朝起きたら、レオンがいなくなっていた。
完全室内飼いのアメリカン・ショートヘアー。つまり、猫だ。生後半年で去勢手術を終えているので、発情して飛び出したとは考えにくい。
綾子《あやこ》は会社を休んでレオンを探すことにした。普段、熱でも出さない限りは仕事を休むことなどない。派遣社員の綾子にとって、休むことは給料に直結してくる。有休はできる限り使いたくなかった。一人暮らしの綾子にとって、不必要な有休消費は本当に大変な時に自分の首を絞めかねなかった。
だが、家族であり癒やしであり、何よりも大切な愛猫レオンとなれば話は別だ。
捕獲用のキャリーバッグと、レオン愛用の猫じゃらし、そして猫缶を持って周辺を歩き回った。そんなに遠くに行くはずがない。
「レオンー! レオくーん!」
部屋の周囲、その上下階、マンションの周囲をくまなく探すものの、まったく気配がない。だからと言ってあきらめるわけにはいかない。綾子は根気強く探しまわった。
「ねぇ、あなた、ペットを探しているの?」
「え?」
突然声をかけられる。驚いて顔を上げると、中年の女が気の毒そうな顔をして立っていた。
「え、あ、はい。猫なんですが、ご存知なんですか?」
女は困ったような顔をした。
「ごめんなさい。そうじゃなくて……実は、ここ最近、ペットがいなくなったって話をよく耳にするものだから気になったのよ」
「よく?」
「ここらの周辺だけで、猫が五、六匹でしょ。犬もいなくなったって聞くし。それからインコなんかの鳥も数羽聞くわ」
「…………」
「動物って災害を察するって言うでしょう。だから大地震でも起きるんじゃないかって、ちょっとした騒ぎになっているのよ」
「……そうなんですか」
「自治会でね、ペットがいなくなったっていう話を聞いたら、報告しようってことになったの。どんな種類?」
「白と黒の縞の猫です。アメリカン・ショートヘアーって言うんですけど」
「じゃー猫ちゃんが行方不明って自治会に報告しておくわね」
「はぁ」
女はそのまま立ち去った。
(探すの手伝ってくれるわけじゃないんだ。それにしても……レオン、どこに行っちゃったんだろう)
結局、一日探しても、レオンの姿はどこにもなかった。
それから数日。
綾子は時間を作ってはレオンを探したが、見つからなかった。次第にあきらめの気持ちが心に広がっていく。部屋に戻っても誰も迎えに来てくれない現状に、限りのない寂しさを感じ始めていた。
そんな綾子の目に、テレビのニュースが飛び込んできた。
『最近、飼っているペットがいなくなる現象が日本各地で起こっています。毎日、同様の届けが出され、全国で数千件に上っています。これを受けて気象庁や地震の調査を行う関係各所は、災害の可能性を視野に入れ、警戒を呼び掛けています。また、ペットが行方不明になったという飼い主に、警察や保険所などに届けていただくよう呼び掛けも開始されました』
レポーターの言葉が耳を打った。
(ウソ、そんなに?)
綾子はふと窓の外に目をやった。
(そう言えば……最近、鳥の鳴き声を聞かなくなったような気がする)
吸い寄せられるように窓辺に向かい、窓を開ける。あれほど飛び交っていたスズメ、ハト、カラスの姿が見えない。
(外で動物を見なくなった……これって、気のせい?)
いろんなことを考えるが、自分はごく普通の派遣社員で、関係各所になにか伝えるといっても、「そんな気がするんです」とくらいしか言えない。インターネットで書き込んだところで所詮その他大勢だ。綾子は特になにか行動を起こすわけでもなく、ただ不安を感じて働くだけだった。
それから一週間ほどが過ぎた。動物の気配は完全に消えた。綾子はベランダで植物を育てているが、悪戦苦闘する虫の姿もない。それに気づいた時は、さすがにゾッとした。その時、テレビからニュースが流れてきた。動物園や、畜産業で飼育されている動物たちが暴れ出して、大騒ぎになっているというのだ。
(やっぱり、大災害でも起こるってことかなぁ。日本各地で起こっているんなら、日本全体で災害が起こるってことかな)
綾子はスコップ片手に、ベランダからテレビを眺めていたが、ふと足元に視線を取られ、俯いた。
(あれ? なんだろう、これ?)
