奈さんがいなくなってから、少し……変わった気がするね、君の表情が。」
この言葉に紗季は小さく笑った。
「…あの人は、嵐みたいでした。でも、風が吹いたからこそ、淀んでいた空気がちょっとだけ動いたんです。」
白井はしばらく黙ってからこう言った。
「もし、誰かに話したいことがあれば、いつでもいい。聞くからな。」

 翌週、紗季はその言葉を思い出して職員室を訪れた。扉の前で何度も躊躇した。でも結局、ノックをした。
「……ちょっとだけ、お話してもいいですか。」
それが、始めて他人に自分の心の中の「本当」を明かした瞬間だった。何をどう伝えたか覚えていない。ただ、言葉にしながら、胸に溜めていたものが少しずつ溶けていくのを感じた。

 その日から、紗季は少しずつ教室にいる時間が「孤独」ではなくなっていった。誰かが意識して目を合わせてくれること、挨拶をしてくれることが、ほんの僅かながら積み重なっていく。ある日、帰り際にクラスの女子が言った。
「……あのさ、今度の合唱練習、パートどうする。ソプラノ、人足りないんだけど……。」
「…うん、やってみる。」
自分の声が、空気を振動させて相手に届いている。その実感が、これほど温かいものだとは思わなかった。紗季の再生は、劇的なものではなかった。けれど、確かに彼女は変わっていった。陽菜が見せた真っ直ぐな姿勢は、嵐のように教室を揺らし、その風は紗季の固く閉ざされた心に、小さなひびを入れた。そしてそのひびから差し込んだ光が、ゆっくりと彼女を照らしていた。