「ああ、もう眠い」
僕についてくる羽田は、ずっとそんなふうにぼやいていた。
「授業中ずっと寝てるだろ」
僕は振り返ることなく言った。次の授業で使う大量のレジュメを教室に運んでいるところだった。休憩時間なのでとにかく廊下はうるさい。走るなというのに生徒たちは走るし、こっちは両手で抱えているというのに前からやってきて、しかもよけようともしない。
「お、ハタ坊、なにパシリしてんの」
よそのクラスの水泳部員だろう、羽田に話しかけてきた。
「おうよ、なにせクラス委員だからな、副だけど」
羽田がなぜか威張って答えた。ネタで選ばれただけだろ、と言ってやりたかったが、黙っていた。
「へーっ、お前部長になるのも嫌がったのに」
「ああ、部長になったらいろいろ面倒だしな、俺は泳ぎたいだけだから」
「なんかかっこいいことぬかしてますけど」
水泳部員は笑って去っていった。
僕は思わず立ち止まり、なにも考えずに歩いていた羽田がつんのめった。
「いきなり止まるなよ」
羽田が口をとがらせた。
「部長になるくらいに慕われてたんだな」
「誰もやりたがらなくって、適当に押し付けられそうになっただけだけど」
「だったら、部長になったやつ、かわいそうだな」
僕は言った。自分だって、べつに委員なんてやりたいわけではない。目立たず、自分のやりたいことをやっていればいい。教室や廊下でやたらめったらはしゃいでいる生徒みたいに。
「別に。ほんとうはやりたそうだったやつがいたから、さ」
羽田が僕の横を歩いた。
「邪魔だから」
「さーせん」
そう言って羽田は後ろにまわった。「東雲はやっぱすげーな」
「なにが」
また僕は止まり、振り返った。
「だから、いきなり止まるなって」
羽田が慌てて言った。「こんなとこでプリントばらまいたら地獄だろ」
「だからなにが?」
「は?」
「さっきなんかつまんないこと言ってたろ」
「だから、部長をやりたいっていうやつがいたんだよ、でも自分からは言えないっぽかったから」
「そこじゃない」
「なに? キレてんの?」
「どうすりゃそうなるんだ」
「いや、はい」
羽田が不満げに頷いた。
「お前になにがわかるんだよ」
僕は言った。子供じみたセリフを口にしてしまい、恥ずかしくなった。
「なんも。でもすげーじゃん、成績いいし、クラス委員に全員が投票してたし」
「一票お前んとこ入ったけど」
「あれ誰かのネタだろ」
「……」
僕は羽田を見た。
「なに」
「誰かじゃなくて上原だろ」
「そりゃネタだろ」
と笑った。
「たぶん、上原は僕のことを嫌いなんだろ」
「そんなわけないじゃん。お前のこと嫌いなやついなくないすか」
「それ」
僕は次の言葉をのみこんだ。都合がいいだけだろ。
「恭一のこと好きなの?」
羽田がさらりと言った。
「なんでそうなる!」
「いや、誰が誰を好きだっていいじゃん。俺べつにそういうのどうでもいいし」
「ちょっと話題にしたら好きとか、小学生かよ」
僕は舌打ちした。「どっちかといったら」
「なに?」
「上原とお前が付き合ってるんじゃないの?」
嫌味のつもりだった。
羽田が困った顔をした。
「クソすぎる」
と声がした。「そういう目でしか見れないとか溜まってんじゃないの?」
上原が教室の入り口に立っていた。僕のことを睨みつけながら、羽田の持っていた束を奪って教室に入っていった。
「あいつは、潔癖だから。下ネタとか恋バナとか。ましてや昔っからあいつ、俺とどうこうってバカにされると豹変して相手に殴りかかったりして、俺でも手に負えないんだよ。そういうの、やめてくんないかな」
羽田が教室に入ろうとして、止まった。
「あと、俺言わないから」
「え」
「昨日、プールで見てた。あいつ、一年のとき退学になった金城だろ」
「別に、お前に関係」
「うん、ない。だから言わない。興味ねーし。俺も言わないから、お前も上原には、な」
羽田が教室に入っていった。
僕は入るのを躊躇していると、チャイムが鳴った。
