高校2年の新学期。春の風が、制服の裾をふわりと揺らしていた。
まだ冷たさの残る空気の中に、散りつつある桜の匂いが混じっている。

私、藤井遥(ふじいはるか)は、新しい教室の窓際の席で、頬杖をつきながら校庭を見下ろしていた。
誰かが笑う声。誰かが駆け出す音。その全部が、自分から少しだけ遠い場所で起きているような気がして、私は深く息をつく。
1年の頃、同じクラスで話せていた子達とは皆クラスが離れてしまった。内気な私は、今から新しい友達を作る勇気も元気もなかった。

「藤井さんで合ってる、かな?」

ふいにかけられた声に、驚いて顔を上げる。
目の前に立っていたのは、少しクセのある黒髪に無造作な笑顔を浮かべた男の子だった。

「……うん」

小さくうなずくと、彼は迷いなく隣の席に鞄を置いた。

「席ここで合ってた。俺、長谷川玲央(はせがわれお)。よろしくな、藤井さん」

爽やかすぎる自己紹介に、少しだけ心が震える。
名前を呼ばれただけで、なんだかくすぐったい。

「藤井遥、です。こちらこそよろしく」

控えめに答えると、玲央くんは「そっか、遥ちゃんね」と勝手に呼び方を決めた。
その自然な距離の詰め方が、私にはなんだか眩しく思える。

「遥ちゃんってキャラじゃないから。藤井さんでいいよ」
「そっか。じゃあ、藤井で」

それから玲央くんと他愛のない話をしていると、教室の後ろから、ぱたぱたと駆け寄る足音が聞こえた。

「玲央! こっちだったんだ」

声と一緒に、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。
振り向くと、柔らかい茶色の髪を揺らした女の子が、にこにこと笑っていた。

「おう、美咲」

玲央くんが手を軽く上げると、彼女は、にぱっと子供みたいな笑顔を見せた。

「玲央の席、近くて良かった! あ、もしかしてお邪魔だった?」

私と玲央くんを交互に見ながら、彼女が小さく首をかしげる。その無邪気さに思わず微笑んでしまう。

「ううん、全然」
「よかったー! わたし、小野美咲(おのみさき)! 玲央とは1年の時も同じクラスだったんだ」

美咲ちゃんは嬉しそうに、私の前の席に座った。
机に肘をついて、くるくると髪を指に巻きながら、私をじっと見つめてくる。

「藤井さんって、目きれいだね。遥ちゃんって呼んでいい?」
「あ、うん……」

一瞬戸惑ったけど、頷くしかなかった。その瞬間、美咲ちゃんは本当に嬉しそうに笑った。
玲央くんと美咲ちゃん。二人との出会いに、私は心のどこかをそっと撫でられた気がした。

放課後、教室にはまだ新しいクラスメイトたちがちらほら残っていた。
私はカバンを肩にかけながら、玲央くんと美咲ちゃんが教室に残って話しているのを眺めていた。
楽しそうに笑う声。時々、顔を近づけて小声で何かを言い合う二人。

——別に、気にすることじゃない。ただの友達だよね。
そう自分に言い聞かせて、私はそっと教室を出ようとした。

「あ、遥ちゃん!」

美咲ちゃんがぱっと顔を上げて、手を振った。その隣で玲央くんも、柔らかい目でこちらを見ている。目が合って、思わずドキッとしてしまう。

「今度よかったら一緒に帰らない? 玲央もいるし!」
「あ……うん、もちろん」

美咲ちゃんの問いに答えながら、自分の声が少しだけ遅れたことに気づいた。
去年も同じクラスだったっていうけど、2人はどんな関係なの? それが少しだけ、胸に引っかかった。
けれど、まだそんなこと聞ける関係じゃない。私はその思いを心に押し込め、笑顔を作って2人に近づいた。



新学期が始まって、少しずつクラスに馴染んできたころ。
教室の片隅で私は1人、次の時間の予習のため教科書に目を落としていた。
そんな時だった。

「遥ちゃん、今日帰りにコンビニ寄らない?」

弾む声で誘ってきたのは、美咲ちゃんだ。
その隣には、制服のポケットに手を突っ込んで気だるそうに立つ玲央くんがいた。

「俺、アイス食べたい」

目が合った玲央くんがふわりと笑って、不意に胸が跳ねる。でも、そんな様子を悟られないように、私は静かにうなずいた。

3人で並んで歩く帰り道。
何を話すでもない。それでも誰かと一緒に歩く道は、1人の時とは違っていた。

コンビニでは、玲央くんが真剣な顔でアイスを選び、美咲ちゃんが「そんなに迷う?」と笑いながらつっこむ。

「やっぱチョコにしようかな……いや、バニラも捨てがたい」
「子供か!」

美咲ちゃんが玲央くんの肩を軽く小突く。玲央くんは照れくさそうに笑っている。私も、つられて笑う。
そんな何気ないやりとりが、私の胸の奥に小さな温もりを灯していった。


ある日の昼休み。図書委員の当番でカウンターにいた私の元へ、玲央くんがやってきた。

「教室にいないからどこ行ったかと思った」

そう言って図書室をうろうろしていた玲央くんは、私が読んでいた文庫本に目を留めた。

「それ、面白い?」
「うん、まあまあ。最近流行ってるよ」

私が答えると、玲央くんは「貸してよ」と軽く言った。
読書なんて、あんまり好きじゃなさそうなのに。
そんなことを思いながらも、私は「いいよ。もう読み終わってるから」と本を差し出した。
玲央くんは受け取ると、「ありがとう」とにっと笑う。

その笑顔が、私の胸にじんわりと何かを広げていく。
それは恋と名付けるにはまだ小さすぎる。だから私は気付かないふりをした。