ベランダのコンクリート、その至る所が緑色になっている。屈んでよく見ると、それは苔だった。
(水はけが悪くなった? やだなぁ、湿っぽくなったかなぁ)
仕方なく、生えている苔を丁寧に取り、ベランダの掃除に勤しんだ。終わった頃には、日が傾き始めていた。
(せっかくの日曜が掃除で終わっちゃったよ。最悪……)
翌朝、出勤前に花への水やりをしようとしてベランダに出た綾子は、「あ!」っと、声を上げた。
ベランダのコンクリートの到る所に、苔が生えていたのだ。
(なんで……昨日、綺麗に取ったのに)
朝から憂鬱になり、暗い顔をして出勤する。同僚たちがからかったが、それに応じる気にさえならなかった。
(レオンがいなくなって二週間くらい、ベランダの苔もまた取らないといけない……ついてないなぁ)
仕事を終えて帰ってからベランダの掃除をする気にもなれず、結局そのままになった。
しかし、日を追うごとに苔の占める割合が多くなり、ベランダが緑色に変わろうという勢いだ。
やっと週末がきて、綾子は朝食を取ったらすぐにベランダに出た。
「えぇ!」
窓を開けて絶句する。それからゾッと体が震え、総毛立った。
「なに、これ……」
ベランダ一面が真緑一色だった。プランターも、そのプランターで咲いていたはずの花も、ベランダに置いていた台や諸々の道具も、すべて苔に埋め尽くされていた。
綾子は飛び出し、慌てて隣のベランダを覗いた。
隣も、その隣も、上も、下も、ビッシリと苔が生えていた。
マンションの下では、居住者達がワーワーと悲壮な声を上げて騒いでいる。
(どういうこと? マンション中が苔に覆われてる……)
綾子は他の住人に話を聞こうとして部屋から飛び出した。不思議と廊下や壁などは、何の変化もなかった。
(水に触れやすいところだけってこと? だけど……増殖の仕方が半端じゃないし)
エレベーターを降り、外に出る。青ざめた住人たちが管理人を中心にして集まっている。その輪の中に入った。
「すぐに業者を呼んで除去します。苔の生えているのは外に面した水に晒される場所ばかりで、ベランダや出入り口だけじゃないですから。日程は決まり次第、エントランスに張り出します。都合の悪い方はすぐに連絡ください」
管理人が青ざめながら、半ば怒鳴るように言っている。
綾子はマンションを見上げた。外から見た姿は異様だ。外壁という外壁が、ギッシリと苔で覆い尽くされていた。
「昨夜、雨が降ったみたいだ」
隣で初老の男が話している。
「駐車場からなにから、濡れている場所は苔で覆われて大変なことになっている」
「気持ち悪いですよね」
「業者ってすぐ来てくれるのかなぁ」
さらに別のところでも、ブツブツと会話をしている者がいる。
「ここだけじゃないから……周辺のマンションから道からなにから、どこもかしこも苔でビッシリ……苔の生えていないのは、土の上だけだ」
そう話をしているのを聞き、綾子は改めて周囲を見渡した。確かに花壇の土にはなぜか苔が生えてはいない。生えているのは、もっぱらアスファルトやコンクリート、そして石や物だった。
綾子は気持ちが悪くなり、部屋に戻ることにした。
(世界中が苔に覆われたら……どうなるんだろう? 道路とか、線路とか……)
翌朝、綾子は凄まじい怒声によって起こされた。飛び起きてなにが起こったのかキョロキョロと見回す。すると隣から再び怒声が轟いてきた。
「やめないか! 麻衣子《まいこ》! やめろってば!」
声はベランダから響いてくる。飛び出して覗くと、隣の奥さんがベランダから身を乗り出して、飛び下りようとしているところだった。それを夫が止めようとしているのだ。
「放して! 死ぬのよ! みんな死ぬんだわ! 苔に覆われて、みんな死ぬのよーー!」
「麻衣子! やめろ!!」
奥さんの目が完全にイっている。その目に綾子は震えた。だがほっておくこともできない。綾子は隣から叫んだ。
「前田さん! 死なないから、苔なんかで死んだりしないから! しっかりしてください!」
綾子の言葉に、隣の奥さんはビクリと震え、焦点の合わない目で麻衣子を見た。
「前田さん、死んではいけないわ」
「嘘よ。だって、苔が襲ってくるんだから。私の目の前で、どんどん……どんどん増えていったのよ! 止められないわ。みんな苔に覆われるのよ。どうして死なないってわかるのよ!」
「所詮、苔じゃないですか! 根気よく取っていけばいいだけですよ! その間に、良い策が出てくるはずだもの。そんなに簡単にあきらめてどうするのよ」
「嘘よ! 嘘だわ!」