授業が終わり、いつものようにさっさと羽田が出ていったときだ。
「ちょっと待てよ」
僕は急いで後を追った。
「なに。別にクラス委員の仕事とかないだろ」
僕のほうを見ずに羽田は言った。
「さっきの話なんだけど」
「さっき? 恭一のことか」
「違う。昨日プールで見てたんだろ」
「ああ」
羽田が立ち止まった。
「ごめんな」
「謝る理由がわからん」
「だって盗み聞きしちゃったし」
「素直か」
「意外じゃん。最初カツアゲされてんのかと思ったから、もしそうなったら大声出してやろうか、そこらへんのビート板投げつけてやろうかと思ったんだけど」
羽田が頭を掻いた。「あいつ、もしかしてかまってちゃん?」
「どうすりゃそうなんだよ」
「なんか悩み聞いてほしいんだけど上手く言えなくて、粘着してるように見えたから。というか、寂しいのかもな、って」
ぼくは羽田の話を聞きながら、金城のことを考えた。僕は、自分が他人にどう見えるかを気にしていたけれど、他人がどんな気持ちでいるのかまで考えていなかったかもしれない。でも、そこまで考えてやれる余裕は、自分にはない。
金城が寂しい? なんで関係のないやつのことを、羽田はそんなふうに言うのだろう。僕のことは、「すげえなあ」か。見誤っている。
「まあ、もしなんかあったら先生に言ったほうがいいんじゃない」
さりげなく言われ、勝手に僕は突き放された気がした。
「言わない」
「大人は信じらんないってやつっすか。青いねえ」
「なんだそれ」
「俺はさ、年上にはとことん甘えることにしてるんだ」
羽田が曲がろうとしたときだ。
「そんなこと、できるわけないだろ」
僕は羽田の背中を思い切り叩いた。やっぱりこいつの見ているなにもかもが、僕と違いすぎる。
「あ」
一瞬、なにもかもが止まった気がした。
でも止まったからといって、なんとかすることもできなかった。自分がしてしまったことに、驚いて。目の前で起きたことに絶句して。
羽田が階段を転げ落ちた。
僕についてくる羽田は、ずっとそんなふうにぼやいていた。
「授業中ずっと寝てるだろ」
僕は振り返ることなく言った。次の授業で使う大量のレジュメを教室に運んでいるところだった。休憩時間なのでとにかく廊下はうるさい。走るなというのに生徒たちは走るし、こっちは両手で抱えているというのに前からやってきて、しかもよけようともしない。
「お、ハタ坊、なにパシリしてんの」
よそのクラスの水泳部員だろう、羽田に話しかけてきた。
「おうよ、なにせクラス委員だからな、副だけど」
羽田がなぜか威張って答えた。ネタで選ばれただけだろ、と言ってやりたかったが、黙っていた。
「へーっ、お前部長になるのも嫌がったのに」
「ああ、部長になったらいろいろ面倒だしな、俺は泳ぎたいだけだから」
「なんかかっこいいことぬかしてますけど」
水泳部員は笑って去っていった。
僕は思わず立ち止まり、なにも考えずに歩いていた羽田がつんのめった。
「いきなり止まるなよ」
羽田が口をとがらせた。
「部長になるくらいに慕われてたんだな」
「誰もやりたがらなくって、適当に押し付けられそうになっただけだけど」
「だったら、部長になったやつ、かわいそうだな」
僕は言った。自分だって、べつに委員なんてやりたいわけではない。目立たず、自分のやりたいことをやっていればいい。教室や廊下でやたらめったらはしゃいでいる生徒みたいに。
「別に。ほんとうはやりたそうだったやつがいたから、さ」
羽田が僕の横を歩いた。
「邪魔だから」
「さーせん」
そう言って羽田は後ろにまわった。「東雲はやっぱすげーな」
「なにが」
また僕は止まり、振り返った。
「だから、いきなり止まるなって」
羽田が慌てて言った。「こんなとこでプリントばらまいたら地獄だろ」
「だからなにが?」
「は?」
「さっきなんかつまんないこと言ってたろ」
「だから、部長をやりたいっていうやつがいたんだよ、でも自分からは言えないっぽかったから」
