職員室の午後は、いつも少し重たい。チャイムが鳴っても誰一人席を立たず、教務机のパソコン音だけが規則的に響いていた。白井は学年主任の山口の横に座りながら意を決して口を開いた。
「朝比奈さんの件、少し気になります。どうも…教室の空気が、閉じているというか。」
山口はため息をついた。
「気になるのはわかる。でも、あの子は転校してきたばかりだし、下手に踏み込めば、クラスのバランスを崩すだけだよ。いじめと言えるほどの証拠もない。」
「…そうですね。」
口ではそう言いながらも、白井の内心はざわついていた。実際、陽菜の真っ直ぐな言葉は幾度か教師の目にも触れている。発言の背景には明らかな違和感がある。だが、それを「教師の判断」として踏み込むには、何かが足りない。「証拠がない」、「本人が訴えていない」、「他の生徒たちは穏やかにしている」。そういう正論がいつも彼の背中を押し留める。
 ある日、陽菜が放課後に話しかけてきた。
「先生、……私、間違っていますか。」
白井は一瞬だけ言葉に詰まった。陽菜の真っ直ぐな眼差しを前にして、肯定も否定もできなかった。
「…朝比奈さんの思いは良く伝わってるよ。でも大人になると、どうしても「タイミング」ってものがあるんだ。」
その言葉が彼女にどう届いたかは分からない。けれど、陽菜は一瞬だけ何かを諦めたような顔をして、ふっと笑った。
「分かりました。ありがとうございます、先生。」
あの笑顔がいまだに忘れられない。職員室に戻った白井は、ふと別の若い教師の会話を耳にした。
「でも本当に何かが起きているなら、動いたほうが…。」
「…でも、まだ外部には出してないんでしょ。下手に動いて、保護者対応になったらややこしくなるよ。」
そう、ややこしくなる。責任、判断、処理、報告。教師という立場は、子どもたちだけでなく、学校そのものを守らねばならない場でもある。だが、白井はその夜、自宅で一人保護者向けの資料に赤を入れながら思っていた。
「守るべきは、あの時の沈黙だったのか。あの、声にならなかった「助けて」だったのか。自分たちは、見えないない何かを選び続けたのではないか。」
と。