間もなくパトカーと救急車がやってきた。誰かが呼んだのだろう。管理人が扉を開け、中に誘導した。警察や救急隊員のおかげで隣の騒ぎは事なきを得た。しかし、似たような事件が綾子の周辺は勿論、各地で起こり始め、その数は日に日に多くなっていた。
日常の、なんのことはない生活が、少しずつ狂い始めていた。人々が蓄積していくストレスに疲労の色を濃くし始めていた。というのも、道路にはびこる苔のおかげで慢性的な渋滞や、事故が発生し、すべての事柄が遅延し始めたのだ。
鉄道会社は線路に苔がはびこり、その除去に四苦八苦だった。その影響で全体的に速度が落ち、また止まることもあって遅れが日常茶飯事となった。物資の流通が遅れると、当然生活を直撃した。水のある所は急速に苔が増殖し、どこもかしこも緑色に染まっている。苔の除去に多くの時間と費用がかかり、人々の生活を大きく変えようとしていた。
綾子は夜中に目を覚ました。激しい雨と風の音がする。起き上がって窓の外を見た。
「?」
窓がなにかに覆われていて、まったく見えない。なんだろうと思って、その窓を開けた!
「あ……あ!」
緑色の塊がうねるように周囲に広がっていた。ベランダやマンションの外壁は勿論、マンションの周辺、道路、周囲の家々、何もかもすべてが覆われ、緑一色に染まっていた。
しかし、悲劇はそんなことではなかった。
雨が綾子に降りかかる。部屋の中にわずかと降り注ぐ。その雨を追うように、苔が猛烈な勢いで飛びかかってきた。そして濡れた綾子の体と、部屋のフローリングにこびりついた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ――――――――――!」
真夜中のマンションに、綾子の悲鳴が轟き渡った。
完全室内飼いのアメリカン・ショートヘアー。つまり、猫だ。生後半年で去勢手術を終えているので、発情して飛び出したとは考えにくい。
綾子《あやこ》は会社を休んでレオンを探すことにした。普段、熱でも出さない限りは仕事を休むことなどない。派遣社員の綾子にとって、休むことは給料に直結してくる。有休はできる限り使いたくなかった。一人暮らしの綾子にとって、不必要な有休消費は本当に大変な時に自分の首を絞めかねなかった。
だが、家族であり癒やしであり、何よりも大切な愛猫レオンとなれば話は別だ。
捕獲用のキャリーバッグと、レオン愛用の猫じゃらし、そして猫缶を持って周辺を歩き回った。そんなに遠くに行くはずがない。
「レオンー! レオくーん!」
部屋の周囲、その上下階、マンションの周囲をくまなく探すものの、まったく気配がない。だからと言ってあきらめるわけにはいかない。綾子は根気強く探しまわった。
「ねぇ、あなた、ペットを探しているの?」
「え?」
突然声をかけられる。驚いて顔を上げると、中年の女が気の毒そうな顔をして立っていた。
「え、あ、はい。猫なんですが、ご存知なんですか?」
女は困ったような顔をした。
「ごめんなさい。そうじゃなくて……実は、ここ最近、ペットがいなくなったって話をよく耳にするものだから気になったのよ」
「よく?」
「ここらの周辺だけで、猫が五、六匹でしょ。犬もいなくなったって聞くし。それからインコなんかの鳥も数羽聞くわ」
「…………」
「動物って災害を察するって言うでしょう。だから大地震でも起きるんじゃないかって、ちょっとした騒ぎになっているのよ」
「……そうなんですか」
「自治会でね、ペットがいなくなったっていう話を聞いたら、報告しようってことになったの。どんな種類?」
「白と黒の縞の猫です。アメリカン・ショートヘアーって言うんですけど」
「じゃー猫ちゃんが行方不明って自治会に報告しておくわね」
「はぁ」
女はそのまま立ち去った。
(探すの手伝ってくれるわけじゃないんだ。それにしても……レオン、どこに行っちゃったんだろう)
結局、一日探しても、レオンの姿はどこにもなかった。
それから数日。
綾子は時間を作ってはレオンを探したが、見つからなかった。次第にあきらめの気持ちが心に広がっていく。部屋に戻っても誰も迎えに来てくれない現状に、限りのない寂しさを感じ始めていた。
そんな綾子の目に、テレビのニュースが飛び込んできた。
『最近、飼っているペットがいなくなる現象が日本各地で起こっています。毎日、同様の届けが出され、全国で数千件に上っています。これを受けて気象庁や地震の調査を行う関係各所は、災害の可能性を視野に入れ、警戒を呼び掛けています。また、ペットが行方不明になったという飼い主に、警察や保険所などに届けていただくよう呼び掛けも開始されました』
レポーターの言葉が耳を打った。
(ウソ、そんなに?)
