三学期の始まり。冬の寒さがまだ肌に残る朝、教室の窓際に置かれた観葉植物の鉢の土が濡れているのを誰かが見つけた。
「……あれ、誰か世話してたっけ。」
そんな声がちらほらと上がる中、誰も名乗り出ようとはしなかった。だが、その後も数日おきに土が濡れていて、植物の葉は生き生きと広がっていた。教室の空気は、相変わらず言葉が少なく乾いている。けれど、何かがほんの少し変わり始めていることに、蓮は気づいていた。陽菜は相変わらずだ。必要以上に目立つことはせず、それでも気づいたことには素直に手を伸ばす。
 冬休み明けの初日、陽菜は席に着くなり教室の片隅でひとり座っていた紗季に自然に声をかけた。
「おはよう。今日寒いね。コート、あったかい。」
誰もが聞こえるような声ではない。けれど、それは「壁のように置かれていた存在」に、正面から話しかける行為だった。一瞬、何人かの視線が陽菜に集まる。だが、彼女は気にする様子もなく、にこりと笑って紗季に話しかけ続けている。紗季もまた、少し俯いたまま小さく頷いた。それだけのやりとりだった。だが、それは間違いなく、この教室において「異質」だった。だからこそ、胸の奥に、ほんの僅かなざわめきを残した。
 数日後、授業前の雑談の中でふと誰かが呟いた。
「…朝比奈さんって、けっこう変わってるよね。でも、なんか嫌な感じじゃないんだよな。」
「うん。何ていうか…空気、読まないけど、壊さないというか。」
名前を出して笑いものにするような言い方ではない。そこにあるのは、戸惑いと、僅かな敬意。そして、少しの憧れのようなものだった。そして、紗季もまた変わってきていた。以前は常に俯いて、誰かと目を合わせることすらしなかった彼女が、授業中に隣の席の子にノートを見せて欲しいと声をかけていた。相手の生徒は一瞬驚いて、それから「うん、いいよ」と笑っていた。会話はたったそれだけだったが、周囲には「何かが少し変わった」という空気が流れた。誰かが声をかけることで、誰かが応える。その連鎖が、少しずつ教室の沈黙に亀裂を入れていた。

 ある日、蓮は陽菜に問いかけた。
「……怖くないのか。空気、壊すの。」
陽菜は少しだけ首を傾げた。
「怖いよ。でも、壊すっていうより…元から壊れていたのを、直そうとしてるだけかもって、最近思うんだ。」
その言葉は蓮の胸に静かに響いた。教室の空気は、まだ決して明るいとは言えない。けれど、誰かの小さな行動が、誰かの心に小さな余白を作り出し、その余白がまた別の誰かの歩みに繋がったていく。蓮はふと思う。
「こんなふうに変わっていくのなら、それは、たとえささやかでも、価値のあることなのかもしれない」
と。