蒼瀬輝夜の平凡な日常は突如として終わりを告げた。

「今のは君がやったの?」

なんてことはない、いつもと同じ通学路。少しだけ人通りの少ない道と言うだけだ。

通学カバンを持ち、制服に身を包む輝夜は学校が終わり、家に帰ろうとしていた。けれど、人とは少し異なるものを映してしまうその瞳は視界の端に映る異形を捕らえてしまった。

人の形をしたものもいれば、ドロドロとしたまさに異形と呼ぶに相応しい見た目の化け物。輝夜はわずかに溜息をつき、何もない空間から一振の刀を取り出した。

どうせ目の前の異形もこの刀も他の人には見えない。人の気配がないことも確認して、輝夜はその刀を異形目掛けて振りかざした。

何度も体験した気味の悪い感触を刀から感じ、輝夜は力を込める。今回のは比較的弱そうで小さな異形ということもあり、ものの数秒で片付けることができた。

刀を振り払い、初めと同じように刀を何もない空間へとしまう。道を塞ぐ邪魔な異形が消え、輝夜は一歩前に踏み出そうとした。

けれど、突如として肩を掴まれ、輝夜は足を踏み出すことはできなかった。掴まれるまで全く気配がしないことにも驚いたが、聞こえてきた言葉。

『今のは君がやったの?』

まるで輝夜がやったことを正しく把握しているような台詞だ。普通の人には見えない異形すらも認識している口ぶり。

そして、振り返った先に佇む美しい顔をした男を見て、輝夜は今度こそ盛大にため息をついた。

(ああ、今日は厄日だったんだ……)


* * *


蒼瀬輝夜はどこにでもいる普通の高校一年生だ。比較的裕福な家庭で育ち、両親の仲も良い。

勉強は普通で、運動神経も悪くはない。そんなどこにでもいる普通の高校生だった。

けれど、実のところ、彼女は普通ではなかった。

一目見ただけで物事を理解し、瞬間的記憶力もいい。思ったように体も動かせ、超人的な運動神経を持つ。

なによりも、蒼瀬輝夜は眼が良い。

7歳のころに突如して変化した瞳。黒目黒髪だった彼女の瞳は紅色へと変わってしまった。

娘の瞳の変化に彼女の両親は酷く心配した。それもそうだ。昨日までは普通の黒目だったのに、一日で紅色へと変わってしまったのだから。

その日から、蒼瀬輝夜の日常は変化した。

今までは見えていなかった異形をその目に映し、超人的な運動神経を手に入れた。もちろん、そのことを誰かに話すことはなかった。

ただでさえ、娘の瞳の色が変化し、病気だと心配して憔悴していた両親にこれ以上の心配をかけたくなかったからだ。だから輝夜は変化した瞳のせいで手に入れた超人的な運動神経も視界に映る異形も、そしてその日に感じた体に満ちる未知の力も、何も言わなかった。

瞳はコンタクトをして黒目にすれば今まで通りだし、それ以外の変化を見せなければ両親はだんだんと落ち着きを取り戻していき、すっかりと輝夜が紅色の瞳になる前の状態に戻っていた。

だから輝夜は人々を襲う異形が見えることも、その異形を祓うことができることも、何ひとつ、告げることはなかった。

両親や周囲の人々を騙す生活を9年間続けて、すっかり輝夜は異形を祓う力をコントロールしていた。怪我をしてもその未知の力を使えば瞬く間に癒えるため、誰かに何かを言われることもなかった。