綾子はふと窓の外に目をやった。
(そう言えば……最近、鳥の鳴き声を聞かなくなったような気がする)
吸い寄せられるように窓辺に向かい、窓を開ける。あれほど飛び交っていたスズメ、ハト、カラスの姿が見えない。
(外で動物を見なくなった……これって、気のせい?)
いろんなことを考えるが、自分はごく普通の派遣社員で、関係各所になにか伝えるといっても、「そんな気がするんです」とくらいしか言えない。インターネットで書き込んだところで所詮その他大勢だ。綾子は特になにか行動を起こすわけでもなく、ただ不安を感じて働くだけだった。
それから一週間ほどが過ぎた。動物の気配は完全に消えた。綾子はベランダで植物を育てているが、悪戦苦闘する虫の姿もない。それに気づいた時は、さすがにゾッとした。その時、テレビからニュースが流れてきた。動物園や、畜産業で飼育されている動物たちが暴れ出して、大騒ぎになっているというのだ。
(やっぱり、大災害でも起こるってことかなぁ。日本各地で起こっているんなら、日本全体で災害が起こるってことかな)
綾子はスコップ片手に、ベランダからテレビを眺めていたが、ふと足元に視線を取られ、俯いた。
(あれ? なんだろう、これ?)
ベランダのコンクリート、その至る所が緑色になっている。屈んでよく見ると、それは苔だった。
(水はけが悪くなった? やだなぁ、湿っぽくなったかなぁ)
仕方なく、生えている苔を丁寧に取り、ベランダの掃除に勤しんだ。終わった頃には、日が傾き始めていた。
(せっかくの日曜が掃除で終わっちゃったよ。最悪……)
翌朝、出勤前に花への水やりをしようとしてベランダに出た綾子は、「あ!」っと、声を上げた。
ベランダのコンクリートの到る所に、苔が生えていたのだ。
(なんで……昨日、綺麗に取ったのに)
朝から憂鬱になり、暗い顔をして出勤する。同僚たちがからかったが、それに応じる気にさえならなかった。
(レオンがいなくなって二週間くらい、ベランダの苔もまた取らないといけない……ついてないなぁ)
仕事を終えて帰ってからベランダの掃除をする気にもなれず、結局そのままになった。
しかし、日を追うごとに苔の占める割合が多くなり、ベランダが緑色に変わろうという勢いだ。
やっと週末がきて、綾子は朝食を取ったらすぐにベランダに出た。
「えぇ!」
窓を開けて絶句する。それからゾッと体が震え、総毛立った。
「なに、これ……」
ベランダ一面が真緑一色だった。プランターも、そのプランターで咲いていたはずの花も、ベランダに置いていた台や諸々の道具も、すべて苔に埋め尽くされていた。
綾子は飛び出し、慌てて隣のベランダを覗いた。
隣も、その隣も、上も、下も、ビッシリと苔が生えていた。
マンションの下では、居住者達がワーワーと悲壮な声を上げて騒いでいる。
(どういうこと? マンション中が苔に覆われてる……)
綾子は他の住人に話を聞こうとして部屋から飛び出した。不思議と廊下や壁などは、何の変化もなかった。
(水に触れやすいところだけってこと? だけど……増殖の仕方が半端じゃないし)
エレベーターを降り、外に出る。青ざめた住人たちが管理人を中心にして集まっている。その輪の中に入った。
「すぐに業者を呼んで除去します。苔の生えているのは外に面した水に晒される場所ばかりで、ベランダや出入り口だけじゃないですから。日程は決まり次第、エントランスに張り出します。都合の悪い方はすぐに連絡ください」
管理人が青ざめながら、半ば怒鳴るように言っている。
綾子はマンションを見上げた。外から見た姿は異様だ。外壁という外壁が、ギッシリと苔で覆い尽くされていた。
「昨夜、雨が降ったみたいだ」
隣で初老の男が話している。
「駐車場からなにから、濡れている場所は苔で覆われて大変なことになっている」