「そこじゃない」
「なに? キレてんの?」
「どうすりゃそうなるんだ」
「いや、はい」
羽田が不満げに頷いた。
「お前になにがわかるんだよ」
僕は言った。子供じみたセリフを口にしてしまい、恥ずかしくなった。
「なんも。でもすげーじゃん、成績いいし、クラス委員に全員が投票してたし」
「一票お前んとこ入ったけど」
「あれ誰かのネタだろ」
「……」
僕は羽田を見た。
「なに」
「誰かじゃなくて上原だろ」
「そりゃネタだろ」
と笑った。
「たぶん、上原は僕のことを嫌いなんだろ」
「そんなわけないじゃん。お前のこと嫌いなやついなくないすか」
「それ」
僕は次の言葉をのみこんだ。都合がいいだけだろ。
「恭一のこと好きなの?」
羽田がさらりと言った。
「なんでそうなる!」
「いや、誰が誰を好きだっていいじゃん。俺べつにそういうのどうでもいいし」
「ちょっと話題にしたら好きとか、小学生かよ」
僕は舌打ちした。「どっちかといったら」
「なに?」
「上原とお前が付き合ってるんじゃないの?」
嫌味のつもりだった。
羽田が困った顔をした。
「クソすぎる」
と声がした。「そういう目でしか見れないとか溜まってんじゃないの?」
上原が教室の入り口に立っていた。僕のことを睨みつけながら、羽田の持っていた束を奪って教室に入っていった。
「あいつは、潔癖だから。下ネタとか恋バナとか。ましてや昔っからあいつ、俺とどうこうってバカにされると豹変して相手に殴りかかったりして、俺でも手に負えないんだよ。そういうの、やめてくんないかな」
羽田が教室に入ろうとして、止まった。
「あと、俺言わないから」
「え」
「昨日、プールで見てた。あいつ、一年のとき退学になった金城だろ」
「別に、お前に関係」
「うん、ない。だから言わない。興味ねーし。俺も言わないから、お前も上原には、な」
羽田が教室に入っていった。
僕は入るのを躊躇していると、チャイムが鳴った。
授業が終わり、いつものようにさっさと羽田が出ていったときだ。
「ちょっと待てよ」
僕は急いで後を追った。
「なに。別にクラス委員の仕事とかないだろ」
僕のほうを見ずに羽田は言った。
「さっきの話なんだけど」
「さっき? 恭一のことか」
「違う。昨日プールで見てたんだろ」
「ああ」
羽田が立ち止まった。
「ごめんな」
「謝る理由がわからん」
「だって盗み聞きしちゃったし」
「素直か」
「意外じゃん。最初カツアゲされてんのかと思ったから、もしそうなったら大声出してやろうか、そこらへんのビート板投げつけてやろうかと思ったんだけど」
羽田が頭を掻いた。「あいつ、もしかしてかまってちゃん?」
「どうすりゃそうなんだよ」
「なんか悩み聞いてほしいんだけど上手く言えなくて、粘着してるように見えたから。というか、寂しいのかもな、って」
ぼくは羽田の話を聞きながら、金城のことを考えた。僕は、自分が他人にどう見えるかを気にしていたけれど、他人がどんな気持ちでいるのかまで考えていなかったかもしれない。でも、そこまで考えてやれる余裕は、自分にはない。
金城が寂しい? なんで関係のないやつのことを、羽田はそんなふうに言うのだろう。僕のことは、「すげえなあ」か。見誤っている。
「まあ、もしなんかあったら先生に言ったほうがいいんじゃない」
さりげなく言われ、勝手に僕は突き放された気がした。
「言わない」
「大人は信じらんないってやつっすか。青いねえ」
「なんだそれ」
「俺はさ、年上にはとことん甘えることにしてるんだ」
羽田が曲がろうとしたときだ。
「そんなこと、できるわけないだろ」
僕は羽田の背中を思い切り叩いた。やっぱりこいつの見ているなにもかもが、僕と違いすぎる。
「あ」
一瞬、なにもかもが止まった気がした。
でも止まったからといって、なんとかすることもできなかった。自分がしてしまったことに、驚いて。目の前で起きたことに絶句して。
羽田が階段を転げ落ちた。