平凡で代わり映えのない日常。そんな日々を蒼瀬輝夜は過ごしていた。

けれど、蒼瀬輝夜が平凡だと考えていた日常は見知らぬ美しい顔立ちをした男に見られ、終わりを告げた。


「────で、君は何者? 見た感じ人間ぽいけど」

サングラスをかけた怪しげな男。けれど、サングラスをしていても彼の顔立ちの良さは隠せていない。

「人間、だと思います。普通に両親もいますし」
「ふうん?」

異形を祓うところを見られた輝夜は目の前の男に連れられて近くのカフェへと入った。逃げようと思えば逃げられたかもしれないが、この男から感じる力は凄まじい。

普段、輝夜が五分の一程度に抑え込んでいる力と同程度だ。向こうも力を抑えているとなると、抵抗するのは良くないと考え、大人しくついて行ったのだ。

「それで、私はなんで連れてこられたのでしょう。このあと用事があるので手短にお願いします」

そう輝夜は言うが、用事なんてものはない。せいぜい家に帰っておやつを食べるくらいだ。

要はさっさと意味のわからない男から逃げたいのだ。

「ねえ、君にはさ、見えてるんでしょ」
「……なにがですか」
「妖魔が」
「ようま……」

頼んだメロンソーダをストローでかき混ぜながら窓の外を見つめる彼は『妖魔』という聞いたことのない単語を話す。しかし、妖魔という言葉を聞いたことがなくとも、それが輝夜が今まで相対してきた異形のことを言っているのは分かった。

「そ、妖魔。俺は妖魔を祓うためにここに来たんだけど、報告にあったでかい妖魔もいないし、どこに行ったのかなぁとその辺をぷらぷらしてたら妖魔をぶった斬ってる君に出会ったわけさ」
「はあ……」
「見た感じ独学でしょ? それでこれほどまでに洗練された霊力はすごいね。しかもまだ高校生でしょ。いやぁ、すごいすごい」

テンションについて行けずに紅茶をひとくち飲む。ミルクの甘みが沁みる。

「でまあ、そんなわけで君、天明学院に転校ね」
「───え?」
「あ、天明学院っていうのは君みたいな妖魔を祓う力を持った学生が霊力を学び、妖魔を祓うための方法を学ぶ場所さ」

ニコニコと笑う目の前の男に輝夜はついていけない。なにがあったら「そんなわけで」で知らない学校に転校する話になるのかさっぱりだ。

「……あの、なんで急にそんな話に? 私、入学してまだ2ヶ月ちょっとしか経ってないけどあの学校気に入っているんですが」
「そっかぁ、でもごめんね。俺としてもこんなに力を持つ子を見つけて、はいそうですかって見逃すのは無理かな。親御さんには俺の方から上手くいっておくから転校の件は心配ないよ」

こちらの意思をガン無視するように話が進んでいく。輝夜は何ひとつ了承なんてしていない。

そもそも、今の学校を選んだのだって両親に心配をかけたくないから家から比較的近く、進学校と名高い高校にしたのだ。天明学院なんて聞いたこともない。恐らく、そこに転校することになればここから離れる必要が出てくる。

(もう心配は、させたくない)

輝夜はそう思うと、自分と男の周りに結界を張った。そしてすぐさま刀を男へと向けた。瞬きをする暇も与えない輝夜の素早い行動に、サングラスの向こうで彼の驚いた気配を感じた。

「生憎と、私はあなたに従う理由はありません。これまで通り、平凡に暮らし、両親に心配をかけずに幸せに過ごす。だから、この場から立ち去ってください」

僅かに圧をかけて話す輝夜に男はケラケラと楽しそうに笑い出した。

「ふ、ふははは!!」

気味の悪さを感じ、輝夜は素で引いてしまい、刀を下ろしてしまった。しかしそれに気づかない男は体を曲げて面白そうに笑い続ける。やがて、笑いが納まったのか目に溜まった涙を拭うようにサングラスを外した。

「───……」

輝夜は息を呑んだ。彼の、サングラスに隠れていた瞳の色を認識して。

どこまでも澄んだ碧色だった。吸い込まれそうなほどキラキラと輝くその瞳は、まるで輝夜の反対で。

輝夜の驚いた気配を感じたのか、男は面白そうに瞳について告げる。

「びっくりした? まあ、あんまり日本人には見られない色味だからね」
「ハーフ、とかですか?」
「いいや全く、純日本人だよ」

純日本人で碧眼とはある意味すごい。だがここまで考えて、輝夜も人のことは言えないなと思う。

なにせ、輝夜の瞳もまた、純日本人にしては珍しい紅色なのだから。

「この瞳は碧煌眼って言ってね。簡単に言うと目がすごくいいんだ。自分の霊水──まあ霊力だね、これを極限まで制御できるし、相手の霊力の流れも読むことができる」
「…………」
「霊力を『鏡』にして幻惑・視覚操作なんかもできる優れもの」

