翌朝、空はすっかり晴れていた。昨日の雨が嘘みたいに、雲ひとつない青空が広がっている。
私はぎゅっと拳を握りながら校門をくぐった。
玲央くんに会ったらどんな顔をすればいいんだろう。そんなことばかり考えて、うまく呼吸ができなかった。
靴箱の前で玲央くんを見つけた。いつもと変わらない顔をして、制服の襟を直しながら友達と何気ない話をしている。
その姿に、ほんの少しだけ救われた気がした。
きっと、普通に話してくれる。
そんな小さな希望を胸に近づこうとした、その時だった。
玲央くんと目が合った。彼は友達に「先行ってて」と声をかけ、私の方に歩いてくる。
「藤井、ちょっといい?」
玲央くんが、人気のない廊下の隅に私を連れてきた。朝の光が窓から差し込んでいる。
玲央くんは何かを迷うような表情で、しばらく黙っていた。
そして、絞り出すように言った。
「昨日のこと……」
心臓が、嫌な音を立てた。玲央くんは目をそらしながら続ける。
「なかったことにしよう」
一瞬、何を言われたのかわからなかったけど、遅れて理解した。
わかりたくなんてなかったのに、痛いほどわかってしまった。
「うん」
私は、微笑んだ。
喉の奥が焼けるように苦しかったけれど、ちゃんと笑えているはずだ。
「私も、そう思ってた」
嘘だった。
本当は、何もかも忘れたくなかった。
でもそんな本音、口が裂けても言ってはいけない。
玲央くんは、ほっとしたように小さく笑った。
そして私の頭を撫でて、何事もなかったように「またあとでな」と言って立ち去った。
私はしばらくその場に立ち尽くしたまま、何度も深呼吸を繰り返した。
涙は、意地でもこぼさなかった。
大丈夫、私なら平気だから。
そう言い聞かせながら、心の奥で何かが崩れていくのを感じていた。
*
昼休み。私は購買部で買ったパンを手に、中庭のベンチに座っていた。
初夏の風が穏やかに、木々の間を柔らかく撫でていく。それなのに、心だけが重たく沈んでいた。
「遥ー!」
明るい声がして顔を上げると、美咲ちゃんが手を振りながら駆け寄ってきた。
変わらない無邪気な笑顔。その笑顔は、今日の私には眩しすぎる。
「ねえねえ、聞いてよ!」
美咲ちゃんは隣に座るなり、嬉しそうに話し始めた。
「玲央とさ、仲直りできたんだ!」
……仲直り? 思わずパンを取り落としそうになる。
「玲央が改めてちゃんと謝ってくれて、話し合って……やっぱりお互いちゃんと好きだって確認できたの。もう大丈夫だと思う!」
美咲ちゃんはそう言って、屈託なく笑った。
ああ、そうなんだ——
私は喉に引っかかったパンを飲み込んで、やっとの思いで小さく笑った。
「よかったね」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「うんっ! 遥が相談乗ってくれたおかげだよ、ほんとありがと!」
美咲ちゃんが嬉しそうに私の腕に抱きついてくる。その温もりが、胸にじくじくと沁みる。
何も知らない美咲ちゃん。そして、知らないふりをするしかない自分。
私が昨日、玲央くんとキスしたことなんて、知らないままでいい。美咲ちゃんの幸せそうな顔を見ていると、そう思うしかなかった。
「これからは、ちゃんと玲央と向き合っていく!」
「うん、応援してるよ」
私はパンを一口かじるふりをしてうつむきながら、滲みそうになる涙を必死でごまかした。
*
夜、部屋の窓を少しだけ開けると、少し湿った夜風が頬を撫でた。カーテンがふわりと揺れる。
机の上のカレンダーは7月に入ろうとしていた。2人と出会ってもう3ヶ月が経つ。
私は机の上に置いた携帯をじっと見つめていた。画面には何も通知はない。
当然だった。玲央くんから連絡が来るわけがない。私達の間には何もなかったのだから。
ゆっくりとベッドに腰を下ろし、クッションをぎゅっと握りしめる。
呼吸を整えようとするたびに、胸の奥がきしんだ。
目を閉じたら、すぐにあの日のことが蘇る。
雨に濡れた玲央くんの髪。触れた唇の温度。
不器用な、だけど確かな腕のぬくもり。
全部、全部、嘘になった。なかったことになった。
堪えきれずに、涙が一粒、頬を伝った。
それを拭おうとした瞬間、次々とこぼれてきて、止まらなくなった。
声を出すと、堰を切ったように泣いてしまいそうで、必死に口を塞いだ。
でも、身体は小さく震えていた。
私が壊した。私が、欲張ったから。私が、手を伸ばしてしまったから。
そんな言葉が頭の中をぐるぐると回り、何度も何度も、胸を締め付ける。
この気持ちさえ持たなければ、期待さえしなければ、私は今も、何も失わずにいられたのかもしれない。
でも、後悔しても遅かった。
涙はとめどなく流れてくる。それでも明日になったら、何事もなかったふりをして笑わなきゃいけないことも分かっていた。
もう、誰にも甘えることはできない。
