「なあ藤井、ちょっといいか」

放課後、教室で荷物をまとめていると、玲央くんがふらりとやってきた。

「うん」

私は、自然なふうを装って笑みを作る。
前の席の美咲ちゃんも、なぜかそわそわと落ち着かない様子で、私達のやりとりを見ていた。

なんだろう。胸騒ぎがする。だけど、それを顔には出さないようにした。

玲央くんは、ほんの少し照れたように笑って、

「……俺、美咲と付き合うことになった」

と、告げた。

その瞬間、世界の音が一瞬、止まった気がした。

頭のどこかで理解はしているのに、心が追いつかない。
何も持っていなかったけど何かを取り落としそうな感覚があって、咄嗟に手を握り締める。

「そっか……! よかったね」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど明るかった。
驚かせないように、傷ついていないふりをするのは、もう慣れたつもりだった。

美咲ちゃんが、少し恥ずかしそうに笑う。

「ごめんね、遥ちゃん。びっくりしたよね」
「ううん。嬉しいよ」

私はにっこりと笑った。

心臓が、ぎゅっと縮まる。自分の中で何かがひとつ、音もなく崩れる感覚がした。
でもそんなこと、2人には絶対に知られたくなかった。

「じゃあ、これからも俺達のことよろしくな」

玲央くんが、ふざけたように手を差し出してくる。私は笑いながらその手を握った。

これで良かったんだ。「2人の隣」が私の居場所だから。
私は自分に言い聞かせるように、貼りつけた笑顔を崩さないよう気を張っていた。

玲央くんの「特別」にはなれない。でも、隣にはいられる。
今はそれでいいんだ。そう思わなきゃ、きっと立っていられなかった。



「最近、玲央くんとうまく話せなくてさ」

お昼休み。中庭のベンチに腰掛けながら、美咲ちゃんがぽつりとこぼした。
ベンチの上から差し込む柔らかな木漏れ日が、私達を包む。

美咲ちゃんの隣に座った私は「そうなんだ」と努めて気遣わしげな声色で答える。

「玲央、優しいんだけど……なんか、何考えてるか分からない時あるんだよね。わたしのことちゃんと好きなのかなって、不安になっちゃう」

美咲ちゃんの声は、どこか頼りなげだった。
私は胸がきゅっと痛くなるのをこらえて、微笑みを向ける。

「大丈夫だよ。玲央くんはちゃんと美咲ちゃんのこと大事に思ってると思うよ」

玲央くんの気持ちなんてわからない。
本当は、2人が上手くいかなければいいとさえ思う。
でも、私は、そう言わなきゃいけないんだ。友達だから。

美咲ちゃんは少し安心したように微笑んで、私の肩にもたれかかってきた。

「遥ちゃんに話してよかった……ありがと」

私は、そっとその重みを受け止めながら、胸の中に薄暗い思いが広がるのを感じていた。

私は、2人のなんなんだろう。
胸の奥で、そんな言葉がぼんやりと浮かんだ。



「なあ、藤井」

翌日の放課後、玲央くんが不意に声をかけてきた。

「美咲、最近なんか機嫌悪い気がするんだけど……俺、なんかしたかな」

それ、私に聞くんだ。心の中で小さく苦笑してしまう。

「うーん、別に玲央くんが悪いわけじゃないと思うよ。美咲ちゃん、ちょっと不安になってるだけじゃないかな」
「不安?」

「玲央くん、あんまり感情を表に出さないから、たまに分かりづらいとこあるじゃん」
できるだけ柔らかく言った。
玲央くんは、ちょっと考え込むような顔をしてから、照れたように笑う。

「……そっか。ありがとな」
その言葉が、胸に突き刺さる。

ありがとうって、何? そんな言葉、聞きたくないよ。
何も知らない顔で、君の恋を応援している私を肯定しないで。

「うん。頑張って」

心の中はぐちゃぐちゃだったけど、それでも私は笑顔を浮かべて、2人の恋を応援する役割に徹しようと思った。



ある日の夕方、私は図書室の隅で参考書を開いていた。もう日も暮れかけていて、校舎の窓の向こうは茜色に染まっている。
ふと、ページをめくる指先に影が差す。顔を上げると、玲央くんが立っていた。

「ここ、いい?」
「うん」

微笑んで答えると、玲央くんは隣に腰を下ろした。どこか元気がない様子だ。

「……美咲とさ、またちょっと、喧嘩した」

玲央くんは机に突っ伏してそう言った。

「俺、あいつのこと好きなのに。……なんでこんなに、うまくいかないんだろうな」

その声音は、思っていた以上に弱々しくて、胸にじんわりと沁みていく。

そっと、玲央くんの背中に視線を落とす。
こんなふうに無防備な彼を見られるのは、自分だけだ、と思ってしまう。

「玲央くんは、ちゃんと頑張ってるよ」

気づいたら、言葉がこぼれていた。

「……そうかな」

玲央くんが顔を上げる。疲れた瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

今だけでいい、私だけを見てほしい。
そんな自分勝手な願いが、喉元までせり上がる。

玲央くんはふっと笑って、そしてごく自然な仕草で、私の頭にぽんと手を置いた。

「藤井って、ほんと優しいよな」

その手の温もりに、言葉を失ってしまう。

こんなの、ずるいよ。
わかってる。これは、恋人に向けるものじゃない。ただ、弱った時に、誰かに甘えたくなっただけ。

それでも、嬉しいと思ってしまった。
心のどこかで期待してしまう自分がいた。

もしかして、私にも——
小さな、小さな希望のかけらが、胸の奥でそっと、生まれてしまった気がした。