その説明は輝夜の持つ紅色の瞳と同じものを感じさせる。ただそれだけで、根本的なものはやはり違う。

一般的な力の保持者と比べると、輝夜の力の制御は数段上の行くものなのは間違いない。けれど、彼の言う霊力を極限までに制御することはできない。

しかし代わりと言ってはなんだが、輝夜は自身の血液を霊力に変換させることができる。他にもこの眼によりできることもある。

まあ、もちろんそんなことを目の前の男に言うつもりなどないのだが。

「この眼のおかげで色んなものが見えてるけど」

男はなぜか、そこで言葉を区切った。

「なんでかな。君に対してはぼやけてて上手く見えないんだよね。隠されている訳じゃないんだけど、ゆらゆらしてて分からない。こんなの初めてだ」
「…………」
「だから、君にすごく興味がある」

またサングラスをかけた男はパチンと指を鳴らし、輝夜が張った結界を解いた。全力ではないにしろ、それなりの力を込めた結界を簡単に解いた男に対して、輝夜は警戒を強める。

しかしそれを気にしていない男は楽しそうにしている。角席ということもあり、周囲はこちらを気にしていないのは良かった。

(目の前のこの人は胡散臭い。たぶん、力の差はそんなにないけど経験の差が違うと思うし、暴れれば面倒なことになるのは間違いない)

既にこの男の中で転校という話が決まっているのは非常に癪だが、一度引いてもらうためにも一回は頷く方がいい。輝夜は渋々口を開いた。

「…………転校のお話は、一度持ち帰らせてもらいます。両親の話をした上で、再度ご連絡させていただきますので───」

一度帰ってもらえますか? と続きを言おうとしたが、すぐさま目の前の男にぶった斬られた。

「え? 無理無理。君の転校は決定事項。君の親御さんには今から俺が説明するから」
「……っ、だから! 転校するかどうかは私が決めることで!!」
「君、自分の力のせいで両親を危ない目に遭わせかねないこと、ちゃんと分かってる?」
「!?」

サングラスを少しずらし、その碧眼に射抜かれる。鋭い、氷のような気配が周囲を纏う。

「俺たち術師は基本的には妖魔を祓うために力を使う。まあごく一部として、一般人を殺すために力を使う術師──禍師を殺すこともあるわけだけど」
「こ、殺すって……」
「今の君は禍師にとっても扱いやすいコマなんだよ。強力な力を持つのにどの勢力にも組みしていない。そんな君を使い勝手のいいコマにするにはどうしたらいいと思う?」

そう問われ、輝夜はグッと黙った。

「答えは簡単。君の親御さんを人質にすればいい。親御さんを助けて欲しければ自分たちの指示に従えってね。そうすれば禍師にとって強力で従順なコマの出来上がりだ」
「…………」
「君は妖魔を祓い、その力を隠して、親御さんに心配をかけないように振舞ってきたのかもしれないけど、いずれその平穏は終わる。禍師に捕まれば君も禍師の一人として俺たちは君を殺さないといけなくなるし、君の親御さんもまた、禍師に与していたとして処罰の対象となる」

何も言わない輝夜に男はため息をつく。しかし、輝夜は顔には出さないが既に頭がいっぱいいっぱいなのだ。

両親のためを思い、力を隠して妖魔を祓う。それなのに、どこまで行っても輝夜の持つ力のせいで両親に心配をかけて、更には危険に晒してしまう。

何が正解のなのか、輝夜には分からなかった。

「…………」
「ま、いきなりこんな話をされても理解できないのは分かるよ。でも、だからこそ、君には天明学院に転校してもらわないといけない。この業界について何も知らないままだと、君は取り返しのつかない悲劇を産む中心に立ってしまう」

残りのメロンソーダを飲み干した彼は氷をストローでカラカラと回し、遊んでいる。輝夜も頼んでいた、すっかりと温くなった紅茶を飲む。

平静を装いたいのに、僅かに手が震えてしまう。しかし、輝夜は自身を叱咤して、目の前の男を見つめた。

「──とりあえず、妖魔や術師についてはわかりました。そして禍師という存在がいることも。その禍師に見つかると、私も両親も危ないということも」
「そっか」
「だからこそ、確認させてください」

