進学校の校舎は、朝の光を浴びて静かに輝いていた。けれど、その美しさの中に、どこか冷たい緊張感が漂っている。教室の空気は、表面上の穏やかさを装いながらも、互いの距離を測るような沈黙に支配されていた。蓮はその中でひとり、波風を立てずに呼吸をしていた。成績は上位、素行も問題なし。教師からは「模範的」と評価される一方、クラスメイトとは必要最低限の会話を交わすだけ。無駄な衝突も、過剰な期待もない。ただ、自分に求められる役を演じていればそれで良かった。
 変わらない日常が続く中、突如変化が訪れる。
「こんにちは。今日からこのクラスに入ります、朝比奈陽菜です。よろしくお願いします。」
その声は思っていたよりもずっと真っ直ぐで、クラスの中に予想外の波紋を広げた。陽菜はにこやかに微笑んだ。笑顔の裏に隠し事がない人間なんていないと思っていたのに、彼女の眼差しはあまりにも真剣で、あまりにも不器用で。そして、あまりにも眩しかった。最初に反応したのは、前の席に座っている女子、岡本紗凪だった。彼女がさっと顔を背けたのを、蓮は気付かなかったふりをしたが、その視線の先で何人かの生徒がさりげなく顔を見合わせていた。
「ほんとに…あんなに堂々と挨拶できるの、すごいな。」
後ろの席で小声で呟いたのはのは、井上悟だった。
「でもさ、あれってちょっと…変じゃないかな。あんなにニコニコしていると逆に気になる。」
隣の席の黒田由紀が答える。
「なんか、ちょっと馴染んでない感じ。」
「気にしすぎだろ。別に変わってないって。それに今日来たばかりだし。」
悟は肩をすくめたが、彼の言葉にもどこか不安げなものが含まれていた。蓮はそんな会話を耳にしながら陽菜の顔を見ていた。彼女が何もかも明るく見せることが、逆に不安を掻き立てるように感じた。しかし、それでも陽菜の眼差しが蓮の心を僅かに揺さぶるのは何故だろうか。何もかもに飽き飽きしていたはずの自分が、なぜ陽菜の純粋な態度に引き寄せられそうになるのか、それが分からなかった。その時、後ろの方でまた呟きが聞こえた。
「でもさ、朝比奈さんってなんか…」
黒田の言葉が途切れた。周囲の生徒たちが耳を傾けているのを感じて、黒田は少し声をひそめた。
「なんか、不安定な感じしない。」
「分かる。」
紗凪が呟いた。
「私、前の学校で何かあったんじゃないかと思う。」
「だよね、ちょっと暗いところあるよね…。それを隠そうとしてああやって笑ってる気がする。」
由紀が言った。陽菜がクラスの一員として溶け込んでいくのを見守る中で、蓮はクラスメイトたちの微妙な反応を冷めた目で見ていた。先の声が、彼の胸の中で小さく反響する。誰もが陽菜を評価することなく、ただ「異質なもの」として受け入れている様だった。そして、自分もまたその一部だと言う事が蓮にはどこか居心地悪く感じられた。その一方で、陽菜は次第にクラスの中で少しずつ自分を出し始めていた。彼女が笑顔で他の生徒に話しかける姿を見て、蓮はどこか遠くの出来事のように思った。だが、クラス内のあちこちから聞こえてくるさりげない声や、微妙な視線が、確実に陽菜の周りに変化を与えていることを蓮は感じ取っていた。
「でもさ、あの笑顔だけは何とかならないのかな。」
紗凪が再び声を潜めて呟いた。
「ちょっと不気味だよ。」
その言葉を聞いて、蓮は思わず顔をしかめた。陽菜が笑顔を見せることで、何か分からない不安を感じるのは分かる。だが、彼女の笑顔が「不気味」とは一体どういう事だろうか。蓮はその単語を聞き流すことができず、ふと周りを見渡した。誰もが陽菜を観察していた。そして、その評価をまだ下すことができずにいる。陽菜の「真っ直ぐさ」が、どこか不安を呼び起こしていた。蓮はそのまま窓の外を見た。教室の外には青空が広がっている。それはどこまでも澄んでいて、そこから陽菜が来たような気がした。だが同時に、教室内で広がる微妙な緊張感が、その空気を押し込めているように感じた。窓の外から視線を外し自分の机を見つめる。「俺には関係ない」そう思っていた。