静かな夜の中で、私は初めて誰にも見せない涙を流した。
私はぎゅっと拳を握りながら校門をくぐった。
玲央くんに会ったらどんな顔をすればいいんだろう。そんなことばかり考えて、うまく呼吸ができなかった。
靴箱の前で玲央くんを見つけた。いつもと変わらない顔をして、制服の襟を直しながら友達と何気ない話をしている。
その姿に、ほんの少しだけ救われた気がした。
きっと、普通に話してくれる。
そんな小さな希望を胸に近づこうとした、その時だった。
玲央くんと目が合った。彼は友達に「先行ってて」と声をかけ、私の方に歩いてくる。
「藤井、ちょっといい?」
玲央くんが、人気のない廊下の隅に私を連れてきた。朝の光が窓から差し込んでいる。
玲央くんは何かを迷うような表情で、しばらく黙っていた。
そして、絞り出すように言った。
「昨日のこと……」
心臓が、嫌な音を立てた。玲央くんは目をそらしながら続ける。
「なかったことにしよう」
一瞬、何を言われたのかわからなかったけど、遅れて理解した。
わかりたくなんてなかったのに、痛いほどわかってしまった。
「うん」
私は、微笑んだ。
喉の奥が焼けるように苦しかったけれど、ちゃんと笑えているはずだ。
「私も、そう思ってた」
嘘だった。
本当は、何もかも忘れたくなかった。
でもそんな本音、口が裂けても言ってはいけない。
玲央くんは、ほっとしたように小さく笑った。
そして私の頭を撫でて、何事もなかったように「またあとでな」と言って立ち去った。
私はしばらくその場に立ち尽くしたまま、何度も深呼吸を繰り返した。
涙は、意地でもこぼさなかった。
大丈夫、私なら平気だから。
そう言い聞かせながら、心の奥で何かが崩れていくのを感じていた。
*
昼休み。私は購買部で買ったパンを手に、中庭のベンチに座っていた。
初夏の風が穏やかに、木々の間を柔らかく撫でていく。それなのに、心だけが重たく沈んでいた。
「遥ー!」
明るい声がして顔を上げると、美咲ちゃんが手を振りながら駆け寄ってきた。
変わらない無邪気な笑顔。その笑顔は、今日の私には眩しすぎる。
「ねえねえ、聞いてよ!」
美咲ちゃんは隣に座るなり、嬉しそうに話し始めた。
「玲央とさ、仲直りできたんだ!」
……仲直り? 思わずパンを取り落としそうになる。
「玲央が改めてちゃんと謝ってくれて、話し合って……やっぱりお互いちゃんと好きだって確認できたの。もう大丈夫だと思う!」
美咲ちゃんはそう言って、屈託なく笑った。
ああ、そうなんだ——
私は喉に引っかかったパンを飲み込んで、やっとの思いで小さく笑った。
「よかったね」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「うんっ! 遥が相談乗ってくれたおかげだよ、ほんとありがと!」
美咲ちゃんが嬉しそうに私の腕に抱きついてくる。その温もりが、胸にじくじくと沁みる。
何も知らない美咲ちゃん。そして、知らないふりをするしかない自分。
私が昨日、玲央くんとキスしたことなんて、知らないままでいい。美咲ちゃんの幸せそうな顔を見ていると、そう思うしかなかった。
「これからは、ちゃんと玲央と向き合っていく!」
「うん、応援してるよ」
私はパンを一口かじるふりをしてうつむきながら、滲みそうになる涙を必死でごまかした。
*
夜、部屋の窓を少しだけ開けると、少し湿った夜風が頬を撫でた。カーテンがふわりと揺れる。
机の上のカレンダーは7月に入ろうとしていた。2人と出会ってもう3ヶ月が経つ。
私は机の上に置いた携帯をじっと見つめていた。画面には何も通知はない。
当然だった。玲央くんから連絡が来るわけがない。私達の間には何もなかったのだから。
ゆっくりとベッドに腰を下ろし、クッションをぎゅっと握りしめる。
呼吸を整えようとするたびに、胸の奥がきしんだ。
目を閉じたら、すぐにあの日のことが蘇る。
雨に濡れた玲央くんの髪。触れた唇の温度。
不器用な、だけど確かな腕のぬくもり。
全部、全部、嘘になった。なかったことになった。
堪えきれずに、涙が一粒、頬を伝った。
それを拭おうとした瞬間、次々とこぼれてきて、止まらなくなった。
声を出すと、堰を切ったように泣いてしまいそうで、必死に口を塞いだ。
でも、身体は小さく震えていた。
私が壊した。私が、欲張ったから。私が、手を伸ばしてしまったから。
そんな言葉が頭の中をぐるぐると回り、何度も何度も、胸を締め付ける。
この気持ちさえ持たなければ、期待さえしなければ、私は今も、何も失わずにいられたのかもしれない。
でも、後悔しても遅かった。
涙はとめどなく流れてくる。それでも明日になったら、何事もなかったふりをして笑わなきゃいけないことも分かっていた。
もう、誰にも甘えることはできない。
静かな夜の中で、私は初めて誰にも見せない涙を流した。