輝夜は手を強く握り締め、彼に問いかけた。

「あなたが、その禍師ではないという証明は? ほんとうに天明学院なんて学校は存在するんですか? 私がその学院に行けば両親は安全なんですか? 禍師から守ってくれるんですか? 私は、もう二度と、両親に会えないんですか?」

一気に吐き出した疑問。まだまだ聞きたいことがあったはずなのに、いざ言葉にしてみるも頭が真っ白になってこれしか口に出せなかった。

それでも男には届いたようで、嬉々として答えてくれた。

「うんうん、いいね。警戒心が強いようで何より。まあ、俺が禍師ではないって言う証明はとりあえずこれを見せるしかないかな」

彼はポケットからカードを取りだし、それを輝夜に渡した。両手でそれを受け取ると、輝夜は『天明学院3年 九条璃玖』と書かれた文字が目に入った。名前のすぐ横に漢字で『天』と書かれて、丸で囲んであるのは少し気になるが。

「一応それ学生証。捏造って言われればそれで終わりだけど、学院もちゃんとあるし、今から行ってみる? 俺の力使えば瞬間移動みたいにパパっと着いちゃうから」

ニコニコと笑う彼に輝夜はゆるりと首を振った。瞬間移動なら輝夜も似たようなことができるし、捏造にしては手が込んでいる。これは恐らく本物なのだろう。

「禍師ではない、ということは一旦保留にしておきます。これが本物ならあなたは禍師ではないし、天明学院もあるみたいですね」
「あるよ。学院も結構大きいから、見たらびっくりするよ。それと、君が学院に行くなら俺たちは非術師である君の親御さんを守るよ。その代わり、君には学院に入って力の使い方を学んだりしながら、妖魔を祓ってもらうけどね」
「妖魔を祓うのは別に構いません。両親を妖魔から、禍師から守ってくれるのなら」

残りの紅茶を飲み干した輝夜はそう呟く。

輝夜の中で大事なのは両親だ。突然として瞳の色が変わっても忌避することなく、心配してくれて、輝夜の意思を尊重してくれた大切な両親。

輝夜はそんな両親を安心させたくて、力のことも、妖魔のことも、自分の体に起きた異変も何も伝えなかった。

だから、大切な両親が安全な場所で過ごせるなら、輝夜は妖魔を祓うことも、禍師を殺すことになっても構わないと思っている。

「なるほどね。大丈夫、君の親御さんの安全は俺が保証するよ。九条の名にかけてね」
「?」
「今は分からなくていいよ。どうせ学院に入ったら嫌でもわかることだからさ。あと、別に学院に入っても親御さんとは会えるよ」
「! 本当ですか!?」

思わず前のめりに聞いてしまう輝夜に苦笑いしつつ、男は頷く。

「うん。ただまあ、学院に入ると忙しいと思うし、会う機会は減るかな。なるべく取り計らうようにはするけど、一ヶ月に一回がギリかな」
「それでもいいです。両親に、また会えるなら」
「大丈夫さ。それよりも、君の中で天明学院に転校するの、気持ち固まってきたんじゃない? 俺の予想だと、あとは親御さんがOKしてくれたらって感じかな」

そう聞かれ、輝夜はコクンと頷いた。輝夜の中でだいぶ気持ちが転校へと傾いている。

目の前の男を完全に信用したわけではないが、話を聞く限り、一人で妖魔を祓い続けるのも、禍師に見つかるのも時間の問題だ。そうなると、転校してこの人たちに匿ってもらった方がいい気がする。

「話は俺がするからそこは安心してよ」
「……話をするときに、両親に心配をかけるようなことは伝えないでください。術師のこととか妖魔のこととか」
「あ、そこは大丈夫大丈夫。てきとーにいい感じに伝えるから。君は帰ったら荷物の整理してて。今日にはここを立つから」

伝票を持った男はそう言い、席を立つ。流れるように会計をしてくれる姿を見送り、輝夜はあまりの早い展開に着いていけなかった。