「気持ち悪いですよね」
「業者ってすぐ来てくれるのかなぁ」
さらに別のところでも、ブツブツと会話をしている者がいる。
「ここだけじゃないから……周辺のマンションから道からなにから、どこもかしこも苔でビッシリ……苔の生えていないのは、土の上だけだ」
そう話をしているのを聞き、綾子は改めて周囲を見渡した。確かに花壇の土にはなぜか苔が生えてはいない。生えているのは、もっぱらアスファルトやコンクリート、そして石や物だった。
綾子は気持ちが悪くなり、部屋に戻ることにした。
(世界中が苔に覆われたら……どうなるんだろう? 道路とか、線路とか……)
翌朝、綾子は凄まじい怒声によって起こされた。飛び起きてなにが起こったのかキョロキョロと見回す。すると隣から再び怒声が轟いてきた。
「やめないか! 麻衣子《まいこ》! やめろってば!」
声はベランダから響いてくる。飛び出して覗くと、隣の奥さんがベランダから身を乗り出して、飛び下りようとしているところだった。それを夫が止めようとしているのだ。
「放して! 死ぬのよ! みんな死ぬんだわ! 苔に覆われて、みんな死ぬのよーー!」
「麻衣子! やめろ!!」
奥さんの目が完全にイっている。その目に綾子は震えた。だがほっておくこともできない。綾子は隣から叫んだ。
「前田さん! 死なないから、苔なんかで死んだりしないから! しっかりしてください!」
綾子の言葉に、隣の奥さんはビクリと震え、焦点の合わない目で麻衣子を見た。
「前田さん、死んではいけないわ」
「嘘よ。だって、苔が襲ってくるんだから。私の目の前で、どんどん……どんどん増えていったのよ! 止められないわ。みんな苔に覆われるのよ。どうして死なないってわかるのよ!」
「所詮、苔じゃないですか! 根気よく取っていけばいいだけですよ! その間に、良い策が出てくるはずだもの。そんなに簡単にあきらめてどうするのよ」
「嘘よ! 嘘だわ!」
間もなくパトカーと救急車がやってきた。誰かが呼んだのだろう。管理人が扉を開け、中に誘導した。警察や救急隊員のおかげで隣の騒ぎは事なきを得た。しかし、似たような事件が綾子の周辺は勿論、各地で起こり始め、その数は日に日に多くなっていた。
日常の、なんのことはない生活が、少しずつ狂い始めていた。人々が蓄積していくストレスに疲労の色を濃くし始めていた。というのも、道路にはびこる苔のおかげで慢性的な渋滞や、事故が発生し、すべての事柄が遅延し始めたのだ。
鉄道会社は線路に苔がはびこり、その除去に四苦八苦だった。その影響で全体的に速度が落ち、また止まることもあって遅れが日常茶飯事となった。物資の流通が遅れると、当然生活を直撃した。水のある所は急速に苔が増殖し、どこもかしこも緑色に染まっている。苔の除去に多くの時間と費用がかかり、人々の生活を大きく変えようとしていた。
綾子は夜中に目を覚ました。激しい雨と風の音がする。起き上がって窓の外を見た。
「?」
窓がなにかに覆われていて、まったく見えない。なんだろうと思って、その窓を開けた!
「あ……あ!」
緑色の塊がうねるように周囲に広がっていた。ベランダやマンションの外壁は勿論、マンションの周辺、道路、周囲の家々、何もかもすべてが覆われ、緑一色に染まっていた。
しかし、悲劇はそんなことではなかった。
雨が綾子に降りかかる。部屋の中にわずかと降り注ぐ。その雨を追うように、苔が猛烈な勢いで飛びかかってきた。そして濡れた綾子の体と、部屋のフローリングにこびりついた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ――――――――――!」
真夜中のマンションに、綾子の悲鳴が轟き渡った。



